翌日登校した歩はひよのの反応を心配したが、それは杞憂だった。
ひよのは自分の怖気に負けて歩を拒絶してしまったことがいたく気にいらないようすで、燃えていたのである。
燃えるッテナニヲ?という人はひよのを知らない。
自分で自分の弱さを認めてそのままにしておくなんてことは、ひよのにとって非常に屈辱的で許しがたいことなのである。
そんなひよのがとった克服手段はというと……。
「歩さんとべたべたする! これでしょう!」
「……歩さん?」
「とことん、べたべたします! 思いっきりべたべたしましょう歩さん! いちゃいちゃです! 特訓です! たとえば―――」
ひよのが並べた事例に歩はその場で膝をつきそうになった。
なんといってもひよのが怖がってることに理屈も理由もない。ただ「怖いもんは怖い」の世界である。判りやすい幼児体験の一つでもあればまだ話は簡単だったろう。性的なものへの免疫をつけさせるのが目的なのだから当然といえば当然だがひよのの持ち出してきた特訓といったらトンでもないもので―――
「あんたは俺を痴漢プレイずきの露出狂にする気か!」
「露出なんてする気はさらさらないですよー、わたしの玉の肌は歩さんだけのもの、です! ですからするのは二人っきりのときで―――鳴海さん?」
くらり。
歩は眩暈がして新聞部の机に手をついた。とっさにあわてたのかひよのの呼び方も元にもどる。
「……あんた、な」
一体どういえば穏便にこの娘に伝わるのやら。
少し考えて―――馬鹿らしくなった。ストレートにいう。
「二人っきりのときにそんなことやったら、俺はあんたを押し倒すぞ」
「それもいっそいいかもしれませんね……」
悩むひよのの顔は真面目にその案を検討していた。
「一度してしまえば怖くなくなるでしょうし、いっそ妙案かもしれません。案ずるより生むがやすしって言うじゃないですか」
「……いくら俺でも、もう一度土壇場でキャンセルされるのは御免だぞ。しないって自信があるか?」
「うーん……」
なやむひよのに付き合ってられずに歩は本を広げたが、ほっともしていた。
昨夜の出来事で、ひよのと気まずくなるんじゃないかと心配だったのだが、杞憂だったようである。
しかしひよのの特訓はなんとかしてくれ。
歩とて思春期の青少年なのである。付き合ってる彼女のほうから身体的接触をもとめられたら断るのは難しいのだ、正直あれほど過激な内容を「特訓しましょう」と提案されたときには想像(妄想でも可)してしまったぐらいなのである。
……実は今もちょっと考えてしまっているのである。
それにしても昨日の今日で、この前向きさ。
「……あんたは、ほんと、逞しいよ。きっと世界がほろんでもあんただけは生き残るだろうな」
ひよのはちちっと指を振り、いつものようににこりとした。
「そうですね、自信はありますよー。でも、歩さんとだと、だめですねえ。きっと私は生き残れません」
「俺が足でまといになるっていうのか?」
所詮言葉遊びだが、すこしむっとして問い返すと、小憎らしくもひよのは「ハイ」と頷いた。
「歩さんは知らないでしょうけど、私はほんとはとっても自分本位なエゴイストなんですよー。冷酷でムジヒで血も涙もなくって。自分さえよければ他の人なんていくらでも見殺しにできるって人間なんです」
歩はすこし、首をかしげた。
ひよののこれまでの言動を回想する。
人の行動からその人間の性格が読み取れるという見方……というより常識からいうと、ひよのの言葉はおかしい。
「あんたは誰一人つかまなかった魔方陣の爆弾の棒をにぎった……誰しも自分ひとりが犠牲になりたくないと躊躇していた場面でだ」
「歩さんがいたからですよ」
「猛毒かもしれない理緒のコップの水をのんだ」
「歩さんの推理が外れるはずないって確信がありましたから」
「カノンのカーニバルのとき、連れ去られた俺をほっといて警察の指示どおりさっさと避難すればよかったのに、学校内に隠れた」
「歩さんが撃たれたのを目前で見て、そのまんま帰るだなんてできませんよ!」
「……とどめに、カノンを体をはって止めた」
「鳴海さんは、人殺しになっちゃいけない人なんです。鳴海さんは、ひとを殺しちゃいけませんよ。約束です、ぜったいですからね! そのためになら、なんでもしますよ」
「あのなあ、これが利己的な人間のすることなら、だれだって利己的だぞ」
