歩はその夜、夢を見た。
……人に知られでもしたら、恥ずかしさのあまり漂泊の思いにかられて遠い外国にでも出かけたくなる種類の、夢だった。
相思相愛の彼女がいて、思春期の少年としては当然の生理現象だと理性と知識は言っているが、他人に知られたら一生ものの恥だ。
深夜、汚したものの始末をしながらふと思った。
抱きしめたいと言ったら、ひよのは怒るだろうか。……いや、むしろ、「さあさあいくらでもいいですよ!」と諸手を広げて歓迎してくれるだろう。
しかし、ホテルに行こうと言ったらどう言うだろう。……ああ見えて、ひよのは貞操観念がしっかりしているタイプだから、躊躇するだろう。
夢は思い出すのも恥ずかしい、一面の花畑と真っ白な裸のひよのという構図だった。歩も裸で、しかもそれを格別恥とも思っていないのだ。最近なんだかんだと神話と妙な縁があったので、アダムとイブになぞらえたと見える。
火澄が消えてからの日数をかぞえる。
ひよのと付き合い始めてからの日数もかぞえる。
女の子と交際してどのぐらいで、「こういう申し出」をするのが普通なのか、ほとんど同年代の友人のいない歩には判らない。いるとしたらここ一連のごたごたで知り合った彼らぐらいだが―――ブレードチルドレンの子供たちはその出生から、性行為に厳しい制限がかけられている。もう17歳、とっくに子供も作れる年齢なのだ。初潮のきたときから女子にはピルの服用が義務づけられているし、男子はもっと深刻に、パイプカット、一生子供の作れない体にされている。
そういう彼らに向かって、能天気に下ネタの相談をかませられるほど、歩はさすがに無神経ではない。
ひよのはよく歩にさわるが、人との間に壁を作り神経質なところのある歩にしては珍しく、ひよのの手に触られるのは、きらいじゃなかった。恋人、という関係になる前も、なった後も。
ひよのはパソコンを叩いたり原稿を書いたりする必要上、指が少し硬いが、それでもピアニストの歩の手に比べれば女の子らしくぷにっとしている。
以前は殴られたりするとき偶然触れるぐらいだったが、付き合いだしてからひよのはその手でべたべた歩にさわるのだ。寝込みやら、油断している隙を狙って。
ちっともいやでないから何も言わないが、一歩間違えば立派なセクハラである。
もっとも歩のほうもひよのに触られることを期待しているところもあって、そういう意味では同罪だった。
好きな相手に触りたい。―――それは当然のことだと、誰もがいう。
しかし、そう申し出るにはどうすればいいかというと、まったくの別問題なのだった。
§ § §
動揺する歩に、火澄は追い討ちをかける。
「歩、お下げさんと付き合うとたんやってな。どこまでいった?」
「どこまで、って……」
歩は口ごもって、開き直った。この点に関して、男としていささか恥ずかしいながらも歩にひるむ部分はない。
「健全な高校生の恋愛だ」
「ほなショックやろな。……お下げさんの服、乱されとったんやて」
たっぷり含みをもたせて思わせぶりに言ったが、歩は切って捨てた。
「当然だろ? それは。あいつは手帳を携帯していた。その手帳を探すためには」
「ちっ、ひっかからへんか。じゃあ、とっときのネタあげようか? まどかさんが、お前には言わない事」
歩はふーっと息を吐き出した。
「火澄。俺をなめるのもいい加減にしろよ」
「―――え?」
「そんなの、とっくの昔に知ってる。ひよのにも肋骨が一本ない、なんてとうの昔に知ってた」
歩は思う―――ひよのも自分がそうだとは知らなかったのだと。
自分の肋骨が何本あって、何対あるか。
自分で自分の胸をさわってみればわかるが、結構わかりづらい。女性の場合はもっとだ。胸の肉が邪魔をする。上から何本目か数えても、途中でわからなくなる。
ましてや生まれてすぐに切除された場合は、それが普通としてインプットされて十七年生きてきたのだ。自分の胸をさわっても気がつくまい。レントゲンでもとらないかぎりは。
