ジーンズにトレーナー、さらにジャンバーという極めてラフな、とても恋人に会いに行く男の姿とは思えないいでたちで、歩は家を出た。
尾行を警戒しながらも不審なようすが見えないよう注意しつつ、道を進む。通いなれた道を、普段どうりの速度と表情ですすむ一般高校生の歩に奇異の視線を向ける人間はいない。
月臣学園は以前来たときとは打って変わって静かなものだった。
校門に以前たむろっていた警察官は影もなく、ひとっこひとりいない。
月臣学園でおきた殺人事件の現場検証がものすごい短時間で終わることは、今里殺害の際にも明らかだったが、歩は少々あきれた。
しかしありがたいとはいえる。
月臣学園の第一音楽室は、新聞部にほど近い場所にあり、それだけに警察官に見咎められずに入るのは難しいと思っていたので。
はやる心を落ち着かせながら、まだ休校がとかれておらず、生徒の姿のない学校に入っていく。昇降口で、いつもの登下校と同じように上履きに履き替えるとき、すこし奇妙な気分になった。たぶん、制服ではない私服だからだろう。
制服でもなく、体操着でもない、普通の私服でいつも通っていた廊下を歩く。
よく見知っているはずの場所が、がらりと変わった顔を見せる。ひと気のなさと相まって、異次元に迷い込んだような気分だった。
第一音楽室は、ひよのの新聞部と近い。だからか、歩はよくここでピアノを弾いた。
記憶の底から水泡が浮かび上がって、はじけた。
―――あんたの願い事、一つ目と三つ目はわかったけど、二つ目は何だったんだ?
―――鳴海さんが、わたしの望むときいつでもピアノ弾いてくださいってことです!
歩はひよのの前で、結局ひよののためだけにピアノを弾いてやったことは一度も無かった。
ひよのに会ったら、ピアノを弾いてやろう、と思う。月臣学園の音楽室の防音効果は最高だ。
ひよのに、ひよののためだけに、ピアノを弾こう。
そう思いながら。歩は音楽室の扉を開けた。
§ § §
中央にあるグランドピアノと椅子、それ以外なにもない空間。
そこに、一人の青年と一人の少女がいた。
ピアノのとなりに青年がたち、亜麻色の髪の少女が微笑をたたえて演奏者の椅子に座っている。まるで対のように。
月臣学園の制服を着て、膝をきちんとそろえ、人形のように椅子に腰掛けてる亜麻色の髪の少女。
今の歩は彼女しか見えていない。大またの早足で近づく。
「ひよ!……の?」
名前を呼んで駆け寄ろうとして……思わず一メートルほどの距離をのこして、足がとまった。
「どうしたんですか、鳴海さん?」
歩はまじまじと少女を見つめた。
ひよのの顔をしている。ひよのの声だ。でも、何かがおかしい。
コミュニケーションでは、会話が三割のこりが七割という。
はっきりと言葉にできないものが、七割占めているのだ。
その七割が必死に騒乱していた。おかしい、気がつけ、と。それは「微妙な違和感」なんて形で歩の脳に送られ、歩はその違和感を分析して答えをだす。
距離を縮めず、少女の正面に立って、歩は冷たい氷板の口調で言いはなった。
「あんた、誰だ」
「ひよのですけど」
「ひよのなら、俺が駆け寄るまでぼーっと座っていたりしない。自分でも駆け寄って、声をかける。……俺を、鳴海さんとは呼ばない!」
低い笑い声は、隣から。
「実物を見て、一分足らずか。なかなか優秀だな」
「……あにき?」
一瞬ぽかんとしたが、すぐに食って掛かった。
「あにき! 一体いままでどこに―――! ねーさんだって心配して、いやそれよりひよのはどこだ!」
「おいおい三年ぶりに出会った最初の言葉がそれか? 随分薄情な弟だな。すこしは怪我はなかったの心配したよとか殊勝な台詞はでてこないのか?」
「うるさい! これはひよのじゃない! 本物のひよのはどこだ!」
頭に血が上っている自覚はあった。
でも、自分でもどうにもならなかった。理性の歯止めは歯止めとしての機能を果たさず、職務放棄していた。
「本物? ああ、お前が結崎ひよのと呼んで、慈しんでいた少女か」
清隆は弟に胸倉をつかまれても、蝿が地球の反対側で飛んでいる程度にしか気にしていない風情で、微笑み言った。
鳴海歩を絶望に陥れる言葉を。
「……お前だって、見たじゃないか。わざわざ見に行って、確認してきたじゃないか。昨日、葬儀で、棺のなかに眠る彼女を、見たじゃないか」
言葉を理解すると同時に、力が抜けた。
いつの間にか、兄の胸倉をつかんでいた手が下がっているのを、他人事のように目でみる。
「……嘘だ」
「うそ? 何が嘘だ? 冷静にしていれば、お前だってすぐにわかったはずだ。あれが、ニセモノだなんて、何故おもった?」
「指紋、が……」
「お前は馬鹿か? どうしてわからないんだ? 少し考えれば、わかったはずだ。どうして生きてるなんて思い込んだんだ? 死体と彼女と指紋があわないという。では、その照合させた指紋なんて、どこにあった?」
「あ―――」
歩の口が開いた。そのまま、言葉も発することもできない。
「通常、指紋は、被害者の死体からとる。あるいは、歯ブラシ、コップなどの日用品から。部屋にべたべたくっついているのも取り放題だ。そのなかから家族の指紋を除外して、本人のものを採取する。で? ―――その検死官は、一体どうして、何と照合して、死体が彼女じゃないなんて結論だしたんだろうな?」
ひよのの住所も不明な現在、指紋の採取先はずっと狭まる。
新聞部は、駄目だ。歩をはじめ、複数の人間が出入りする。ブレードチルドレンの溜まり場にもなって、ひよのが銃や手榴弾を持ち込むなと怒ったこともある。ひよのが重点的にさわるのはパソコンとその近くだが、そもそも、まどかはパソコンまわりに指紋がなにもないと、言っていなかったか?