「だから、私はあなたが関わると、妙に善人になってしまうんです。利害を考えず、保身を考えずに行動してしまうんですよ。こんなのはあれです、頭のいい行動とはいえません! とっても不服なんですけど、してしまうんです。嫌ですねえ、歩さんと一緒にいて核爆弾でも落ちてきたら、荒野の世界であなたのためにいろいろ体を張って、自分が犠牲になってでも歩さんをすこしでも生かそう、助けようって思ってしまうでしょうね。だから、私は歩さんと一緒だと生き延びれません」
そういったひよのは、どうにも言葉の内容にあわない満足げな、清々しい顔をしていた。
「……そこにはあんたを俺が守るっていう選択肢はないのか?」
「現実を見つめましょう、歩さん! さあさあ過去の出来事で、歩さんを私が、助けた事例は歩さんが先ほど取り上げたとおりに豊富ですが、私を歩さんが助けた事例は一体いくつありましたっけー?」
皆無である。
歩はぐっと言葉につまったが、すぐに持ち直した。
「じゃ、これからあんたを助ける機会があったら、必ず助ける」
ひよのはくすっと笑う。
「……いいんですよ? あなたは大局を見てください。私より、もっとたくさんの人が歩さんを必要としています。たとえば、ブレードチルドレンの呪いは私を殺したらとける……とかそういう状況になったら、迷わず見捨ててくださって構いません。私は好きになってほしいから歩さんを助けてきたんじゃありません。愛は、見返りを求めないものですよ?」
そういえば―――ひよのは、願い事といいつつも、歩に断る権利を与えていた。
断る権利のある願い事は、単なる告白とおなじだ。山ほど弱みのある弱い身の上ながら、ひよのがそれをタテに交際を迫ったことは、なかった。
愛は、見返りを求めないものですよ。
歩がこのせりふを聞くのは今が初めてではない。ひよのが香介にいったとき、歩はその場にいたし、声も聞こえていた。ひよのの声がまた演説に最適なよく通る声質で、発声もしっかりしているのだ。
そう思いながらも歩はいう。
「それは、困った」
「え」
「ブレードチルドレンたちの命とあんたの命じゃ、あんたのほうを選びそうだ」
「嬉しがらせを言ってくれますね。でも、大丈夫です。鳴海さんは、きっと正しい道を選べますよ。どうしようもないほどのお人よしですから途中は迷いますけど、最後には選べます」
歩は心のなかで呟く。―――それは、兄貴と同じになれっていう意味か?
ひよのの言葉が間違ってはいない自分を知っている。もしそんな状況がきたら、歩は迷いながらもひよのではなく、多くのブレードチルドレンを選ぶだろう。でも、そのことに後悔せずにいられるほど、歩は強くないのだ。その後の一生は、後悔にまみれたものになるだろう。
「兄貴は、一体どういう手を打ってくるだろうな―――」
「想像ぐらいつきませんか? 兄弟なんですから」
「兄貴のすることが俺の予想の範囲内だったためしがない」
「じゃ、別のアプローチをしましょう。火澄さんはどうして姿を消したのか?」
「……なにかをたくらんで、だろ?」
「何をでしょう?」
おてあげのポーズをとる。
火澄の目的がなんなのかすら、わからないのだ。
ブレードチルドレンを救うことか。歩を殺すことか。あるいは世界を征服することか。
「私は思うんですけど―――このファンタジーには、遺伝ってものが根深く関係してますよね」
「? ああ」
「これは極秘情報なんですけど。耳貸してください」
こそこそこそ。
密着の間合いにひそかに緊張しつつの耳打ちは―――
「えっ」
と歩を絶句させるに充分なものだった。
「精子がなければ、子供はつくれません。そして優生論は根強い。だからアメリカなんかでは、優秀な精子や卵子を買って子供を作るのは一般的です。でも、もうそれすら古いんです。優秀な精子や卵子を買って子供を作るより、遺伝子そのものに手を加える。デザイナー・チャイルドって知ってます? 一言でいえば人為的に作りあげた天才ですけど。将来の遺伝子技術を用いれば、ブレードチルドレンのような子供の『作成』は、不可能じゃありません」
「つまり、生まれた80人全てが優秀だったっていう事実は、『作られた事実』かもしれないってことか?」
「そうです。……エリアル・ザウエルのピアノの事件覚えてますか?」
ひよのの言いたいことを、瞬時に理解した。
「ああ―――怪談話を聞かされて、間に受けてしまったうっかりミスが招いた事件だろ? それと同じだと?」
ヤイバのホラを誰もが間に受けてしまったのが、原因だと?
