絶望のなかの希望のほんとうの絶望。
鳴海歩は、泣けない人間だった。生理的な涙は出ても、心理的な涙はでない。
その封印がとけたのは、ひよのが死んだと聞いたとき。
そして、今。
清隆は歩の返答を五秒ほど待っていたが、歩が何も答えられないでいると、手を離し踵を返した。
その背に、歩はやっと一つだけ、声をかけることができた。
「兄貴。……ひよのを殺したのは、……だれ、なんだ?」
「わたしだよ」
凍りついた。
言葉の杭で心臓を貫いて、清隆は音楽室を去っていく。少女もそれに従ったが、最後に立ち止まり、ぺこりと一礼した。
かける声ひとつなくそれを見送って、歩は、目を閉じる。視界が消えて、目の熱さも頬の熱さもわからなくなった。
もう、何もかもどうでもよかった。もう、何も考えたくなかった。
涙はもう止まっていた。名残で、頬が赤い。それだけで。
歩は石になりたかった。
心の痛みも何も感じないですむ、石ころに。
§ § §
第一音楽室にいる歩を最初に発見したのは、火澄である。
予想どうりの顔でへたりこんでいる歩をみて、思わずため息ひとつ。
結崎ひよのが命を投げ出してまで庇った相手がこれかと思うと、無惨に命を奪われた少女が哀れになる。
歩は冷たい床に左半身をふれさせて転がっていた。
「おい、こら歩」
しゃがみこみ、その顔を覗きこんで……火澄はぞっとした。
(何て目だ)
なにも見ていない、何も見ようとしていない、虚無ばかりが満ちる瞳。このろくでもない世の中の最もろくでもないものを見た人間がする目だ。
―――でも、それは、逃避に他ならない。
歩自身は外を遮断して幸せだろうが、火澄はそうさせる気は、さらさらなかった。
「……お前がそんなんなったら、お下げさん無駄死にやん」
ひよのは火澄にむかって言った。呆れ顔で、首を振りながら。
―――どうして私の周りにいる人たちは、こうも揃いも揃って自殺志願者なんですかね。死ぬ死ぬ言ってないで、まっとうにしぶとく他人を踏み台にしてでも生きてやるって根性のある人はいないんでしょうか。ブレードチルドレン? そんな自分の不幸に酔ってる人たちと私を一緒にしないでくださいよ。私は、何が何でも生きてやるって奴なんですから。
「生きたいゆうてるお下げさんがころされて、逆に死んでもいいちゅう俺やブレードチルドレンが生きてる……ほんま、いややなあ」
鳴海歩は完全にうちのめされている。
死んだと思い、しかし実は生きていると思い、そして本当は―――ころされていたのだから。
偽りの希望は、期待させるぶん、傷が深い。
歩に必要なのは時間だろう。こんな、冷え切った部屋での時間ではなく、温かく体と心がほっとするような、時間。
火澄は自分でも何をやっているんだろうと思いながら、脇の下に腕を通し、歩の体を引き上げた。
「ほら、立ちいな」
歩はよろけながらも自分の足で立ち上がった。反射的にしたがった、という動きだった。
火澄は歩のためタクシーをよび、自分の家へと向かいながらまた、何やってんだろうと思う。
火澄に、歩を助ける義理などこれっぽっちも無いのだが。
だが、ひよのは少なくともあのまま冬の音楽室に放っておかれた歩が肺炎を起こして死ぬのを望んではいないだろう。
こんなゾンビの眼をした歩については言わずもがなだが。
火澄の現在住むマンションは、高級マンションの部類にはいる。冷暖房完備、オートロック1LDKの贅沢なつくりである。
火澄はマンションにつくと、まずエアコンを入れた。
冷えた室内の温度をあげて、歩をベッドに押し込む。
「ええか? そのままでてくんなや?」
そうしておいて、自分はキッチンでお茶を淹れた。
それを持ってテーブルにつき、ため息をこぼす。
……結崎ひよのは死んだ。
歩が最初にみたあの死体、新聞部で発見されたあの死体は、彼女本人のものだ。少なくとも、結崎ひよのは、自分のために無関係のだれかを殺せる人間ではないし―――清隆は気づくだろう。歩が、あっという間に少女がひよのでないと気づいたように。
そんな無駄な小細工とわかっていることで、誰かの命を使い捨てにする人間ではない。
今日一日。それだけは時間をやろう。
心は、時間とともに癒されていく。心が完膚なきまでに打ちのめされた今の歩を、強引に立たせようとすればそれこそ再起不能になりかねない。
けれども待ってやれるのはそこまでだ。
殺された結崎ひよのが何をしていたか。どれだけのことを歩のためにしていたか。どれほど殺される恐怖に怯えていたか。それら全てを知る義務が、歩にはある。
(ほんま、何やってんのやろなあ……)
歩にそんなことを言う義務は火澄にはないし、今だって、歩の世話を焼く理由など、何一つとしてないのだ。
