お昼休みに放課後に、何かの拍子に秘め事のささやきのようにかわされるキス。
顔を寄せ合う接触は生温かくて心地が良くて、いけないとわかっていても流されそうになる。
その日ひよのはほけけーっとお茶を飲んでいた。
「やっぱりこう一式ピシッと揃えるといーですねぇ」
新聞部の部室のテーブルはそのときだけ異世界だった。
白い丸テーブルにかかったレース、その上に並ぶ白地に丁寧な手書きの彩色をなされたカップ。
ウェッジウッドのティーポット、カップ、ソーサー、丁寧に淹れたロイヤルミルクティー。
スプーンは銀の一本四桁の値段のもの、砂糖いれもそのお値段だ。
形から入る、という言葉があるように、形を一分の隙もなく揃えると、不思議と嬉しくなる。これを突き詰めるとコレクターの心理になるかもしれない。
ひよのは時々、その驚異的な調査能力を生かして人探しだの調査だのの依頼を受ける。もちろん無償ではない。
先日調査費用が入ったとかでひよのはその金で茶器を一新し、歩が紅茶を淹れて、かくなったのであった。
ひよのは上機嫌だ。それは宿題も抱えている依頼もないということもあるが、こうまで「揃えられた」ためもあるだろう。
ひよのの対面に座っている歩も、その気持ちはわかった。
カップは思わず見入ってしまうほど綺麗だし、添えられたスプーンも見事な彫金である。誰が見てもそうとわかる高級品を惜しみなく使ってのお茶は、馥郁とただよう生花の香りとあいまって、ぴしりと細部まで決まった行進を見ているように気持ちがいい。
白いテーブルクロス、見目麗しい茶器フルセット、温かく香りのいい紅茶、後日の予定も入っておらず、あくせくしないで済む穏やかな時間。
定番ではあるが、ここまで揃えられると感心ものである。
どう言おうか迷い、カップを持ち上げ一口つけて、歩は切り出した。
「なああんた―――」
「あ、そうだ! 火澄さんについてわかりましたよ!」
ひよのはぽんと手を打った。
「え……」
先日姿を消した同居人については「何かの仕掛けのために一時的にいなくなっただけだろう」という見方が有力で、歩としてはそのうち必ず姿を現すだろうと思っていた。出てきたそのときが、最後の決着をつける時だろうとも。
「火澄さんって目立ちますからね、いなくなった日の電車バスタクシーなどの経路から追っていって、目撃証言をつなぎあわせました。学園にしばらく在籍しているあいだアイドルでしたから、いろんな隠し撮り写真があって顔写真にはこまりませんでしたし」
「……事もなげにいってくれるな……」
「火澄さんはバスで最寄りの駅、駅から電車に乗り換えて埼玉あたりまでいってますね。そのへんで足取りが途絶えてました。無人駅の多発する地方ですから、人目につかないように降りたんだろうと思っていたんですが……」
ぱんとひよのが手を打った。
「なんと! 鳴海さんのお兄さんの足取りを追ってるうちに火澄さんの痕跡を見つけたんですよ」
歩は驚いた。
「兄貴のことも調べてたのか?」
「はい。実は鳴海さんと知り合った最初の頃からずっと調べてはいたんですけど、さすがというかなんというか、手がかりナシだったんです。でも、ほらカノンさんの事件でウォッチャーのキリエさんに電話があったでしょう? あれから辿りました。一番近い中継局の記録を調べて発信地域を特定して」
おいそれは犯罪だぞ。
心のなかの突っ込みは口には出せない。一体どうやってそんな記録を調べたのか、想像もつかなくなくてむしろたくさんついてしまうが故に恐ろしい。一体どうやって職員の弱みを握ったのやら。
「それでお兄さんの足取りを追ったんです。埼玉とはちがう、長野だったんですけどね。そうしましたら火澄さんの目撃証言が―――鳴海さん?」
「……」
歩は沈黙していた。
ひよのの影響力は、この付近一帯のみならず全国規模のようである。それでも一応、疲れたように言った。
「……長野だろ?」
「こんなのかんたんですよ。犯罪沙汰となるとアレですが、美談となると人の口も緩むものですからね。以前危ないところをお世話になったこの少年に一度会ってお礼をしたいので―――と地元のローカル誌にのせたら一発でした。ガセネタも集まりやすいのが難点ですが、そのへんを選別するのが情報屋の腕ってもんですよ」
もはや歩は「はあ」とうめくしかない。
まったく、ひよのだけは敵にまわすべきではないと、何度目かの誓いを心に立てた。
「……てことは火澄は兄貴と接触しているのか……」
「おそらく、ですね。残念ながら住まいを特定にかかる直前、逃げられました。見つけたのはもぬけの空のホテルだけ。さすがの嗅覚ですね、お兄さんも火澄さんも」
「……俺からみればあんたの方がすごいと思うが……」
「それでですね、フロントにお手紙が残ってました」
はい、と手渡されたのは緋色の封筒。
「……兄貴の字だな」
おさげの子へ、弟へ渡してくれ―――と書いてある。封書の手触りは薄い。せいぜい一枚か二枚だろう。
歩はすんなり受け取って、糊付けされた口を破って中の書面を取り出し、息を吐き出した。
「なんて書いてありました?」
一筆書きの便箋に書いてあったのは、一文。
まぎれもなく、兄、鳴海清隆の字である。
「休暇は楽しんだか? だと。まったく、火澄とふたりで何をたくらんでいるのやら……」
歩は口を閉ざし、思考をめぐらせる。どうして火澄は姿を消したか?
