同人誌でいうと6巻の真ん中あたり。読んでいなくとも大丈夫です。
その日、リオンはジョカにひとつお願いをした。
発端は、先日、ジョカが簡略な地図を書いたことにある。この地域のものではなく、遥か彼方の。
世界が、いまだ未知のベールに包まれている時代の話である。
世界の姿を知る人間など一人もおらず、リオンが身近に知るのは、この近隣諸国のみであった。
そして、書籍や遠路はるばる運ばれてきた交易品から、東方にも国があるらしい、ということは知っていた。
近隣諸国と、伝聞でかすかに伝え聞く東方諸国。それがリオンの思い描いていたこの「世界」のかたちだった。
だが、ジョカは、書物でですら見たことも聞いたこともない、存在さえ知らなかった大陸の姿かたちを描いてみせたのだ。リオンの目の前で。
ひょっとして、彼は、世界の姿を知っているのではないか――そう思い、リオンはジョカに尋ねた。
「ジョカは、世界地図を知っているか?」
「知ってるけど?」
さも当然という風に平然と答えられ、リオンはしばしよろめいた。
しかし、予想していたことである。
この世界唯一の魔法使いは、知識においては深淵の極みにあり、他者の追随を許さない。
何とか衝撃から立ち直り、リオンはお願いした。
「私に、世界の姿を、教えてくれないか?」
と。
「いいよ」
即答であった。
たやすく諾がもらえるとは思っていなかったリオンは、呆気にとられた。
ジョカはリオンの勉強用に大量に確保した紙を一枚取り上げ、ペンをとり――そこで、頭をがしがしと掻いた。
「……どう書こうかなぁ……」
「どう……ってあるがままに書いてほしいんだが」
「いや、あるがままっつっても……」
「ああ、絵心の有無か? 概略図でいいんだが」
「いや、そういうのじゃなくて。元々概略図で描くつもりだったし。書き方、ってゆーか」
「縮尺のことか?」
「いや、縮尺はこの紙に入るぐらいにするつもりだったから……そうじゃなくてな。丸いものを平面に起こすのは難しいんだ」
「……まるいもの? 私は地図が見たいんだが……」
「――よし、わかった」
ジョカはぽんと手を一つ叩くと、短い呪文を唱えて黒い粘土を出し、また別の呪文で粘土を球体にし、更に別の呪文で粘土を白くして、宙に浮かべた。
そして、ジョカは白い球を指して言う。
「これ、が、世界だ」
しばしの沈黙が下りた。
「……私をからかっているのか?」
沈黙ののち、リオンが言ったのは、そんな言葉だった。
「ちがう、ちがう。世界はな。丸いの。球なの。こういう形なの」
リオンは考えこんだ。
他の誰かが同じことを言えば何を馬鹿なことを、で終わりにしてしまう話だが、言っているのはジョカである。
世界で最も博識と言って過言ではないジョカである。
世界最後の魔術師である。
そのジョカは、リオンが考えている間に、筆でさらさらとその白い球に絵を描いていく。
なかなか達者な筆遣いで、簡略された絵であることもあり、すぐに書き終えた。
「これが、世界。で、これが大陸の形」
「……本当に、球なのか?」
「そう」
「地面は……平らだろう? そうでなければなんで私たちは立っているんだ?」
この世界で、最高レベルの教養を持つリオンにしてからが、荒唐無稽としか思えないジョカの主張である。
ジョカは苦笑した。
「空を飛んだとき、地平線が見えただろう?」
「あ、ああ……」
「船乗りたちも、水平線を見るだろう?」
「ああ」
それらは、常識の部類に属することである。
「なんで、水平線が見えるんだ?」
そう言われた時、リオンはとっさに返せなかった。
「それは……そういう、もので」
水平線があるのは知っている。でも、それが何故か、そこまで深く考えたことが、なかったのだ。
それは、「そういうものだから」で、済ませてきたために。
これまで、疑うこともなく、考えたこともなかったために。
「仮に、大地が平らだとしよう。そうなら、山とかに視界を遮られない限り、遥か彼方、ずっと向こうまで見えるはずだろう?」
「……」
「水平線があるのは、大地が丸いからだ。丸いから、一点に立っていて、向こうを見ても、こう……」
ジョカは定規を取り出し、球に当てた。
当然、定規が球に触れるのは一か所で、定規のほとんどの部分は宙に浮く。
「こんな風に、見える限界がある。球だからな。簡単に言えば、それが地平線や水平線の正体だ」
「……ちょっと、まってくれ」
リオンはジョカの説明を押しとどめた。
「球? ……それなら、どうして、私たちは滑って落ちないんだ? ここが偶然球の頂上なのか?」
「ちがうちがう」
