放課後、歩の部屋で、二人きりで。
ひよのは髪をほどく。ふんわりと細い髪は色素が薄く、見事な亜麻色だった。
脱色してではなく、生まれつきそういう色なのだとひよのが主張したことがあるが歩はあんまり信じていない。似合いすぎているからだ。
ひよのなら自分の容姿にあわせて髪の色を抜くぐらいするだろう。そして鬼の生活指導も、ひよのに対してだけは及び腰になることはまちがいない。
制服のタイをほどして落とす。ナイロンの布が衣擦れの音をたてた。
月臣学園の女子の制服というのは赤の上着に黒のスカートというけったいな色合いをしていて、襟元や袖口は白のカラーに黒のラインとなる。袖口のボタンを外していたひよのが顔をあげ、歩に言った。
「……すみません、緊張するのであっち向いててもらえます?」
「あ……わるい」
これは、歩の配慮が足りなかった。
素直に背後をむいて、歩は自分の心臓の上に手をあてた。……がらにもなく上がってる自覚はあったが、ひよのの緊張具合はもっとだろう。コトに及ぶときの、男女の心理的抵抗の差はかなりのものだというし、初めてだし。
そんなことを考えようとしても、耳がどうしても背後の音に集中してしまう。正直な耳だ、まったく。
やがて音が止まったので、
「振り返ってもいいか?」
「は、はい。ちょっとさむいですね……」
十月だし、無理もない。
「振り返るぞ」
ひよのは髪をほどいて、手で胸を隠していた。いわゆる生まれたままの姿というやつである。
つい目が吸い寄せられたのは、男の本能というもので仕方ない。
「……あんた、髪の毛ほどくとずいぶん印象変わるな」
三つ編みにしていたとき、先端は胸のあたりまでだっが今はへそぐらいまではありそうだ。
なによりいつもは正面から視線を受け止めはねかえす彼女が、頬を赤らめ、歩の視線をさけて横を向いている姿というのはなんというか、シックで大人びていて―――まるで別人だった。
歩が腕をつかむと悲鳴があがった。
「ひゃあっ!」
「こら、うつむいてたらキスできないだろ」
歩の方から体を寄せて、うーと情けない形に引き結ばれた唇に、押し当てる。
「ほら、腕さげて」
「み、見えちゃうじゃないですかっ」
「見たいの」
「見られたくないですっ! 恥ずかしいんですっ!」
「あのなあ……。あんたと俺はこれから何するんだよ」
この場合、歩の言ってるほうに理があった。
ひよのはしぶしぶ腕を下ろすが、やっぱりわめく。
「見ないでくださいよ~~~」
情けない声の嘆願を歩は一秒未満で踏みにじった。
「やだ。見たい」
「恥ずかしいったら恥ずかしいんです!」
「あのな」
「私だけなんて不公平ですっ! 鳴海さんも服脱いでくださいっ!」
それはとても正当な要求だったが、歩は即答を躊躇した。
「いや、脱いでもいいんだけど、あんたが更に緊張しそうな気がして」
超然とした雰囲気があるが歩とて思春期の少年である。間近で見たひよのの姿に体が当然の反応を起こしていた。
見られることにここまでじたばたしているひよのである。男の生理に拒絶反応なしでいられるだろうか?
