リオンは、ジョカの手抜きの世界地図を、それはそれは大事そうに、飽きることを知らぬ気に眺めていた。
顔は上気し、目はわくわくという言葉を具現化したようで……。
「男の子」の冒険心を刺激してやまない代物に、夢中になっている。
目がきらきらしているそんな姿は、年齢不相応に大人びたリオンには大層珍しい。
それを見ていると、ジョカとしては良心が痛んでくるのである。手抜きなだけに。
粘土を成型して球にし、表面を素焼で固めて筆で流し書きしただけだ。そんなに熱心に眺められると、こう……。
というわけで、ジョカはリオンから世界地図を取り上げた。
「あ……っ」
「ほい」
そして、新しく書いた世界地図(玉)を渡した。
世界は、未知と、冒険が詰まっている。
新しく、より精巧で、詳細で、着色された世界地図を見て、リオンは顔を輝かせた。
ジョカは正直、その世界地図を見せるのがいいことなのかどうかわからない。
未知という名の、この上なく好奇心を刺激するベールを剥がされてしまった世界地図。
人が努力し、未踏を探索し、すこしずつ「世界の果て」を広げていく作業を、いっぺんに無にしてしまうもの。
人の冒険心に、水をかけてしまうもの。
リオンは未知の大陸をゆっくり指でなぞり、顔を近付かせ、遠ざけ、眺めつすがめつしていたが、やがて興奮した表情で言った。
「すごい……。世界が、世界地図が、今自分の目の前にあるなんて、信じられない」
リオンの手が、うっとりと大陸の線をなぞる。
そこまで喜んでもらえると、ジョカとしても嬉しい。
理解しやすいルイジアナ近辺の地形をなぞり、その大陸線を南下し、ぐるりと回って……。
ふと、手を止めた。
「――ジョカ。北って、どこだ?」
「は?」
「ここがルイジアナ。で、ルイジアナで方位磁石を使ったとき、こちらの方向が北、なんだが……」
リオンが指をつつ……っと滑らせると、なんせ物は玉だ。
ぐるりと指は一周して、戻って来てしまう。
「北って、どこなんだ? どこを示しているんだ?」
――一を聞いて十を知る人間というのは、教える分には気持ちがいいのだが、一抹の不安がよぎるのも確かである。
「北極と南極というのがあって、場所としてはここ」
ジョカは、内心舌を巻きながら、北極と南極に印をつける。
ついでに、北極と南極を貫通する棒もつけ、棒の先に台もつけ、玉を平面に置けるようにして、更にカラカラと回せるようにした。
「方位磁石は、ここ。この地点を指し示す。だから……」
北極を頂点にして、リオンに指し示す。
「ルイジアナから見ると、この方向が北になる。そこから東にずっと行った場所から考えると、こう……」
指で、北極までの道をたどる。
「あくまで、方位磁石は、北極を示すものなんだ。人が『北』って言っている方角は、この地点を指しているんだよ」
「……じゃあ、たとえば、この、北極点から南に百歩下ったとする。そして、その後、東に百歩行ったとする。最後に北に百歩行ったとする。そうすると、東に百歩移動したのにもかかわらず、最初の地点に戻る……ということか?」
「……正解、だけど、お前の頭どうなってんの……?」
リオンは、平面上の北の違いと、球形の北極点の違いを、端的に示してみせたのだ。
平面の地図上で北といえば上である。地図には北を上にするという絶対的ルールがある。
そこからきっちり南に百歩、東に百歩、そして最後に北に百歩行くとする。
平面で考えている限り、元の位置に戻るはずがないのだが、北極点では戻るのだ。何故なら、世界は丸いのだから。
「ジョカ……。あなたは、言ったな。世界にはこの玉の中心に引きつけられる力があって、だから人は滑り落ちないのだと」
「言ったな」
頷く。
「海水も、同じように?」
「海水も、同じように」
世界地図の、ほとんどは水色で出来ている。
もちろん、それが海だ。
「地平線ができるのは……ということは……」
リオンはぶつぶつと呟いて、考え込んだ。
やがて顔を上げる。
「――ジョカ。ひょっとして、この世界は回転しているのか?」