「あのファンタジーは、ピアノの話と同等程度にはとんでもない、ぶっとんだお話だと思いますけど」
一理ある。
「それに、お兄さんは、それが事実でなくともいいんです。ただ、誰もが納得できる『形』があれば、子供たちは救われます。逆に、形がなければ―――ファンタジーを信じる人たちの手によって、子供たちは、殺されてしまうでしょうね」
「あのファンタジーを信じさせているのは、主にヤイバの超人性、兄貴の超人性、子供たちの優秀さ……か?」
「最初の一つはもう死んでしまって何年も経つ人ですから何とでもなります。二つ目も三つ目も、遺伝子という言葉を使えば言い訳は可能でしょう。問題は頑固に言い張るハンターさんたちの説得ですけど、それはそうした『形』があるならお兄さんが説得なりできると思います」
ひよのはそこで、息を吐き出す。
「でも、問題はこれが事実でなかったときなんですよね」
「え? あんたはあのファンタジーを信じているのか?」
「遺伝子をいじっただけで、数万分の一の確率を連続何回も当てられるようになりますか? 鳴海さんは、お兄さんをよく見ていたでしょう。あの人の特別さが、遺伝子操作だけでうまれると思いますか?」
正面から問われて、歩は考え込んだ。
答えはすぐ出た。遺伝子をいじくっただけで、清隆のような神のごとき人間が生まれるはずがない。それは、歩が一番よく知っている。
「あのファンタジーが事実か否かは、ちょっと置いておきましょう。でも、それはそれとして、関係者の人たちにはあのファンタジーを信じてもらっている訳にはいきません」
「信じたままでいられたら、ブレードチルドレンはあと三年で殺しつくされる……」
「そうです。かれらを説得するにはなにかはっきりした事象が必要です。なんといっても一線を越えてしまっていますから、なかなか難しいですね。でも、遺伝子操作、デザイナーチャイルド。こうしたアプローチをすれば、可能じゃないですか? 問題は、清隆さん、火澄さん、鳴海さん。このお三方。幸いにして、お兄さん以外は、同じ言い訳が可能です。『遺伝子操作されたから』。お兄さんについては……わかりません」
ひよのはそこで、肩をすくめてみせた。
ファンタジーをヤイバのホラとし、デザイナーチャイルドという言葉を鍵に全てを解決する。その手段は、たしかに魅力的だ。
「……でもその解決法は、ブレードチルドレンのファンタジーが本当だった場合には何の役にも立たないな?」
「それはそうですよ。呪い、なんてものどうすればいいのか。たとえ中身が変わったとしても、外からはまるで判りませんからね。変わらなかったように振舞うでしょうし」
歩は雷に打たれたような衝撃を受けてかたまった。
どうして気がつかなかったのかと、馬鹿かと激しく自分を罵った。
元から手をぬいたつもりは毛頭なかった。なかったのだけれど。
これまで、ブレードチルドレンのことは、歩にとって所詮ひとごとだった。哀れと思い、解決に力を尽くすつもりはあっても、基本的に他人のことだったのだ。
だが、ひよのがブレードチルドレンなら、彼らの運命はひよのにも重なる。 「血の呪い」が降りかかっているのは、ひよのも同じなのだ。
……こうしてみると、奇麗事でない自分の本音を突きつけられる。
焦りや切実さの、質が違う。桁がちがう。
結局、ブレードチルドレンたちは、ひよのほど大切な相手ではなかったんだと……気づかされる。
「おい」
「なんですか?」
肋骨のことを言おうとして……できなかった。
「なんで歩って呼ぶ?」
誤魔化すためにそんなことを聞く自分の情けなさが恨めしい。
「いちゃいちゃ大作戦の第一歩ですよ。嫌ですか?」
「……いや」
「でも気をつけてないと、呼びなれた鳴海さんって呼んでしまいます。……それにしても火澄さんは、お兄さんと一緒になにをたくらんでいるのやら、ですね」
「兄貴は、そもそもブレードチルドレンを助ける気があるのかどうか疑問だな」
「まったくです。これまでのことは鳴海さんを成長させるためのものだったとして、これからは、一体何を目的としてことを起こすんでしょう?」
「………」
鳴海まどかは、鳴海清隆を一途に愛し、待っている。
だが、兄には彼女のところに戻るつもりがあるのだろうか?
兄は、彼女のところに戻れるよう、尽力しているのだろうか?
