遊園地に行ってから、ひよのは変わった。
ハッキリ歩から「好き」の言質をとったことでほっとしたのだろう、今まで見せなかった部分をおずおずとながら見せて、自分を開示するようになったのだ。
それはたとえばこんなところで現れた。
「鳴海さん、今度一緒にお料理つくりませんか?」
「はあ? なんでまた……あんたの弁当なら作ってるだろ」
「それはですね、鳴海さんのお料理はもちろんとっても美味しいのですが、男の子にばっかり料理つくらせて一方的にたよりきりの女の子って、こう……かっこわるいじゃないですか」
それはまあ世間一般では料理は女の子の領分だと相場は決まっている。
しかしひよのにそうした世間の目を気にする気弱な部分があるとは。
「でも、私の手料理はあんまり美味しくないのです、だから鳴海さんにご教授いただけたらなー、……なんて。あ、目標は交換日記ならぬ交換弁当ですね、鳴海さんに私がつくった美味しい手料理を食べていただきたいのです!」
そしてまた、こんなこともあった。
新聞部でいつものようにくつろいでいたら、イキナリ抗議されたのだ。
以前なら確実にマウスは投げられたのに、言葉だけという点、ひよのとしても手加減しているらしい。(最高記録はパソコンのディスプレイというのは嘘のようなホントの話だ)。
「―――鳴海さん。どーしてあなたはどきどきしないんですか冷静な顔してるんですかっ! 自分の彼女と部室でふたりっきりでいるんですから、もっとこう……ムードとかそういうものがあるでしょうっ!」
「学校内でそんなもの求めるな」
ひよのはぶすむくれた。
「鳴海さんホントはまだおねーさんのこと好きなんでしょう、そうなんでしょう、私のことなんて友達としか見てないんでしょう。好きっていうのも友達としてで、私は毎日部室に鳴海さんが来るたび緊張してるのに、そんなのは私だけなんですね」
いじけるひよの。珍しい。とんでもなく珍しい。
少なくとも歩は初めてみる。明日は真剣に雹が降るだろう。……とか思ったら本当に雹ではないが霙がふった。やっぱり天もひよのの異常さに気分を害したらしい、その気持ちはよくわかる。
ひよのはいつも元気いっぱいの快晴でいるのが似合う娘だ。
いじいじとマウスパッドを指でつつくひよのの姿に歩はため息をついて、しょうがないので恥をしのんで内情を開陳することにした。
「あのな、あんたも言ったとおりここは二人っきりで部室だ。不意の依頼人が訪ねてくるってこともあるかもしれないが、とりあえずその心配は薄いし扉にはカギだってかかる。正真正銘ふたりっきりだ。―――で、俺が暴走したら誰が止めるんだ?」
想像もしてなかった理由に、ひよのはまばたきした。
「え、えーと……」
「だから学校ではそういうことはナシ、な。……心配しなくても今週末にはあんたは料理を習いに家に来るんだろ?」
多少意地が悪いかと思ったが、これぐらいはいいかとにっこり釘をさす。
「覚悟しとけよ」
ひよのは真っ赤な表情で、複雑にだまりこんだ。
§ § §
鳴海まどかは足を止めた。
廊下の先、三メートルほど奥に、彼女の唯一の「弟」が座っている。
近づくまでその鬱陶しい表情が見えなかったのだが、見える距離まで近づくと、足が止まってしまった。身内だろうがなんだろうが、近づくのを敬遠したいときというのはあるものだ。
落ち込んだ人間を奇跡のように立ち直らせる言葉。
そんなもの、一体誰が知るだろう?
大切な人を失った人にかける言葉なんていうものを知っている人間が、一体この世にいるだろうか?