ジョカは目を丸くした。
現在信じられている世界の構造とは、「人は平面の大地の上で生活し、その周りを太陽と月が生まれて死んでいく」である。
リオン自身、さっきジョカから世界の形を聞いた直後は、信じていた大地が底なし沼だったという風であったのに。
「なんで、そう思うんだ?」
「世界が丸い、というのが本当なら、太陽だって丸いだろう」
薄曇りのときなど、気象条件が合っていれば、太陽のかたちを見ることができる。
だから誰でも知っている。太陽は、丸いのだ。
それだけなら円盤形かもしれないが……、この世界が球形であるということを考え合わせれば、太陽もまた、球形であるのではと考えることは、容易だ。
「私たちは、太陽が平面の大地の上を廻っているのだろうと思っていた。でも、この大地が球形であるというのなら……、その、大地に吸いつけられる力があるというのなら、私たち自身が廻っている、そう考えることもできるだろう。最大のヒントは、これだが」
と、リオンは、回転できるようになった世界地図を示す。
「あなたは、意味もなくこういう構造にしたのだろうか? 私たちの考え方こそが、逆なのではないか? 太陽が廻っているのではなく、私たちが廻っているからそう見えるのでは? ――そう思えば、球形というのは、回転するのに最適な形だ」
「……お前の頭の中、どうなっているのか見てみたい」
ジョカは呆れはてて言った。
「ということは……?」
「そう、正解。世界はこう」
ジョカはリオンの手から世界地図を受け取ると、それを空中に浮かべ、部屋を暗くした。
そして、指向性の強い光を作り、玉に向ける。
ライトによって照らされた部分が明るくなり、それ以外は暗い。
「これが太陽な、これが世界。そして、お前の想像のとおり、世界は回っているから……」
ジョカは、玉をぐるりと回す。ライトの位置は変えない。
当然、光が当たる面は玉が回転するのに合わせて変わる。
「一回転が、一昼夜。わかるか?」
「昼と……夜?」
「そうだ」
ジョカは頷いてライトを消し、世界地図をリオンに放った。
「判っていると思うけど」
「ああ。誰にも決して見せないし、話さない」
リオンはしっかりと頷く。
ジョカはリオンを信じている。口約束だけで、信用の担保に事足りるほどに。
「――なあ、ジョカ。魔術師はこの地図を知っているんだろう?」
「知ってるな」
「なら……、どうして世界の形は伝わっていないんだ? 二百年前までは、たくさん魔術師がいたんだろう?」
千五百人がたくさんというかどうかは、微妙だが。
ジョカはにっこり笑った。
リオンが身構える。恒例の、お勉強タイムだ。
「何でだと思う?」
ヒントは充分にあげましたよ、さあ自分で考えて答えを導き出しましょう――そういう「にっこり」だ。
ジョカはしばしばこうやってリオンの思考力を磨く。
知識は惜しみなく分け与えるが、考えれば答えが出ることは、考えさせる。
リオンは考えこんだ。
そして、尋ねた。
「……誰も、聞かなかったのか?」
「そうだ。――リオンは、いいや、人間は、魔術師に何を求める?」
リオンは苦痛を堪える顔になった。
「……魔法を使うことを」
「知恵と、知識はちがうものだ。お前がわずかな手掛かりから、世界が自転していることを導き出した事こそが、知恵。それをただ知っていた俺は、知識にすぎない。リオン。お前も、俺の使い方は大分判ってきただろう?」
リオンは顔をしかめた。
「使い方」という言葉に、反発をおぼえたようだ。優しいことである。魔術師など、道具にすぎないというのに。
「……あなたは私が教えてくれ、と言えば知識を授けてくれる。でも、自発的に言わなければ、教えない」
「そして、もちろん。もちろん――特別な好意を持っていない相手には、いくら教えてくれと言われても教えない」
ジョカは、くすりとする。
リオンは怪訝な顔をした。
自分が「ジョカにとって」かけがえのない存在であるという自覚はある。だが、魔術師は千五百人もいたのだ。