何らかの準備期間。そうとしか考えられない。
ならば、その準備はもう終わったか、終わりかけなのだ。
近いうちに、カノンのカーニバルと同等以上の修羅場が再びめぐってくることは間違いないだろう。
思案にはずみをつけられた形で、歩は口を開く。
「なああんた―――」
沈黙。一拍おいて言い直す。
「ひよの」
「ええっ!」
ひよのが驚愕の声をあげた。
歩が彼女の名前を呼ぶのはこれが初めてだったりするので、無理もない(ひどい恋人である)。
ひよのが身をふりしぼって叫ぶ。
「鳴海さんが鳴海さんがな・る・み・さ・んがっ! 私の苗字すら憶えていなかった鳴海さんが、私の名前をっっ!?」
「……それを言うなって……」
火澄は立ち去るとき、ちょっとしたプレゼントをしていた。
それはひよのにある事実を教えることで、「鳴海歩が結崎ひよのの名前を聞かれて答えられなかった」というのは、実際いやがらせとしては効果満点の置き土産だった。
おかげでそれからしばらく歩はひよのにいじめられたものである。
「あのな、ひよの」
少し、そう呼ぶのは照れくさい。たった三文字の音なのに、気恥ずかしさが満ちる。
誤魔化すために咳払いをひとつして、歩は切り出した。
「あんたが欲しい」
ぽろっ。ひよのの手からスプーンが落ちる。
ひよのは石化したように固まった。このイミがわからないほど鈍くはないので。
「今日からしばらく、ねーさん帰りが遅いんだ。だから……俺とそうなってもいいって気があるなら、明日でも明後日でもいいから、そう言ってくれ。一緒に、帰ろう」
「え、え、ええっと、その、あのですね、その申し出はですね、予感というか予想というかいつかは来るだろうなーなんて思っていたものではあるのですがええと……じゅ、準備はできてますかっ!?」
ひよのが勢いよく頭をあげたので、おさげの先が跳ね上がる。歩は面くらいながら答えた。
「準備? 何の?」
「い、ろいろな準備ですよっ。その……」
いいづらそうにする態度でぴんときた。
「ああ避妊具ならあるぞ」
うっかり露骨に言った歩はぽかりと一発殴られたが甘んじてうける。
「判りました。じゃあ……迷ったときは先に進む! いけいけゴーゴーです、やっちゃいましょういきましょう、私の好きな言葉は先手必勝です!」
「……それは来てもいいってことなのか?」
「はい! 今日これから行きましょう!」
話をしたのがさっきの今で、今日これから。
ひよのらしいといえばこれ以上ないというほど、「らしい」。迷ったときはまず進む、先手必勝。しかしおいおい、勝負か何かと間違えてないか?
