ああ、なんだ、なるほど、そういうことか。
ひよのの遺したデータを見て、歩の冷静な部分は、それだけ思った。
ショックは不思議なほど少なかった。なぜかと考え、ああと頷く。
感じなくなってしまったのだ。
爆発音を聞いた耳に、しばらく小さな音など入らぬように、ひよのを失った衝撃からまだ復調していない心は、波立たない。
結崎ひよのが生き返ってくれるのなら、鳴海歩は何でもするだろうが、一度失われた命に取り返しはつかない。結崎ひよのは死に、二度と戻らない。その莫大な衝撃に比べれば、このデータの、心を突き崩す衝撃などたかがしれている。
ただし、心をくるみこむ遅効性の衝撃はあって……
歩は火澄に頼んだ。
「―――悪い、火澄。すこし、ひとりにしてもらえないか?」
出て行く少年を見ながら、歩はあいつはどういうつもりなのかと思う。
清隆の味方か、それともこちらの味方か。ぼろぼろの歩をひっぱってきたのは、ひよのに頼まれたせいと、生来のお人よしゆえとしても、これからはどうするつもりなのだろう?
歩は、パソコンに目を戻した。
マウスをクリックして、出てきた情報をを胸の中で咀嚼する。何度も何度も吟味し、味わい、そして……受け入れた。
歩は深呼吸して頭を上げる。
最初は、ひよのを殺した清隆を、殺してやるとすら思った。でもひよのはそんなものを望んではいなかった。歩に、きれいな手のままでいることを望んでいた。
復讐。
それに惹かれる部分はある。あんなに生きたがっていたのに、殺されたひよののことを考えると、それだけで怒りで頭が沸騰しそうになる。
……でも、ひよのはそんなもの、望んでいないのだ。
ひよのが置いていった布石が、そんな歩を諌める何かを少しずつ胸に積んでいってくれた。
―――鳴海さんは、人殺しをしちゃいけませんよ。
……お下げさんに、頼まれたことがある。お前を人殺しにせんことや。
―――これが私に選んだ道です。
目的で目隠しするのはラクで聞こえがよくて、べんりだ。でも、歩はそうなってはいけない。復讐を忘れることはできそうにないが、目的以外のものも、見れる人間にならなければ。
「兄貴、あんたは正しい人間なんだろう。ひよのは必要な犠牲だったと、そういうだろう。でも、おれはあんたにはならない。『正しさ』のために、踏み潰される人間のことを、俺は忘れない。……ひよののことを、忘れない」
二度と諦めない。二度と、疑わない。
結崎ひよのが最期まで歩の味方であったこと。それを疑うぐらいなら、喉をかっきって死んでやるとすら思う。
心に、暖かな炎がやどるのを感じていた。
外にでると、すっかり夜は更けていた。
住宅地のこの近辺はコンビニなども多く点在し、人通りはかなりある。姉のまどかの叱責を脳裏に思い浮かべつつ火澄の家を辞して自宅に戻る途中で、歩はひとりの少女に声をかけられた。
「こんばんわ、歩さん」
その声。
反射的ともいえる仕草で鋭く顔を上げ、相手をみて、歩は軽く息を吐き出した。
「……なんだ、あんたか」
「なんだはないですよ。ひよのちゃんに会えて、嬉しくないですか?」
「結崎ひよのに会えたらそりゃもう嬉しいだろうけどな」
狂おしく抱擁するぐらいはしてやるし、やってほしいことの100や200はしてやるし、あいつごのみのクサイ台詞をいくらでも降り注いでやる。
……が、そんな日は永久にこない。
「あんたはひよのじゃないだろ。なんて呼べばいい?」
見ないように正面を向いて足を動かしていたら、覗き込まれた。
ひよのそっくりの顔。その唇が動く。
「じゃ、アケミにします。あそこのポスターの歌手の名前」
「で? アケミサン、俺に近づいた目的はなんですか?」
「それはもちろん―――あなたは今心が弱っているだろうという判断に基づいての、揺さぶりですよ?」
正直デスネ。
そういえば、音楽室からこっち、外にでるときはいつも火澄がいた。いたから接触もできずにいたのか。
結崎ひよのの顔と声。確かにそれは効果的だろう。さっきまでなら。
「足をとめて、喫茶店にでも入って、いろいろお話、しません?」
「悪いけど、急いでる」
「私の顔、見るのがつらいですか?」
「顔だけ似てる粗悪なイミテーションに、興味はない」
わざと冷然というと、むっとした気配が返ってきた。
彼女は小走りになると、歩の前にまわりこんで手をひろげた。
そうなると、足を止めるしかない。
一瞬だけ足を止め、その脇を通ろうとした瞬間、完全に足止めされた。
少女は爪先立ちになり、素早く、歩の唇を塞いだのだ。
周囲の眼をちらとも考えない行動に、さすがに周囲の人々もざわめいた。決して、人通りのない道ではないのだ。
ざわめきをものともせずキスを楽しみ数秒後、少女は唇を離すと、歩の目を見て蠱惑的にわらう。青臭い小娘には絶対できない、男を知る娼婦の微笑だった。
歩は口が自由になるとすぐさま平坦に言う。
「こんな人通りの多いところで何するんだ」
ひよの以外とそうした行為をしたのは初めてで、歩は手の甲で唇に残った唾液をぬぐう。
ひよのとした時のような心拍数変動はない。ついでに技術もひよのとは天と地ほども違っていたが、いいだけ口内を蹂躙されただけで、歩はでくのぼうのように突っ立っていただけ。
気持ちいいとも感じなかった。
「じゃ、人のいないところに行きますか? ホテルにでも?」