§ § §
火澄は首を傾けて、ちらっと笑ってみせた。
「あんな、歩。自分のなかでもう答えは出てるやろ? それをどうしてわざわざ聞くん?」
「ひよののことだからだ」
穏やかに、火澄に負けず劣らず穏やかに、歩は答えた。
「ひよののことだから、間違いたくない。火澄、お前の口からはっきりした答えがほしい」
「ああ、ええで。―――俺は、やってない。これでいいか?」
「ああ。それでいい」
火澄が以前もらした言葉は、火澄の性質を端的に伝えている。
彼はこういったのだ。
誰かを殺す運命と殺される運命、どっちが幸せだろうと。
これは、人殺しを当然と考える人間からは到底出てこない発想だ。
だからといって、もちろん殺せない理由にはならない。人は、理由と状況次第でどんな人間でも手を汚せる。
だが、火澄は笑っていた。
ひよのの話をしている間、笑っていた。
もし火澄がひよのを殺していたのなら、ああも微笑んで語れはしない。殺人を禁忌とする人間が、殺した人間のことを笑っていえるはずがない。
だから、答えは歩の中でとうに出ていたのだが、あえて聞きたかった。
犯人を知っているのか。どうしてそんなことをいうのか。
その他もろもろ聞きたいことは山とある。だから反応を見たかったのだが、そうそうボロは出してくれない。
「火澄。お前は、ひよのが誰に殺されたか知っているのか?」
「さあな。ただ……これはしっとる。お下げさんは、歩、お前の考えてるような人間ちゃうで。たぶん、お前の覚悟より想像より、数段たちの悪い人間や」
皮肉と、哀れみすらこもった含みある言葉。
その言葉を残して、火澄はあっさり背を向ける。
とっさに引きとめの言葉が喉元までこみ上げたが、歩は飲み込んだ。何を聞いても、これ以上何かを聞きだせるとは思えない。
結局無収穫のままマンションに戻ると、まどかが待っていた。
きちっとスーツを着こなし、崩れた様子はない。なにより今はまだ外は明るく、就業時間のはずだった。
「姉さん? 仕事は……」
「仕事の一環として、来たのよ。―――鳴海歩さん、結崎ひよのさんの連絡先、住所、ご両親などについてご存知のことはありませんか?」
「は……」
「学校名簿に載せられていた住所は、かつて住んでいた痕跡はあったものの、大分前に引越しされていました。学費については毎月ひよのさん名義の口座から自動引き落とし。滞ったことはなく、無い以上は連絡を試みることもありません。口座開設時の住所についても引越し前の住所です。ご両親と担任が会ったことはなく、入学式にも出席はなく、ひよのさんの治療中の来院もありませんでした。友人と呼べる相手は皆無。学校内に、ひよのさんのご両親に会ったことのある方はいません。同様に、引越し後の住所について知っている方もいません。ニュースをまだ見ていないのか、ご両親からの連絡もなく、唯一知っている可能性があるのは、彼女と交際関係にあった、あなただけです。結崎ひよのさんの連絡先、住所、ご両親などについてご存知のことはありませんか」
立て板に水の弁舌を歩はぽかんとして聞いていた。
―――私、鳴海さんに一つ、大きな隠し事をしているんです。
あれは、こういうことか?
「俺も……知りません。聞いたことも……なくて」
知ろうとしたことすら、無くて。いつもいつも探さなくても鬱陶しいぐらいにそばにいたから。それが当然だと、いつの間にか思ってしまっていたから。
「すみません、お役に立てそうにありません」
呆然と答えながら、思考を進めていた。
ブレードチルドレンである以上、ひよのの生物学的父親はヤイバということになる。そして、子供たちはそれぞれの母親のもとで育てられたはずだった。
カノンやアイズや理緒をみればわかるとおり、ブレードチルドレンにまともな家庭、安息の場は基本的に、ない。白長谷小夜子のように、まっとうな祖父がいるきちんとした家庭のほうが例外だった。
自分は、つくづく愚かだと、身に染み入るように思う。
あのひよのの笑顔の裏に、どんな葛藤や苦しみがあったのか知ろうともせず、外面の明るさを信じきっていた。
ふと、ひよのはどんな風に育ったのだろう、と考える。
銃にも、爆弾にも、殺人者にも怯えず、ひるまず、一歩も引かずに対峙し笑ってみせたあの強さは、どんな環境が作ったのだろう、と。
普通に育ったら、銃に怯え、爆弾に怯え、殺人者に怯える。怯えないほうがおかしい。それは性格や度胸以前の問題だ。
突然そんな状況に叩き込まれたら、自分の意見を主張するなんてとてもおぼつかないはずだ。ましてやボディブローで無理にでも押し通すなんて。
ひよのを『ひよの』にしたのは、どんな経験なのだろう?
―――そんな当然の疑問も浮かばなかった自分は、取り返しのつかないほど愚かだ。
住所だとか家族とか。
いつも一緒に帰っていたのに、そんな事も知らなかった。
鳴海歩は、結崎ひよののことを、何も知らない。
→ BACK→ NEXT
- 関連記事
-
スポンサーサイト
Information
Comment:0