ピンポーン。
歩のマンションのインターフォンが鳴り、歩が扉を開けたときのひよのの顔ときたら思わず吹き出してしまったほどがちがちだった。
しかし歩が気遣いのかけらもなく盛大に笑ったことで、ひよのもペースを取り戻したらしい。どこからか取り出したハリセンでうずくまって笑う歩をびしばしと殴る。
「なんですか! なんで笑いますか! あんなこと言われたら緊張して当たり前じゃないですか!」
歩は笑い涙をぬぐい、ハリセンで連打するひよのの腕を押さえる。
「手をださなきゃ怒るし、手を出すぞって言っても怒るのは不公平じゃないのか?」
わかりやすくひよのは言葉につまる。
玄関の土間にしゃがみこんでいた歩は立ち上がると先に立ち、ひよのを家に入れた。
何度か来たこともあり、家の構造は熟知しているひよのだったが、きょろきょろと左右を見回す。本日は日曜。ならばいるはずの人影がない。
「……おねーさんは?」
「買い物。もう少しすれば帰ってくる」
ひよのは「残念なような、ほっとするような」という判りやすい顔をした。
また湧き上がってきた笑いを歩はこらえる。ここで笑ったら、絶対、また殴られる。
キッチンに入ったところで「あ」と歩はひよのを振り返った。
「はい?」
「ねーさんに、今日あんたが来るって言ってあるから」
「あ、はい。お昼ごはん一緒に食べましょう」
「で、あんたと俺が付き合ってるとも言ったから」
「え……」
ひよのの表情がみるみる変わっていく。
くるりと背を向けた歩に、後ろから小走りにひよのが追いついた。
「あ、あの! いいんですか?」
「いいんだよ。言ったろ? 今俺が好きなのはねーさんじゃなくてあんただって」
歩は笑ってつづけた。
「あんた、カノンのときの俺への鉄拳制裁でねーさんにえらく評判いいから。むしろねーさんはほっとして喜んでた。やっぱり俺に悪いとかそういう風に思ってたんだろうから」
「そう……ですか……」
「そう。でなきゃ、日曜日のねえさんがこんなに早く起きてるなんてことありえない。あんたが来るってんで、早起きして、いろいろ片付けて、邪魔しないようにって出かけたんだよ」
「早くって……十時ですよ」
「ねーさんは休みの日はPMになるまで寝てるよ」
とてとてと、ひよのはキッチンの歩の隣に立つ。
ひよの持参の材料をうけとり、あざやかな手並みで刻むとほへーという声をあげた。
……本当に、歩も苦労しているのだ、たとえばひよのの柔らかそうなほっぺがすぐそこにあっても我慢する、とか。
さわってもひよのは怒らないだろう。それがわかるので、なおさら耐えるのがつらい。
トマトを角切りにし、豚肉と鶏肉を塩水でさっと茹でる。
以下、さまざまな工程を経て「鶏肉のトマト煮」「豚肉と野菜のカレー炒め」「すりおろしりんごのフレンチトースト」が出来上がった。
しかしひよのは胡乱な瞳をしていた。
「あの……鳴海さん。これはこれでとても美味しいと思うんですけどね。私にできるようなものを教えていただけませんか?」
「手順さえ憶えればあんたにもできると思うけどな……」
歩のレシピのなかではもっとも手のかからない部類にはいる品目である。
しかし仕方ない、手がるで簡単な「豚肉とほうれん草のカキ油いため」を目の前で作ってみせる。
下味をつけた豚肉とほうれん草をオイスターソースで炒めるだけ、まさに簡単。
しかしひよのはまだ不満げだ。
「あの、その下味って……」
「塩、醤油、胡椒、片栗粉。下味つけない料理なんてほとんどないぞ」
「じゃ、それを朝の忙しい時間帯につくるには……」
「早起きしろ」
朝五時起きの歩はきっぱり言った。ひよのがうーっと顔をゆがめる。
「……努力します」
「そうしてくれ、じゃあ食べるか」
料理を皿に盛る。見栄えも大事だ。盛り付けのあいだひよのはやることがないので先にテーブルに座る。そうしてできた皿をテーブルの上に並べていくと、テーブルがいっぱいになった。