からかう口調は、歩の冷静さを強がりとでも思っているのだろう。
歩は我ながら冷えた目で、少女を見つめた。
「あんた、本当に、ひよのじゃないな」
「ええ。でも、耳と目は騙される。身代わりでも偽物でも、少しでも気持ちが落ち着くなら利用するのもいいと思いませんか? 私はあの子と違って、拒絶したりしませんけど」
「あいにく、女性の好みはうるさいんだ。ひよのと同じ顔ってだけじゃ、興味ない」
恋人同士だったときはひよのの潔癖さを恨んだこともあったが、こうしてみるとよくわかる。
いま、歩は嫌悪感を、感じている……。
ひよのの顔をしているのにひよのでない少女が、平気で歩を寝台にさそうのが嫌だ。それをどうでもいいことと考えているようなのが、もっといやだ。
少女の脇を押しよけて、歩き出すと足音と声が追ってきた。
「じゃ、どうして私のほうを正視できないんです?」
しつこさに根負けして、歩は一度足を止めた。
隣を振り返る。
「悪いけど、本当にもうどうでもいいんだ。俺は結崎ひよのが好きなんであって、顔が同じだけの他人はどうでもいい。慰めなんかもいらない。もう、ひよの本人からもらったから」
強い眼差しでそういいきって、背を向ける。
今度こそ、声は追ってこなかった。
◇
歩は帰る途中のスーパーで買い物をすると、家に入った。
かぎを開ける音に、まどかが玄関にとんできた。
「あ、歩!? 今日もてっきり火澄くんのところかと……」
「帰って来た。ねーさん、もう夕飯食べたか?」
答えながら靴をぬぎ、食卓を見てため息。
歩のいない間しのいだのだろう。たくさんのコンビニ弁当が転がっていた。
「ごめん、もう食べちゃった」
「じゃ、俺はまだだから作るよ」
歩は食材を刻んで、下ごしらえをしながら、食卓を片付けている姉のまどかに声をかける。
「ねーさん」
「なーにー?」
「捜査状況に進展は?」
少しためらい。
「……ないわ」
「そうか。……そうだ、埼玉県の、宮崎歯科に行ってみてくれないか? ……ひよのが通ってた歯科だから。多分あの遺体はひよので間違いないと思うけど。カルテはまだあるはずだ」
「……わかった。本人確認ね。ごめんね、歩……指紋の件、ぬか喜びさせて……」
「いや、あれは気づかなかった俺が間抜けなんだよ。それに、いいだけ落ち込んだら浮上したから」
「―――そうね。料理する意欲がわいてきたんだものね」
「ああ。昨日まで落ち込んでたけどわかったから、いい」
「わかったって、何が?」
「ひよのが心底俺を愛してくれてたこと」
思わず絶句するまどかに、完成した料理をもった歩は笑いかけた。
「あいつは自分の死に、俺が意味と価値を見出すことを望んでいた。あいつは、俺が抜け殻になったり、腑抜けになることなんて望んでない。死にたくない。でも死ななきゃならないのなら、俺のなかに絶対に揺るがせない白い砦を作れるように―――そう願いながら死んだんだ。生きてるうちからこつこつこつこつ死んだあとの俺のことを心配していろいろ準備して……あいつは、俺のことをそこまで想ってくれた。だったら、もう安心させてやらなきゃいけないだろ? 今頃ひょっとしてそこらへん漂って俺のことを叱咤激励してるかもしれないだろ?」
「……あの子のことだから、またボディブローかもよ?」
「うん、で、手が突き抜けて、『あーもうっ、鳴海さんはっ!』とかやきもきしてるんじゃないか?」
不意に、まどかはすまなさそうに頭を下げた。
「―――ごめんね、歩。まだ犯人のめぼしもついてなくて」
(ああ、そういえば……兄貴が犯人だってねーさんは知らないんだっけ)
言うべきかどうが迷い―――とりあえず、先送りにする。
「ねーさん、ちょっと長い話があるんだけど」
「なに?」
食卓についているまどかの真向かいに座り、出来上がったばかりの食事を開始して、歩は言った。
「ブレードチルドレンについて、ひよのは独自に調べてた。その資料を手に入れたんだ」
「うん。なにかわかったの?」
「何か、なんてもんじゃない。判りすぎて嫌になるぐらい、わかった。俺とひよの、血がつながってた」
まどかは凝固した。
一秒あけ、
「……え?」
歩はまったく同じイントネーションで、繰り返す。
「俺とひよの、血がつながってた」
「な、なななななな、何で!?」
「話せば長いんだけどな。―――ひよのの体、肋骨一本なかっただろ?」
「……ええ。彼女も、ブレードチルドレンね」
「ま、それは以前から知っていたんだけどな。ひよのは、子供たちの生体データを集めて、研究して、ひとつの結論に達したんだ」
「―――どんな?」
「ブレードチルドレンの呪いとは、脳内物質の異常」
「―――…」
鋭く、まどかが息を吸い込む音がした。
「かんたんにいうと、ブレードチルドレンは興奮を抑える物質ができにくく、かつ攻撃衝動を増進させる物質の分泌過剰。さらに上手く出来てることに、生まれてから第二次性徴をむかえて数年たつまでは、攻撃衝動増進させる物質を無効とする物質が生産される……」
無効といったのはまどかにわかりやすくするため。
これは「拮抗」と呼ばれている。物質はそれにそぐった受容体がなければ意味がないが、もし、Aの物質の受容体に、Aの物質によくにているけれども別の効果のB物質が先に入ってしまったら?