歩はつい笑みをかみ殺し、それから改めて聞いた。
「……いいのか?」
「女は度胸です! どうせ皆通過することなんです、一度やればあと同じです! え、えーと……私はその、初めてなのですが、鳴海さんは経験―――あるわけないですね」
「そこで疑問ももたずに断言するな」
「ええっ、あるんですか?」
「いや、ないけど……」
「じゃ、初めて同士ですね。いろいろへたっぴでしょうけど、比較するものがないぶん、へただとも判らないからいいんでしょうかね……?」
「あんたが下手に場慣れしてて実は経験あるんですーとか言われなくてほっとしてるよ、俺は」
奥手の歩とちがい、ひよのは世慣れた雰囲気があるぶん、「実は……」になりそうで怖い。
ひよのはぷう、と頬をふくらませた。
「私はそんなに軽い女の子じゃありませんよっ」
「悪かったよ」
そう謝ったとき、歩は幸福だった。
いまや大事な女の子と自覚した相手は自分を見ていてくれて、飢えに苦しむことも寒さに震えることもない。
近い将来の波乱の予感はあったものの、歩は、このときまでは幸せであったのだ。
このときは、まだ。
§ § §
空から見上げる月は、いつもと変わりなく白く輝いている。
誰が死んでも。……誰かにとって大切な誰かが死んでも自分たちが変わりなく笑っていたように、月は地上の全ての人に平等に、燦然と輝く夜の王だった。
「……弟さん、大丈夫かな」
「大丈夫だったらそっちの方が変だろ」
アイズ、理緒、亮子、浅月。
長期入院していた面々も退院し、彼らは今、アイズ・ラザフォードの部屋に集まっていた。結崎ひよのの死は、彼らにとってもそれだけのインパクトのあるものだったのだ。
「結崎ひよのが死んだんだ。普段どおりだったら、むしろ心配だね」
「……どうしよう、弟さん、立ち直れるかな」
「電話では、それなりに元気そうだったけど―――」
「ひよのさんが死んだんだよ? ……ひよのさんがだよ」
理緒はふぅと息を吐き出した。
「たぶん、私たちが死ぬより、ひょっとしたらお姉さんが亡くなるよりショックだと思う」
「そんなかね? だって名前も覚えてなかっただろ」
理緒を思案するように沈黙してから、ゆっくり唇を開いた。
「弟さんは、他人との間に壁をつくる。あたりさわり無く、優しいけどでも絶対奥には踏み込ませない。そういう人だよ。だからほら、クラスメートから何を頼まれても大抵了解してくれるでしょ? 料理をつくったり、ピアノを弾いたり……。弟さんは怖いんだよ。自分の気を許すのがじゃない、他人に自分の領域にずかずか踏み込まれて乱されるのがじゃない。一度心を許して、その相手が奪われるのが怖いんだ。何もなければもう奪われない、無くさない。だから何も得ようとしない。……弟さんは、そういう人だよ。でも、弟さんはひよのさんに邪険だった。そっけなくてぞんざいで。何か頼んでもハッキリ嫌だって言って、ピアノすら弾いてくれることはなかったって、ひよのさんがこぼしてた。……どうでもいい相手だから優しくなれるんだよ。壁をつくる相手だから、あたりさわりなく優しくできる。でもそれって、本当の優しさなんかじゃない。ふんわり柔らかい壁だ。『つかみどころのない優しさ』と、『嫌なことははっきり嫌だといえる関係』。―――心を許しているのは、どっち」
一同は沈黙した。理緒の言葉に共感する記憶を、多かれ少なかれ皆持っていたのだ。
彼らの注目の的である鳴海歩。彼らはそれぞれ多かれ少なかれその少年に注目してきた。そしてそのなかで、理緒の印象に共通するものを感じ取っていたのだ。
「弟さんが本当に人間関係を築いてたのって、家族であるまどかさんを除けば、ひよのさんだけだったと思う。ねえ、大切なものって、あるうちは大切だって思えないんじゃないかな。大切だって気づけても、大事にはできないのが若さで、割り切れないのが私たちの年だよね。弟さんはひよのさんが大事な人だとは気づいてた。でも、大事にはしてなかった。……照れとかそういうもので、心を表に素直に出せないのが、若さだよ。だから―――弟さんはものすごくショックで後悔してると思う。でもそれを、弟さん自身気づけない」
「気づけない?」
「うん。自分の心をさぐってみたら、自分でも気づいてなかったことに気がついた。―――そういう経験ない? 本当に大きな衝撃ってまずガツンとくらってそれからじわじわ広がっていくものじゃない? 弟さんは電話の声でしっかりしてた。……演技もあると思うけど、外面をとりつくろえるぐらいには、余裕があるんだ。弟さんが気づくのはこれから。打ちのめされるのも、たぶん、これからだよ。いつも側にいた相手がいないのを実感するのは、前を向いてるときじゃない。隣を向いたときで、何気なく振り返って相手が定位置にいないことを突きつけられたとき。今はあんまりにも突然で実感がわきようもないけど、まるで冷気の毒みたいに、じわじわと広がっていく。ひよのさん―――結崎ひよのは、もういないんだ、って」
結崎ひよのは、もういない。