ひよのに「お願い」を言われたものの、引き受けるとは言ってないし、歩への義理もない。無償のお願いであり、取引としてひよのから提示されたものは何もなかった。
ひよのはただ「お願い」をして、火澄は火澄の当然の権利として、突っぱねただけだ。
なのに、今火澄はひよののお願いの通りに動いている。
最初から最後まで、歩だけを見ていた少女の願いのとおりに。
喉に流し込んだアールグレイの紅茶は、肺腑にほどよくしみる温かさと、苦みを持っていた。
§ § §
心に加えられた打撃は、体へのものと違って深さと広さが目に見えない。
どれほど心に深い傷を負っていても、人はわからない。外見からは想像もできない。そして、復帰することを強制される。足を折った人間に歩くことを強制する人間はいないが、心の挫けた人間には、人はそれを強制するのだ。
心の問題なんてものは、本人の気の持ちようで解決する。
この考え方はひどく広く浸透していた。
歩はいま、追憶のなかにいた。
結崎ひよのの遺体はすでに、火葬場に行った。白く立ち上る一本の煙。それがひよのの姿となった。
葬儀で、おざなりに見た顔。
あの日、駆けつけて見た白い顔を、繰り返し思い出す。
記憶にのこる結崎ひよのと、違っているところを、探そうとする自分のこころは、浅ましいほど正直だ。
―――兄貴が、ひよのを、殺した。
生きている、と。信じさせて、裏切った。
ひよのは清隆に殺された。
そればかりが歩の思考をぐるぐる回っていた。外界で、火澄が歩に話しかけていることにも、気づかなかった。腕を引かれるままたち、歩き、暖かいベッドに包まれていることを記憶はしていたが、認識までいたらなかった。
そう、歩はすべて記憶していた。火澄が歩の世話を焼いてくれていることも、火澄のことばも。視覚にも聴覚にも触覚にも異常はない。ただ、こころにまで届かない。記憶に、認識が伴っていないのだ。
外を拒絶した歩のこころに一滴のしずくが落ちたのは、それをいわれて数時間がたったときだった。理由もきっかけもなく、不意にそれは訪れた。
―――……お前がそんなんなったら、お下げさん無駄死にやん。
記憶に、認識がやっと追いついた瞬間だったかもしれない。
しずくを中心に、次々に思考が広がっていく。
兄は、どん底まで歩を落として、何をしたかったのだろう?
それともこれは試練だったのか―――ブレードチルドレンを歩にけしかけたように、歩が、あんなたわいもない陥穽に引っかかるかどうかを、試していたのか。
そもそも、なぜ、兄はひよのを殺さなければならなかったのか?
疑問は次々にわいてきた。
そして疑問は、能動的な思考活動だ。
しかし一瞬波打ちかけた心は、再び静寂が支配した。
―――そんなことどうでもいい。ひよのはもう、死んでいるじゃないか。
そう思った瞬間、芽生えかけていた芽は、全てが朽ちた。
何もかもどうでもよかった。
自分が何をやろうが、ひよのは生き返らないのだから。
§ § §
しばらく、鳴海家にいた火澄は当然のこと、鳴海家の電話番号をしっている。
気配り人間の火澄はまどかに電話をかけた。
「―――はい、鳴海です」
「まどかさんですか? 火澄ですけど。今日歩、そっちに戻れません」
「えっ? その、なんで?」
声に、普通でない動揺があった。
火澄は推測する。
「ひょっとして、歩に話そう思ってました? 指紋の勘違いのこと」
「……そうなの。昨日、検死官のひとが謝ってきてね……教室の机から取った指紋と照合したんだそうだけど、ほら。月臣学園って、放課後清掃するじゃない。徹底的に。ひよのさんの指紋なんて、そのときに消えちゃうでしょ? 結崎ひよののものと思っていた指紋はクラスメートの指紋だったそうで……違っててあたりまえなのよ。でもあんなに喜んでいる歩に、なんていったらいいかわからなくて。でも今日こそは言わなくちゃと思って待ってたんだけど……」
「あ、それなら大丈夫です。歩、それ知ってますから。それを知って、で、今ショックで寝込んでるんです」
「そう……ごめんなさい。ほんとうにごめんなさいって、歩に謝っておいてくれる?」
切ろうとする気配に、火澄はふと聞いてみた。
「まどかさん、仮に……だんなさんが人殺しだったとしても、愛せますか?」
電話線の向こうで、戸惑いと、そのあと笑った気配。
「歩はひよのさんが何をしていても、それについていくと言ったわ。私もおなじ答えよ」
「そうですか……変なこと聞いて、すみません」
電話を切って、火澄は息を吐き出す。
結崎ひよのが生きてるとき、歩がそこまで少女に優しかったかといえば、答えは決まってる。
歩がそこまで自分の心を直視したのは、唐突に無惨に奪われたあとのことで、それまでは歩は終始一貫、ひよのを粗末にしていた。
(―――あれは思いっきり俺の好みじゃない、とか言うといて……!)