「ううううう~」
「……わかった。電気消して、服も脱ぐから。恥ずかしいならあんまりこっち見るなよ」
歩は最大限の譲歩をした。電気を消すと、真っ暗になる。服を着るのとは違い、脱ぐのは目を閉じていてもできる。脱ぎ終わる頃には大分目も慣れていた。
暗順応。瞬きしながらひよのを探す。べットに腰掛け、闇にとけこんでいたのでそれがひよのだとわかるのに時間がかかってしまった。
「ひよの」
前に立って呼びかけると、ひよのは顔をあげた。暗くて表情はわからないが、わかる。
きっと、歩の背中を押すときいつもそうだったように、微笑んでいる。
「……続き、しましょうか」
ひよののほっぺたは陶器のように滑らかで、柔らかい。
人差し指でふれて、顔を近づけた。
唇の感触は、もう慣れたもののはずなのに、どうしてこんなに愛しいのか、動悸は正直に早まる。バランスをとろうと肩に手をおいて、服越しでないその感触とシチュエーションに、頭が。
暗がりで、輪郭しかわからない少女。手の中の柔らかく温かい体は自分とおなじに緊張していて。汗の湿った感触の、「女の子の肌」の匂いに訳がわからなくなる。
気がついたら、ベットの上に押さえ込んでいた。
裸で、寝台のうえ、上下で。
暴走寸前の熱情を持て余したやるせない顔で、歩は目の前にあるひよのを、みる。どういう顔をしているのだろう。見えなくてよかった、と思った。
緊張でこわばった顔か、泣きそうな顔か。そんな顔をされても、もう止められないから。
男子がうかつに触ったら停学か退学かチカン扱いされる場所に手を這わせる。
「なるみ、さん……」
声は緊張と、わずかに制止と嘆願の気配を帯びていた―――が、無視することにする。選んだのも、ついてきたのもひよのだ。今更言われても、どうしようもない。
「ひよの。……好きだよ」
こんなとき、なだめるように口にする恋の言葉が聞く方の耳にどれほど空々しく響くことか、想像がつかないでもなかったけれども、それしか言う言葉が見つからなかった。
§ § §
清潔でひろびろとしているというのは、月臣学園の特性だ。
その例に漏れず、主に貴賓や教職員の使用する正面玄関ホールもまた陽の光をあび、大理石がきらきらと輝いている、天井も高く開放感のある、豪華で清潔な空間だった。
警察による出入り口封鎖によってひとけはなく、ホールは二人の少年の独占物と化していた。
火澄は不敵な微笑を浮かべて歩を見る。
「なあ歩。腹を割って話そうか? 俺な、正直、別にお下げさんが死んでもああそうか、思うねん」
歩は火澄から一秒も目を離さず、返した。
「お前は地球の裏側の誰かの死を悲しめるか?」
たった今交通事故で、ミソネタ州のカーク・クランシーさんが亡くなりました。さあ皆さん顔も知らない彼のため、祈りましょう―――なんて聞いて泣ける奴がいたら見てみたい。
歩に比べれば、火澄のひよのとの付き合いはごく薄い。
だが火澄はひょうきんにおどけて手を広げる。
「ちゃうちゃう。俺が言いたいんは、自業自得や、ゆーことや。悲しむ価値もないで」
―――歩は沈黙した。
「なんもしとらん子供と、連続殺人犯、どっちが死んでかわいそうや? 悪徳政治家と一般庶民どっちが死んで涙ながす? 被害者がやくざのときと一般市民と、警察の対応やて百も違うんが常識や。あほな奴は言いよるなあ、命の価値はみな平等やて。でもな、そんなん嘘や。世の中には死んで当然の奴っちゅーのがおんねん。悪党より、善人が死ぬほうが可哀相やて、思うのがふつうやろ?」
「……あいつは、死ななきゃならないほど酷いことをやったわけじゃない」
反論は、自分でもどうしようもないほど弱かった。
「そか? じゃあ、死んで当然なほどの罪ゆうんは、歩、お前にとってどのぐらいや? ああ、人を殺すことか? じゃあ、カノン・ヒルベルトはお前にとって死んで当然なやつ―――やな?」
返答できない歩に、柔らかい繭の糸のように、言葉がふりそそぐ。
