ひよのはそわそわしていた。
乱れてもいないのに服を気にし、(茶色の縦じま模様のタートルネックのセーターにスカートだった、よく似合っていた)、左右を気にする。
ふたりがいるのは遊園地のチケット売り場だ。
ひよのの神仏すら脅しつける呪詛に限りなく近い快晴祈願が効いたのか、天気は写真に残したいぐらいの秋晴れで、適度な風もあり、たとえ出かける予定などない人でもつい散歩に誘われる実に気持ちのいい日になっている。
そんな休日の本日、遊園地には、かなりの行列ができていた。その最末尾に、ふたりはいる。
「なーるみさん、ホントにいいんですか? そりゃ遊園地って言ったのは鳴海さんですけど……嫌々つきあうことありませんよ?」
「あんたにしてはホンットに死ぬほど珍しく押しが弱いな……」
ひよのはぷう、とほっぺたを膨らませた。
「鳴海さんが素直だからですよ! 鳴海さんとのお出かけは楽しいですけど、脅してとか無理矢理とかでしぶしぶ付き合ってもらうんじゃ、その、良心が痛みます!」
人を脅迫して引き出した情報で更に別人を脅迫する娘にそんな良心があるとはおそれいった。
「はいはい悪かった」
歩もなんだかんだ言いながらも悪いとは思っている。自分の言葉が致命的に足りないのがそもそも悪い。だから謝って、ひよのの頭をぽんぽんと叩く。
その子ども扱いの仕草にひよのが切れた。
「な、る、みさん! 前からつねづね思っていましたけど私はなるみさんの先輩ですよ、上級生ですよっ、先輩は敬うものだって言っていたのは鳴海さん本人じゃないですかっ!?」
「いいからちょっと黙ってろ」
コホンと咳払いをして、心の準備を整えた。
歩がひよのに絶対にかなわないなと思ってしまうのはこんなところで、度胸だの肝の太さだのは誰がどう見てもひよのの勝利である。
ひよののように、顔色一つ変えずすんなり告白するなんて事が、歩にはできない。
「あのな、俺はあんたと付き合うのは、これっぽっちも嫌じゃないんだ」
……しかも出てくるのはこんな程度の言葉。
正面から堂々中央突破したひよのとは大した差である。
「え……」
ひよのは一瞬きょとんとした後、猛然と生き返った。
「それそれそれっ! それってどういう意味ですか、なるみさんっ! なるみさんってば! なるみさーんっ!」
一般にマスコミのしつこさはすっぽんに例えられる。
情報で学園を闇から支配しているひよののしつこさはそれに張るか、勝るだろう。
ジェットコースターの待ち時間の質問、ランチタイムの誘導尋問、ホラーハウスでの不意打ちの一撃……。
結局一日中追求された歩は、遊園地からの帰り道、とうとう「好き」の一言を白状させられたのだった。
§ § §
いつもの十倍以上の時間をかけて歩は台無しになった料理と皿を片付け、そして部屋に行きごろんと横になった。
やらなければならないことは山ほどあったが、何一つする気になれなかったのだ。
ひよのが死んだ。
それを認められない自分がいる。
あのひたすらたくましく、生命力にあふれていてゴキブリよりしぶといひよのが死んだ。
……それを、認められない自分がいる。
歩の心には常に冷静な第三者がいて、歩が動揺しているとき、それを教えてくれる。「おい、お前はいま落ち込んでいるぞ」とか、「おい、滅入ってるなあ、どうすれば復調する?」とか。
自分の能力で、できるかぎりのサポートをしてくれる。
……が。やっぱりそれは自分なので、超能力でも天啓でも天の声でもないので、歩自身わからないことには自問自答するしかないのだ。
歩のなかの、歩を冷静に見ている人格はこう言っていた。
―――お前は混乱している。今、何を考えている?
人の心は複数の感情で作られている。喜び一色なんてことは、稀だ。
喜び、悲しみ、怒り、憎悪、それらが少しずつ、合わさって出来ている。
歩の心は混乱の極みにあり、悲しみのゲージも、怒りも、喜びも全てが合わさった「混乱」という状態だった。
歩は力なく、自室の天井を見上げる。
どうしよう、わからない。
自分の心がわからない。嘆けばいいのか茫然自失になるべきなのか、頭のなかは闇鍋並みにぐちゃぐちゃで、てんで調和がとれてなかった。
泣くのも嘆くのも、体力をつかう、その体力が今の歩にはない。だから、歩はぼんやり天井をながめている。
なんとか、自分の気持ちを整理しようとしている……。
根強くこびりついているのは、「本当に死んだのか?」ということだ。
あいつは、本当に死んだのか?