理緒の言葉は集まった面々にも小さからざるショックを与えた。慄然とした色が表情に現れる。もちろんわかっていた、頭では。
ただ―――今にも「皆さんひっかかりましたねっ」と物陰からぴょこっと飛び出しそうな、殺された死んだなんてことがまるでタチのわるい冗談のような、明るくしぶとい印象が彼女にはある。
殺しても死にそうにない。
一歩まちがえれば悪口になる言葉だが、それがあれほどよく似合う少女もいない。
しぶとく、タフな女の子だった。
「……」
亮子は息を吐き出して髪をかきあげた。
「とりあえず考えてみよう。一体誰があの子を殺したのか。動機はなにか、……ブレードチルドレンに関わるものじゃなかったのか」
「とりあえず、俺たち以外にも動機を持つ奴がいっぱいいるのは確かだな」
「まあね。でも―――結崎ひよのの死は、鳴海歩への攻撃としては最高だよ。うちらとの関わりも深かったし、たぶん、ウオッチャーたちにもあの子の名前は通っていたと思う。そんななか殺されたってなると、どうしても、ね……。うちらとの関係でとばっちりみたいなことになったんじゃないかってそう思えてくる」
「なにか、心当たりのある者はいるか?」
アイズの表情に、それぞれ記憶をさぐる顔になる。
やがて理緒がおずおずと、口を開いた。
「私がひよのさんを監禁したとき、監禁場所を提供してもらうためウォッチャーの人に報告しました。ひよのさんがどういう人で、その危険性も……」
一度は「危険人物」とのことでひよのの殺害を計画した理緒である。
今でもその評価は変わっていない。ひよのは危険人物だ。……同時に、味方にまわれば非常に心強い人物でもあるけれど。
敵にまわせばこのうえない強敵。味方にすれば頼もしい盟友。
「結崎ひよのは、無関係といわれながら関係者間にかなり広く名前が通ってるからね……」
「実際、今はもう無関係でもないです。……弟さんの恋人さんになりましたから」
ほんの少しだけつらそうに、理緒は口にした。現在形で言ってることの不自然さに言ったあとで気づいたが、わざわざ訂正するほどのことでもないのでそのままにしておく。
一同に驚きが走りぬけたが、深刻なものではなく、不快なものでもなかった。浅月は軽く目をみはる。
「え? マジ? とうとう、か」
「はい。この間、新聞部の部室に行ったらばったりと」
軽く触れるだけの、愛らしいキスをしているところを見てしまった。
もちろん理緒はすぐには入っていかずに少し待って、ノックをしてから入った。
濃厚なキスより、触れ合ったあと微笑みあうような他愛ないキスのほうが気恥ずかしくなるのは何故だろう。相手を大切に思いあっていることが、見ている側により強く伝わってくるのは何故だろう。
少なくとも歩はひよのと想いあい、新しい関係を築こうとしていた。
「……うわ、じゃあもうひとつ可能性あるんじゃないか?」
理緒は黙って首をかしげる。そして数秒後ああと頷いた。
「痴情のもつれ……ですか? でも高校生で、殺害までいきますかね?」
「それはないだろうな」
黙っていたアイズが口を開く。
「ヒヨノは心臓を一突きにされていた。即死だな。普通素人は腹か、首をさす。胸は肋骨で守られていて、刺しにくい。心臓を一突きにするには、よほど慣れていないとここまではいかないだろう」
ふむふむと聞いていた理緒はそこでハッとした。
こころなしか、人々の目線が、こう。
自分に集まっていないか?
「ち、ちちちがいますよっ! 私じゃありませんっ!」
「わかっている。理緒ではないだろう。ヒヨノの力は、これから先必要になる。それを誰より知っているのはかつてあの娘とやりあって負けたお前だ、リオ」
理緒はしっかりと頷く。誰もがカノンにやられてめためたになっていた、あの絶望的な状況で、誰もが目の前にしかれたただ一本の道しか見えなくなっていた状況で、理緒は何もできなかった。
ひよのがしたのだ。
理緒がしたくてたまらなくてできなかったことをした、一人の少女。
あの場面にいた人間は皆、鳴海歩がひよのを選んだことを納得するだろう。浅月も、亮子も、現に驚きはしてもすぐに納得している。
歩にはひよのが必要だった。逃げを許さず、正しい道へと引き戻す道しるべとして長い間彼を導いてきた少女が、必要だったのだ。
「―――私が心配なのは、これが計画されてのことで、序章にすぎないんじゃないかってことだよ。正直いって、ひよのさんを恨んでいる人の仕業ならいいとすら思ってる」
一同は同じ名前を想起した。かつてその人物は、カノンを、まどかを歩を理緒を、すべてを神の手のごとく操って、一枚の構図を完成させようとした。
それが失敗したかどうかは、今になってもわからない。
カノンを殺そうとした歩を止めた結崎ひよのの行動が、彼の計画の範疇内のものかがわからないからだ。
皆の胸にわだかまっている疑問がある。
……結崎ひよのの死は、彼にとって「計算外」なのだろうか?
それとも……?
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