「ねーさんはまだ帰ってこないから先に食べてよう―――おい?」
「……」
テーブルに並んだ皿を見て、ひよのは感動のあまりか絶句して言葉もないようすだった。
―――と。
「鳴海さん!」
「な、なんだ?」
「ずるいです羨ましいです憎らしいです! こんな料理を毎食三食食べられるまどかさんがものすごく羨ましいです! お婿さんにきてください、高校卒業したら結婚しましょう!」
「おい……」
俺の価値は料理だけかと言いそうになったがぐっと我慢した。
「なるみさんの手料理は最高ですーーーーー」
はぐはぐと本当に美味そうに食べるひよのの姿は実際、料理人冥利につきるものだったので。
§ § §
まどかは清隆の失踪当時、自分がしてほしかったことをした。
温かい風呂をわかして、「最低三十分はつかってなさい」と押し込んだのだ。
そしてその間に暖かいごはんを……用意できれば最高なのだがあいにくとまどかの料理は食べ物ではなく一口必倒の凶器である。ピザの出前を頼んだ。
最後に暖かいお茶をいれる。これぐらいはまどかにもなんとかなる。歩のような名人芸の入れ方はできないが。
よって歩が温まった体で上がってきたとき、並んでいたのはほかほかと湯気をたてるピザに、ちょうどいい温度の温かいお茶だったわけだ。
身体がいじめられると心もロクな事を考えない―――逆に身体がほっとすれば、心もゆるむ。それがまどかの持論である。
ピザは二枚あった。スパイシーチキンと、パイナップル。
歩は手にとり、かぶりつく。……なぜか、涙がでた。
まどかはそっぽをむき、こちらを見ないようにしてくれた。
「ねーさん。頼みがある」
「……わかってるわ。捜査情報を横流ししてくれっていうんでしょ」
「引き受けてもらえるのか?」
意外さが声にでた。
以前、まどかは警察内の情報を歩に渡すのを拒んだことがある。そういうけじめはしっかりしている相手だ。しかしそうなると、ひよのがいない現在歩に警察の捜査資料を入手する手立てがない。
まどかはそっぽを向いたまま言う。
「あくまでこれは独り言よ、ひとりごと。わかってるわね。―――この事件ね、難しいのよ。なにしろ結崎ひよのって子は、警察内部にもたくさん脅迫の被害者を作ってた子だから―――どうにもこうにも熱意がたりないっていうか。上層部にも脅迫されてた人はいるみたいだし、そういう人はどうやらあの子が死んだことに内心ホッとしたみたい。また末端の捜査員は捜査員でこれまた脅迫されてた人、いるでしょ? 殺されても自業自得だって空気があるのよ」
歩は沈黙していた。
ひよのは善人では、なかった。それは歩も認めざるを得ない。
たしかにひよのに脅迫されていた人からすれば「ああ良かったほっとした」だろう、それもわかる。
なのに、どうしてだろう? 腹が立ってしまうのだ。
ひよのでなければ、まったくの他人なら、たしかに多数の人を脅迫していた恐喝者が殺された、自業自得だで終わってしまうだろうに。
「あと……上の人たちが困ってることがひとつ。『もしもひよのさんの身辺を捜索して、脅迫の材料が出てきたらどうしよう』」
歩はハッとした。
「ひよのの手帳!」
「……彼女がその手帳を携帯していたことは、何人も目撃者がいるわ。上層部のホンネは『見つかっても困る、かといって見つからないともっと困る』。だって、それは、加害者が持ち去ったということだから。ひよのさんより更にタチの悪い脅迫者がうまれるかもしれない、それは困る」
歩は腕組みをした。
「ひよのさんがいろんな人を脅迫するのに使っていた材料……それらはたぶんどこかに集積されていると思うわ。でもそれは手帳ではなく、ビデオかもしれない、MDかもしれない、FDかもしれない、CD-Rかもしれない。極端な話、ひよのさんの秘密手帳に本当に秘密が書かれていたかどうか、誰も確かめていないのよ」
たしかに―――脅迫のネタをああも堂々と持ち歩くだろうか?