教室もおなじ理由で駄目。……クラスメートとの突合せが必要となる。歩は、指紋を採取された覚えがない。
制服も所持品も、ひよののものは何一つ残されていないのだ。
「結崎ひよのの指紋」を、手に入れる方法は、ない。
指紋の判別なんて、できるはずがないのだ。
「名前の呼び方もちがう、指紋も有り得ない。なにより、肋骨がない死体なんて、そうそう捏造できるか? 少し考えればわかったはずだぞ? お前は、自分の信じたいものを信じることしかしなかった。信じたいものだから最初に信じると決めて、何も疑ってかからなかった。お前は―――結崎ひよのが生きているという幻想を信じて、思考をとめたんだ」
優しい零度の声に、重なるように、ひよのとはちがう柔らかい音がふりそそぐ。
それが彼女の本当の声なのだろう。微笑みながら、彼女はいう。
「声帯模写、っていうの。顔も彼女そっくりに整形したの。背格好が、似てたから」
「ひよの、が……死んだ……?」
「ああ」
「ほんとに、あれが、ひよの、で……」
「お前が結崎ひよのと呼んで、いつくしんでいたのは、あの死体だ」
わずかの呵責もなく、鳴海清隆は踏みにじった。
「嘘だ―――――――――っ!」
その絶叫を、歩はどこか遠いサイレンのように聞いた。絶望へとひたはしる、片道列車の発車音として。
ひよのが死んだ。ひよのは本当に、死んでいたなんて、そんな。そんな!
あの死体が、本当に、ひよののものだったなんて。
「うそだ、それもあんたの嘘なんだ、ひよのは生きているんだ!」
「……嘘じゃない。なんならまどかに聞いてみればいい。死体に、肋骨があったかどうか」
「その報告書を出した検死官は、兄貴の手の人間だろう! 俺に指紋が違ってるなんて嘘を言った奴だ! どうして信じられる!」
「ふむ、指紋にDNAに、いくらでも証拠はあるが……どうせ信じやしないだろう。お前は、彼女が生きているってことはろくな証拠もなしに信じても、その反対は証拠が無い限り信じない奴だな。自分に都合のいいことばかり信じるのは、よくないぞ?」
からかう声音で、清隆はいう。
自分の瞳から涙が吹きこぼれていることにも気づかないまま、歩は兄に闇雲につかみかかった。
「どうしてだ兄貴! どうしてこんなことをする! どうしてなんだ、どうして俺に、ひよのが生きてるなんて思い込ませた!」
ひよのに会ったら、ピアノを弾いてやろう、と思った。生きているうちは、ほとんど優しくできなかったから。
犯罪に加担していても、とことんまで付き合ってやろうと思った。戸籍もなく、死人として生きていくしかないひよのと一緒に、日本から出て暮らすのもいいと思った。
ひよのならどこででも生きていけるだけの生命力があるし、歩もそう不器用なほうではないつもりだ。二人でなら、きっと生きていける。
無邪気で罪な、希望という名の空想。
清隆は丁寧に歩の手を外すと、涙と興奮で真っ赤になっている歩の顔を撫でて涙をぬぐう。
「お前は、いま、希望が打ち砕かれることを知った。信じさせられた楼閣の上のはかない夢が全て消えさることも知った。―――お前は、立ち上がれるか?」
絶望のなかの希望が砕かれた果てのほんとうの絶望を見てなおあなたは立てますか?
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