ジョカは、そこで、鉛と紐を取り出した。(借金のカタとして取り上げたとも言う)。
そして紐の先端に鉛を縛りつけ、垂らした。
「こうして物体を垂らす。何の力も込めずにな。さて、鉛は下に垂れるな? どうしてだと思う?」
「どうしてって……そういう、ものじゃないか」
いきなり始まった、自分のこれまでの常識をぶち壊し、疑う作業に、リオンの頭は混乱状態だった。
「ちがう。いいか、鉛は、とある一点に向けて、引っ張られているんだ。それは、人も、鳥も、りんごも、すべてに働く力だ。だから、ジャンプしても俺たちの体は下に落ちるし、鉛も下に垂れる。で、その一点というのがどこかというと、この球のど真ん中。中心だ」
「……磁石でも、ついてるのか?」
それを言うのが精いっぱいだった。
「うーん、惜しい。まあ磁石みたいなものではあるかも。とにかく、その力によって、俺たちの足は、大地に吸いつけられているんだ。だから、ほら。ジャンプしても必ず地面に着地するだろう? そういう力がないんだとしたら、どうしてだと思う?」
「……そ、そういうもの、じゃないか」
またも、同じ言葉しか出なかった。
常識中の常識、どうして飛び跳ねたら着地するのか、なんてものまで問われて、リオンは自分が何も知らない事に気づく。
そう、そういうもの、で片づけて、理由など考えてみたこともなかったのだ。
愕然としているリオンに、ジョカは優しく言う。
「頭の良さと、知識量はまるでちがうものだ。リオン。俺がお前に教えられるのは、ただ単に、俺がそれを知っていたから。それだけに過ぎない。俺がお前の立場なら、同じように困惑するしかない。恥じる必要はないんだ」
「……その、磁力みたいな力で、私たちの足が大地に吸いつけられていて、落ちないのか? それならそれで、どうして丸く見え……あ」
どうして、丸く見えないのか。
その答えは、もう聞いた。
優秀な生徒に、ジョカは楽しそうに笑う。
「そうそう。地平線だよ。この大地はあまりに大きすぎて、球の上にいるとは実感できない。人間や動物のスケールだと、まるで平面と錯覚するほど、大きいんだ。ただ、平面ならあり得ない現象のひとつが、地平線だ」
「……」
頭がぐらぐら煮立っているリオンの状態にジョカは苦笑を洩らし、勉強はそこまでにした。
リオンの前に、先ほど絵を描いた玉を浮かばせ、ぐるりと回転させて、一点を示した。
「これが、世界のかたち。そして、ここが、ルイジアナだ。見覚えのある地形だろう?」
ほんの、ちょっぴり。
この玉のなかで、とてもとても小さな面積。
そこだけが意識的に詳しく書かれている。他は、大陸の輪郭をざっくばらんに流し書きしただけなのに、そこだけは詳細に。
たぶん……いや絶対に、リオンが理解しやすいように、だろう。
「……ちいさい……」
「親指の爪……もないな」
玉は、大玉の西瓜(すいか)ほどだ。
その世界図の中で、ルイジアナは、小指の爪ほどもない。
リオンが知っていた「世界」の範囲を見ても、まだ狭い。
「……この地域は……これだけ、なのか?」
「そう」
リオンは愕然として、世界唯一の「世界地図」を見ていた。
やがてこわごわとその玉に触れ、仔細に眺める。
「……こんなに……せまいのか……。あの国も、この国も、この地域すべてひっくるめても、掌の半分ほどしかない」
王太子時代、頭を悩ませた諸国間の関係。
それが、たった、これだけの、こんなちっぽけなものだったなんて。
リオンは、手元の玉に見入る。
ルイジアナ近辺以外は、本当に流し書きで、大陸の輪郭がざっと書かれているだけだ。それでも、大体の形は見てとれる。
ジョカが、さらさらと、何か文献を見るでもなく書き上げた世界地図。それは、彼の頭の中に世界の形が入っているからだろう。
「……世界は、広いな……」
「広いよ」
ジョカはにっこり笑った。
「んで、その広い世界で唯一の魔術師が、俺」
リオンは改めて、ジョカを見やった。
ジョカは悠然と笑っている。
「自信を持ちなさい? お前は、俺の、たったひとりの『ご主人様』なんだから」
私たちが世界地図をぱっと頭に思い浮かべられるのは、それがすでに流通していて、見たことがあるからです。
しかしそれは、「正確な世界の姿」ではなく、メルカトル図法で修正をかけてある姿です。
球体の世界を平面に起こすには、実物に修正(歪み)をしなければいけません。
ジョカが地図を紙に書けなかったのは、そんなわけです。とっさにできる作業ではないので……。
完全にジョカだけ文化水準が違いますが、その理由はおいおい。
→ BACK → NEXT
関連記事
スポンサーサイト
Information
Comment:0