「お下げさんは、たくさんの人間を脅しとった。なあ、歩。人なら誰でも、弱みがあんねんな? お前ならさしずめ、実の兄が人を殺しています、ゆうところか?」
「兄貴が? あ……」
「気づいてなかったんか? 鈍いなあ。清隆は、ヤイバを殺した。人の形をした悪魔をな。でもな、いくら悪魔でも人は人。人殺しには違いない。―――そう考えるやつは、必ず、少なからずいるんやで。俺が、お下げさんの死を自業自得というんと、ヤイバを清隆が殺したのを正義というんとは本質的に、同じや。……考えてもみい。誰にだって、弱みはあるな? お下げさんは卑劣にも、それに手をふれ、のみならず、脅迫のねたにしとった。……お前が同じことをされたらどうする? 殺意もわくやろ?」
「……脅迫のネタになるようなことをしていた奴が悪いんだろう」
「へえ? じゃ、ブレードチルドレンの白長谷は、脅迫されて当然なことをやったんか? あの子がそんな羽目になったのは、ただ。ただ、ブレードチルドレンとして生まれたからやで。お前はそれを彼女が悪いと、彼女のせいと言うんか?」
握り締めた拳の、爪がいたい。
「……わかってるよ。火澄、おまえの言うことは間違ってない。あいつは……ひよのは少なくとも『咎なきひと』とは言えない人間だった。お前のように、『殺されても仕方ない人間だ』とまでは、いえないけど。―――でも、それでも俺は、お前の言葉には頷けない」
「歩、それはな、私情やで」
火澄は冷静な突っ込みをいれた。そしてそれは、正しい。
理屈でいえば、火澄のほうが正しい。だから歩も冷静に答えた。
「ああ、わかってるよ」
ひよのは恐喝の常習犯だった。
無数の人々を脅し。震え上がらせ。犯罪行為に手を貸させ。苦しめてきた。
ひよのの死に、ほとんどの人はいうだろう。「死んで当然、自業自得」と。
歩がそれに頷けないのは、端的に言って、「どんな悪人にも家族はいる」という安っぽいセンチメンタリズムにすぎない。
単なる私情。
単なる……個人的関係からくる個人的な感情の発露だ。
歩はひよのの恋人だった。だから、肯定できないのだ。
昔、歩は今にしてみれば大馬鹿の極みだが、ひよのを不死身だと思っていた。
誰が死んでも、自分も清隆もブレードチルドレンも死に、関係者のだれもかれもすべてが死に絶えたあともひよのだけは何があっても大丈夫と、根拠もなにもないくせして、いやそのためにか強固な確信を抱いていたのだ。
「これが他人なら、ひよのと深く関わっていなければ、俺もおまえと同意見だったろう。脅迫犯がころされた、身から出たさび―――って。でも、だめだ。頷けない。それだけは出来ない。無視することも、放置することもできないんだ。忘れることすら、できるかどうかわからない。何かをしていなければ、焦燥と後悔で息も出来なくなる。ひよのが死んだなんて、もうこの世のどこにも姿がないだなんて、もう二度と会えないなんて、考えるだけで耐えられない気持ちになって、すぐに打ち消さざるをえない。……だから理としてはお前のほうが正しいと思っても、腹立たしさが吹き出るんだ。理屈じゃない、論理じゃない、暴力的ででたらめな感情が、すべて押し流してしまうんだ。―――俺はひよのを殺した相手を探す。けっして諦めない。絶対に許さない! ……人の気持ちは移ろいやすいけど。この気持ちが消えうせるなんてこと、あるはずがない」
ぱちぱちぱち。
気の抜けた拍手を、火澄は贈る。その面にあるのは、どこか悲しげで優しい諦観の微笑だ。
「……そやな。お前はそういうやろ思うとった。お前はそれだけの時間をお下げさんと過ごして、それだけの経験をつみあげてきたんだものな。どれほどの論理をつくしても、ことこの件に関してだけは、お前の感情は理性の勝者なんや」
歩が思わず目を見張ったほどに、それは静かな声だった。
月の夜に響く清流の音を思わせる、不思議な音色の。
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