かといってまわれ右もできない。鳴海まどかはそういう性分の人間だった。
「……歩」
すとんと隣に腰を下ろす。しかし、彼女の弟は身じろぎすらもしない。
最初は―――信じていなかったのだろう。死んだという話を聞いても、それだけで身近な人間の死を受け入れられるはずもない。だが、彼女の弟はやってきた。白黒つけるためにやってきた。
まどかはそれに助力して、結崎ひよのの遺体と対面させた。
それが間違っていたとは思わない。だが、それによって心にわずかに残っていた救い、逃げが叩き潰された。「そんなの嘘だ」と心の一部で信じない砦をつくっていたのに、木っ端微塵に破壊されてしまった。
歩がいま直面しているのは、「歩を長年見守り力づけ、時に助けてくれた人」の死であり、「初めての恋人」の死であり「好きな相手」の死であり、「側にいるのが当たり前になっていた人」の死なのだ。
ブレード・チルドレンの事件で、歩はいくつかの死を見た。
けれども、そこに、歩と親しい、好意を持った相手の死はない。
まして―――
まどかは脳裏に検死報告書を蘇らせる。……抜群の記憶力は、鳴海清隆の部下だった頃から彼女の武器だった。
あの一節を読んだとき、まどかは「これは歩にはとてもいえない」と直感した。とても重大だけれども、できればまどかは、それを歩に言いたくなかった。
重苦しく沈黙していた歩がそのとき口を開いた。
「……ねーさん。わかってる。立ち直るから、だから時間をくれよ……。今は、駄目だ。ちょっと、駄目だ……」
その生気の無い声は、聞き覚えがあった。
蘇った痛みに。思わず目を閉じた。
よく、わかる。
鳴海清隆が突然いなくなったとき、自分が一体どんな状態だったか考えれば、どんな言葉も虚しいだけだと理解がつく。
あのとき自分のなかにあって、大事だったのは自分の感情だけだった。
「鳴海清隆に捨てられた自分」を哀れむことだけが大事だった。不幸にして―――新婚生活に邪魔な弟を追い払ってしまっての暮らしが始まったばかりだから、そんなまどかをたしなめる人もいなくて。
いいだけ自分を甘やかして、自分で掘った自分の穴にドツボにハマっていた。……今にして思えば、そうして徹底的に自分の体をいじめることに、ある種の快感を感じていたように思う。
見せつけたかった。
鳴海清隆。
新婚で夫に失踪されたまどかを笑った同僚の女子。
世間の全ての人。
アナタがいなくなったから、私はこんなに不幸になったんだ、と人として最低レベルまで落ちた自分を見せたかった。
私はこんなに不幸だから優しくしてと、無言のうちに言っていた……。
自分を哀れませてはいけない。
あのときの自分は、救いようのないほど愚かだった。歩にはそうさせない。
恋人が死んだ歩は確かに不幸だ。でも、その不幸に酔わせてなるものか。目の前の不幸は、べつのことで目をそらさせればいい。道は、目の前にある。
まどかの頭は期せずして、歩の理性と同一の結論にいたっていた。
歩の目をそらせやすく、能力的にも適性があり、まどかが助力もできる、……「まるであつらえたような」。
「わかってる。無理矢理立ち直らせる気なんてないわ。ただし、ここで落ち込むのはやめなさい。他の人の迷惑になるから。……立てないなら手をかしてあげる。家に戻りましょう、それから思う存分、落ち込みなさい」
歩の性格からして「他の人の迷惑になる」これが一番きくと見たまどかの狙いは当たって、歩は案外しっかりした動きで立ち上がった。
歩は犯人ではないと、まどかだけは知っている。死亡推定時刻のあいだ、ずっと家で一緒にいたのだから。
まどかにだけは、歩が殺したのではないことははっきりしていた。問題は、それを証言できるのが家族だけということだ。
殺人事件の被害者の恋人の立場が危ういのは常の事だ。
そして、親族が容疑者の場合、警察官はその捜査から外されるのが常識だ。
しかし今回は……まどかも捜査から外れなくてすみそうである。
なんせ、容疑者が多すぎた。
結崎ひよの。
全国一の進学校、月臣学園の影の実力者とうたわれた少女はかように敵が多かった。
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