そのうち何人がジョカにとっての自分のような存在を見つけたかはわからないが、少なくともこれだけは言える。
百や二百では済まない数、いたはずだと。
「私は、自分が唯一無二の存在だと思うほどうぬぼれてはいないぞ?」
「お前と同じ立場の奴。魔術師に愛され、無条件に魔法を行使できる人間。想像してごらん? 人は、魔術師に、魔法を求める。知識ではなく、魔法を。無条件で魔法を使える人間の中で、魔法ではなく、知識を求める者は、どれほどいるかな?」
「……私が、最初では、ないだろう?」
「最初ではないだろうな、恐らくは。でも、今お前は、何を約束した?」
「……誰にもいわないと」
「魔術師に世界のかたちを教わった人間は、それを秘密にする。それに、こんな荒唐無稽なもの、誰が信じる?」
リオンは納得せざるを得なかった。
世界が丸いなんて……頭ではそうかもしれないと思っていても、実感はできていない。
「人が自力でこの地図を手に入れるには、どのぐらいかかるかな」
「千年はかかるだろうな」
ジョカがあっさりと言った言葉に――リオンはまじまじと手元の玉を見つめた。
「千年? そんな……」
「どこまで海が続いているかもわからない、その先に何があるかもわからない前人未到の海を渡るのに、絶対的に必要なものって、なんだと思う?」
「……航海技術? 造船技術? 食料? それとも……」
「ちがう」
ジョカはばっさりと言いきって、苦笑した。
「情熱だ。嵐にあえば、どんな勇者だって木端微塵に海の藻屑だ。賭け金は自分の命。それでも、海の果てに、こぎ出せる勇気。情熱。ハイリスク、ノーリターンなんだ。金銀財宝があると思えば、頑張れるさ。けれど、何があるか、大陸があるかどうかもわからない状態で、お前は大海原へ漕いでいけるか?」
「陸路から、いけば……」
ジョカはそこで、ルイジアナ付近の海岸を指でつついた。さすがに地形までは書かれていないが、そこはリオンの地元である。もちろん、地形はリオンの頭に入っている。
「さて、この辺は何が広がっている?」
「……砂漠」
ルイジアナの南方と、西方には砂漠が広がっている。
かろうじて内陸部に発見されたオアシスを伝うことにによって、東方への行商路は確保されているが……。
「お前は上空から何度も見たな? さああの砂漠で、水はどうやって確保する?」
「……でも、中にはきっと、未知の世界に船出しようという人間だって」
「いるさ。山ほどいたな。全員挫折した。だって、水が無いんだから。食べ物は何とかなるさ。最悪、魚を釣ればいい。でも、真水の確保はどうしようもない。――それでも、情熱があれば、いずれ、人間はそれを克服できただろう。でも、その熱がないんだ」
リオンはじっと、手の中の世界を見下ろした。
……世界でたったひとつの、世界地図。
今、リオンは魔術師から何の苦労もなく与えられたけれど、本来はそんな風に持てるものではないのだ。
幾千万の命と努力によって、少しずつ解明されていくはずの「世界」が、何の努力もなく自分の手中にある。
それは、眩暈にも似た感覚をリオンにもたらした。
あまりにも不釣り合い。あまりにも冒涜的だ。
――それは、魔法というもの全般に、リオンが抱いている恐怖に、よく似ていた。
危ういのだ……すべてが。
何の苦労もなく、膨大な労苦の末でしか勝ち取れないはずの結果だけが渡されるということ。
己が恐ろしい。増長しそうで怖い。
ジョカという絶大な力の持ち主に寵愛され、その力を、自分のものと誤解しそうな己が本当に恐ろしい。
リオンはいつも、自分に言い聞かせる。
ジョカの魔法を、自分の力だと思ってはいけない。増長してはいけない。使う事に慣れてはいけない。
――全ての物事には、代価があるのだから。
この世界では東方見聞録もありませんし、植民地資源も発見されていません。
欲をかりたてるものも、航路も、まだ発見されていない……人が未知の海原に出かけていく理由は「好奇心」一択だったのですね。
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