「歩、おまえもお人よしやなあー」
「……わかってる。お前の言いたいことはな。結崎ひよのはブレードチルドレンだ。なら、清隆の指示を受けて俺のところに来たんじゃないか。―――そう考えればいくつもの事に説明がつく。……エリアスザウエルの人食いピアノのとき、ひよのはその話をある女の子から聞くしかなかった。つまり、いくら超人的な情報収集能力といっても、超能力じゃない。誰かから情報を仕入れる必要があって―――カノンから聞いた。あいつは、カノンの情報を入手していたと。カノンの父の名までも知っていたと。一体、だれからそれを聞いた? ……あの馬鹿馬鹿しい、お前と俺が組み込まれたファンタジーの関係者からとしか考えられない。そういえば、俺がようやくそのファンタジーを聞いたとき、珍しく根掘り葉掘り聞かなかった。―――あいつが、既に知ってることだからとは考えられなるな?」
「……」
言葉の先をまつ火澄に歩は顔をあげ、しっかりと視線をあわせた。
「―――ねーさんが俺に沈黙しているのも、同じことを考えたからだろう。火澄、お前が示唆しているのも、結局はおなじひとつの事だ。あいつは最初からすべてを知って、その上で俺を兄貴の都合どおりに動かすために配置された駒なんじゃないか。……でもそれは違うんだ。それはないと言いきれる証拠が俺のなかにはある」
「そう言いきれる理由はなんや?」
当然の疑問であり、予想された質問でもある。
「あいつが自分の運命を知らなかったからだよ」
さらり、と。
歩は答えた。
「論理の筋道として、ひよのがブレードチルドレンだから兄貴の回し者という推論が成り立つなら、その前提条件、ひよの自身がブレードチルドレンと知らなかったならその後の結論も当然崩れるだろ」
「そうか? ウォッチャーはブレードチルドレンちゃうけど清隆の意志で動いてるで?」
「……なら、最初と変わらないだろう。ひよの=ブレードチルドレンという図式が完成する前と構図は変わらない。ポジションでいえば、あいつは俺を動かす最適位置にいた。疑われる要素が充分であることは確かだけど、疑わしいってだけだ。証拠はひとつもないな。ひよのもブレードチルドレンだったっていう事実は、必要条件と充分条件ですらないんだ」
火澄は意地悪げに笑った。一昔前のディズニーの人魚姫にでてくる魔女の笑顔そのものだった。ウラに魂胆ありそうな部分といい、何といい。
「あんな、歩。俺めちゃくちゃ気になってることあんけど。おまえ、どうしてお下げさんの胸の肋骨が一本欠けてるなんてしっとったの? じっくり触らんと、わからんよなあ?」
言葉の選択も言い方もいやらしさ爆発である。歩は視線をはずした。
記憶のなかにひたるのは、ひたってる間は、幸せだ。でも、記憶から現実に戻ったとき、その落差に突き落とされる。
結崎ひよのは死んだのだ。
「……お前の考えてることでほぼ正解だよ」
「『高校生の健全な恋愛』ちゃうの?」
「健全だったよ」
「じゃああれか? 強引に迫ってふられたか?」
火澄の言葉は正しくない。
強引にでもないし強制でもない。そんなことのできる根性はないと、幸か不幸か自分でもわかっている。
歩は自分という人間をよくわかっている。兄の清隆は神経が通っていないのかと思いたくなるほど図太いが、自分という人間は情けなくなるほどの小心者だ。ことに人間関係ではからっきし度胸がない。嫌われかねない行為をあえてするほど度胸があるならさっさとまどかの同居になにかしらアクションを起こしていただろう。
……なのに時々豪胆とかいう誤解をされるのは、土壇場で外面をとりつくろう術だけは長けているせいだったりする。心臓はダンスしているのだが。
だから、そうではなくて。
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