脅迫相手の誰かに力ずくで奪われてしまったら、それで終わりなのだ。
脅迫相手に手帳をちらりと見せて脅していたのを歩も見た。けれども、手帳の中身を見たわけじゃない。
「一つだけわかっているのは、彼女が発見されたとき、手帳は身につけていなかった、ということ。鞄のなかにもなかったわ。家はまだこれからの捜索になるけれど。いい、これはひとりごとだけど―――もし犯人がひよのさんの元から脅迫材料を持ちさっていたとして、もしも『誰か』が犯人を見つけてその脅迫材料を上層部の人に直接手渡してくれたら、きっととても感謝するでしょうね、捜査情報の漏洩がどうのと細かいことを言わないぐらいに」
「ありがとう姉さん……」
「……犯人をさがすの?」
間があった。まどかは無言で返事を待つ。
やがて、歩がいったのは、質問への返答では無かった。
「あいつのこと、好きだったんだ」
「ええ、そうね」
彼女と付き合い始めてから、歩は変わった。いつもつまらなさそうに、楽しいことなど人生に何一つないような無愛想な顔をしていたのが、緩んだ。笑顔をみせることが多くなった。結崎ひよのと交際をはじめたのが歩にいい影響をあたえたのは明らかで、歩の周りの空気は、ほころびかけていた。
たぶん、奪われてばかりで喪失の痛みばかりが積み重なって、諦めることにばかり上手くなったその帰結。なにも欲しがらない。そうすることで自分を守っていた歩が、そうなってから初めて自ら手をのばし、手に入れたものがあの少女だったのだ。
失えない物―――それは人を強くするだろうか?
まどかにはわからない。失えないものは人を強くするだろう、それを守るためなら人はいくらでも強くなれる。でも。
今の歩を見ればわかるが、失ったら、そのときは?
一層、弱くなる。
何も得まいとしていた歩は、間違っていて、正しい。
歩は口を開く。
訥々と、思いついたことをそのまま口にする話し方だった。
「なにも、わからない。考えようとするはしから思考が崩れていく感じで。ひよのが―――死んで。俺は、わかっている、と思う。自分が何をするべきか、わかってる……。だから、俺はそれをすべきなんだ」
心情を吐き出すことは、簡単で、非常に治療効果の高いものだ。聖書やら、花言葉やらを一般教養として憶えさせた清隆の教育には、精神医学についても含まれていた。歩はその知識を自分に向けて実践していた。
まどかも婦人警官としてその分野はすこしかじっている。実をいうと日本の警察で、ケアカウンセリングに熱心なのは男性よりも婦人警官のほうだ。なぜなら、性被害者の直訴を直接にきくのは彼女たちであり、そのストレスは自分へのケアをきちんと学ばなければこちらの心身に跳ね返ってくるほどだからである。
だからまどかは歩が何をしているのかすぐに察知できた。
相槌をうつ。
「そうね、何をしていいのか判らないときに何をすべきかを考えるのは、とても有効だから」
義務でもいい、むりやり萎えた体を動かすのでもいい。
それでもいいから、まずは動くことだ。
体を動かしていれば、自然と悲しみも薄れていく。……というのは楽観的過ぎるだろうか?
「じゃあ、あんたは犯人をさがすのね?」
今度は歩ははっきりと首を縦にふった。
警察にやる気がないというのならなおのことだ。
「あいつの仇は、俺がとるよ」
暗くしずんだ瞳で、ぽつりと歩は言った。探偵宣言とは思えないほど力なく。
「犯人は、俺が見つける」
それがなによりの弔いの花だと思うから。
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