そう嘆いていた少女の顔を思い出すと、むかむかしてきた。
「失ってからでないと、ほんまの価値がわからんあたり、大馬鹿者や、おまえは」
その火澄のつぶやきは、誰が聞いても激しく同意するだろうものだった。
§ § §
本日この部屋に、別の人間がいるのに、火澄はひとりだった。
昨日連れ帰った野良猫は、いっかな、火澄の部屋を占領して火澄に会いにこようとはしない。
夜はソファで眠り、朝食はわざといいにおいを漂わせたバターたっぷりのトーストとベーコンエッグを目の前で食べた。もちろん昼食もである。
きっかり24時間が過ぎるまで火澄は何一つ干渉せず歩をいいだけ落ち込ませていたが、時計の針が午後の二時を指したのと同時に、すっくと立ち上がり部屋の扉を蹴り開けた。
歩は、火澄が部屋に押し込んだときと同様に、ベッドのなかにいた。
その布団をはぎとって、まずはポイ。
次に、歩の両肩をつかんで揺する。揺する。洗濯機も顔負けに揺する。
「いい加減目え覚ませどあほ!」
ばたばたと歩の髪がベッドの表面を叩く。頭が前後にゆれて、首の頚椎に負担がかかりまくりでヘルニアになりそうだが、なるのは火澄ではないので頓着しない。
とうとう歩が火澄の手を振り払った。
「……うるさい、ほっといてくれ」
「俺かてほっときたいわ! でもほっとけんのや。お前がそんなんじゃ、おさげさんが浮かばれんやろ!」
「それが、どうした。俺が動けばひよのは生き返るのか? あれはやっぱり偽物で、本当のひよのは生きていた、なんてことになるのか? なるならいくらでも動いてやる。……でも、そうはならない」
いっしゅん、言葉に詰まった隙をついて、歩はいう。
「……放っておいてくれ、頼むから。邪魔ならでてく」
「しっかりせいや! おまえは信じんのやろ? 希望も絶望も信じんのやろ? お前はまんまと清隆のわなにはまった。偽りの希望なんてものを信じてしまった。それがお前の敗因や」
歩は笑った。せせら笑いの、最高に低俗な笑い方だった。
「……お前は、俺に、兄貴を殺せって言いたいのか? そして、ねーさんを泣かせたがっているのか? しっかりするっていうのは、そういうことだ」
またもぐっと言葉につまったが―――火澄は息を吸い込むと、静寂のみえる声音で言った。
「―――お前には、お下げさんがどれだけの覚悟で、どれだけの恐怖に耐えながらそれでもお前のためにやっとったか、知る義務がある」
歩の表情が、少し、反応したようだった。
「おまえ、自分が死ぬなんてこと、本気であると考えたことあるか? 本気で自分が殺されるなんてことを考えたことあるか? 泣くほど怖くて、夜も眠れんほど怖くて、それでも踏ん張った原動力は、何だと思う? ―――ぜんぶ、ぜんぶ、お前のためや歩!」
絶叫に、歩の体に反応が起きた。
「お前も、ひよの、を……?」
「知らん」
プイと背けた火澄の顔は、歯を食いしばっていた。
「知らん。そんなもん俺は知らん。ただ……俺は、あのお下げさんがどんなに苦しんでたか、知っとる、少なくともお前よりはな。苦しんで、悩んで、それでも逃げまいとして……お下げさんは戦って……生きようと、あがいてあがいて、死んだんや。俺自身、少なからずお下げさんに救われたところはある。俺は、人間や。そんな女の子を何の感慨もなしに見ていられるやつは、人間やない。それだけや」
そう、それだけだ。
生にしがみつくひよの恐ろしいほどの諦めの悪さと、それでも摘み取られてしまった命に、敬意を表して、ほんのすこし、譲った。それだけ。
だから歩をここへひっぱってきて、だから面倒をみてる。
死にたくないと、生きていたいと、全身で叫んでいた彼女がどうして死ななければならなかったのだろう?
「歩。お前にはその義務がある。お前がのほほんとしてる間、おさげさんがどれだけのことを、ただひとりお前のためだけにやっていたか、知る義務があるはずや。ちがうか?」
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