殺しても死なないような人間だった。とにかくタフだった。だからこそ、信じられない。
てのひらを、顔の上にかざしてみる。
……抱きしめた手、包み込んだ手。
冬になるとひよのは冷え性の歩の手を包み込んで、「ほーらあたたかいですねー」と、ぬくもりを分けてくれた。
愛しさを感じたのは、いつからだったろう? 最初はまるで好みじゃなかった。まとわりついてきて、気がついたら側にいるのが当たり前になっていた。それを亮子に何かの拍子で話したら、「それってすごいことだよ」と真顔で言われた。
このベッドで抱きしめて、唇にふれて、そして。
―――蘇る記憶は棘を持っていた。
歩は飛び起きてクローゼットを開けた。何か考えたというわけではなく衝動的にコートをひっつかみ、鍵もかけず財布も持たずに飛び出す。
場所は知ってる。行って、自分の眼で確かめない限り、信じられなかった。
あの結崎ひよのが、死んだなんて。
§ § §
殺人事件の遺体は、現場写真と実況見分のあと、整えられて警察の死体置き場に送られる。そこで遺族の承諾を得る必要なしに、解剖されるのだ。不審死をした死体の場合は遺族の承諾は必要なく、ましてこれは殺人事件である。
歩は月臣学園で姉から情報を聞いて警察病院へとまわされた。歩が呆然としていた時間は意外と長かったがまだ検死解剖は終わっておらず数時間をそこで待ち。そして、結崎ひよのの変わり果てた姿に対面した。
めくった目蓋の瞳孔はひらいていた、首すじの脈は止まっていた、顔から血の気が引いていた。
疑問の余地のひと欠片もなく、希望という希望を粉砕して―――結崎ひよのは死んでいた。
白い布で覆われた首から下を、覗いてみる勇気はとてもなかった。解剖した体はもちろんそのままには置かれず元通り縫い合わされるが、さすがに服まではつけられず、今は素っ裸だ。そしてなにより、ひよのの―――暖かく血が通っていた頃の身体を知る者にとって、冷たく動かないひよのの死体は、正直、正視に堪えないものだったのだ。
歩はひよのから手を引いた。
手を離しても、冷えた皮膚の感触が手に残る。
不快感がじわじわと侵食していく。
ここにいるのはひよのじゃない。「死体」だった。
―――なるみさんっ! ほらほらいいお天気ですよ、一緒に屋上でごはん食べましょーよー。
人との間に壁をつくるたちの歩にとって、ひよののようなタイプだけが側にいられた。
拒絶されても避けられてもめげずにうっとうしいほどの強さで側に居つづけるひよのは、歩にとって楽な存在だった。気取らずに放っておけて、沈黙は苦にならない。相手がそんなものはぶち壊すからだ。
うざったいと感じることも多かったけれど、感謝、していたのだ……。
親族でもないのにまどかの口ぞえという特例で通された歩が遺体から手を離し、悄然とうつむくと、ここまで案内してきた警察官が肩に手をかけた。
「ほら、もういいだろう」
露骨に邪魔者扱いしている態度にも逆らう気になれず、押されるまま歩はその部屋から出た。
ひよののいた部屋にはかすかな匂いがした。血と、臓物の匂いが混ざった不快なにおい。
死臭とは、この匂いのことだろう。……知りたくもなかったけれど。
通路のベンチに、ぺたんと腰を下ろす。
ひよのがいなかったら。
歩は理緒に負けてずっと負け犬のままだったろう。
ひよのがいなければ。
歩は人殺しになっていただろう。
ひよのがいなければ―――。
無数の仮定がつみあがっていく。
結崎ひよのは、学校のクラスメートといった軽い存在ではなかった。恋人でもまだ甘すぎる。鳴海歩の人生そのものに少なからず影響を与えた人物だった。
そしてそれは少なくとも、マイナスの影響ではなくて。
安っぽい言葉を使えばこうなる。
鳴海歩は、結崎ひよのに救われた。
論理は、歩自身の感情とはまったくべつの場所で冷静に動いている。
自分のなかの自分、歩の中の歩よりずっと頭のいい一人は諭している。
結崎ひよのが死んだ以上、鳴海歩が彼女のためにできることは何か。
……ひとつしかない。犯人を捕まえることだ。そのために動き、情報をあつめ、考えることだ。
この上なく明快な結論は、すでに出ている。客観的にものを見れる自分は、犯人を捕まえにいけ、動けと、叫んでいる。
そして、それが判っていても、歩は動けなかった。
冷たい警察の廊下でうずくまったまま、立ち上がることもできなかった。
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