ちょうどそれは、鍵穴が粘土でふさがれた状態にひとしい。鍵と鍵穴。両方揃っているのに効果がない。
「で、でもそれはちょっとおかしいわ。そうだとしたら、どうして―――」
「ウォッチャーたちが調べられないのか、だろ? キリエさんは原因不明と断言していた。脳内物質もなにも、まず誰もが気づきそうな点だ」
そう、人格が一変するというのなら、ブレードチルドレンの体で真っ先に疑われるのが、脳だろう。
「だからひよのは自分の仮説の正しさを確認すると、こう仮説をたてた。ブレードチルドレンの呪いは、正体がわからないのではなく、『正体不明にしている誰か』がいるんじゃないかと」
「―――」
「そしてそんなことが出来るのは、ひとりしかいない」
言葉を切り、歩は目をそらす。
それだけで、彼女は理解した。
震える声で、まどかは呟く。
「清隆さん……?」
§ § §
日本の治安のよさはどこへいったのか。
かつては平気で女性が夜歩きできた夜も、もう遠くなった。
いまやもう、普通程度に防犯意識のある女の子が夜の8時をすぎてひと気のない夜道にたたずんでいることなどない。
冬の夜、という凍りつくようなオプションがついていればなおさらだ。
なのにその晩、街灯の照明がおちてできる輪のどまんなかに、一人の少女が立っていた。
手提げ鞄を両手で一つ持ち、ぽつんと。たたずんでいた。
「……なにやっとんの?」
アクション映画を思わせる動きで、ひよのが振り返る。そこに火澄の姿を見出して、体の緊張を解いた。
「びっくりしました~。いきなり背後から声をかけないでくださいよ」
「いや……なにやっとんのかなーと」
誰でも知人の女の子がぼけっと夜の道に立っていたら、声ぐらいかけるのではないか?
火澄はひよのの前の建物を見あげた。
鳴海歩のマンションである。
しかし、人通りの多い車道に面した正面玄関は、むこう。ここからでは、鳴海歩の部屋のベランダは見えるが、それだけだ。
「歩と、なにかあったんか? それとも逢引の約束とか、合図とか?」
「いえ、なにも。ここで歩さんは生活してるんだなーとおもって、ちょっとしみじみしてしまっただけですよ?」
「嘘つけ、お下げさん、かれこれ二時間はいるやろ」
ひよのの眼が見開かれる。
「見てたんですか? ヒマですねー」
「ちゃう。かまかけただけ」
ひよのは一瞬沈黙を返し、
「……妙~に、あなたとはろくでもない場合に縁がありますね」
まったくだ。音楽室の時といい、今回といい、自分は彼女の弱みに縁がある。いや、火澄が彼女の弱みを見抜けるからそう思うのか。
ほら、今だって、首の線、肩の線、二の腕の線、緊張があるのがわかるだろう?
「歩と会いたいんか? なら、呼んだろか?」
「いいえ。こうしているのが、楽しいんですよ。ほっといてください」
「まさか……歩が偶然ベランダにでて、偶然おさげさんを発見して……なんてことを夢見てるん?」
「それが叶えば、運命でしょう?」
まさかと思いつつ言ってみたことに肯定がかえってしまって、火澄は頭を抱えてしまった。
「……お下げさんは、そんな偶然を信じるより、とっとと電話して呼び出すタイプだと思ってたんやけど」
「女の子は、時に、運命を偶然という神のダイスに委ねるのが好きなんですよ」
「で、何を賭けているんや?」
「別に。ただ……会いたいなあって。そう思っただけですよ?」
火澄は三秒ほど、彼女を見つめ、そしていった。
「明日死ぬかもしれないから?」
「はい」
「……まったくあんたのやせ我慢には、尊敬するわ」
火澄はそれを、心底あきれ果てたという口調でいい、むっとしたひよのが睨んだ次の瞬間には目の前にいた。
反射的にひよのがあとずさるよりも早く。
火澄が彼女を抱きしめていた。
「あんた、俺に今殺されるんじゃないかと思うとるやろ?」
「思わずにいられますか」
抵抗するひよのの腕を、火澄が背後に回した手でおさえる。
もう片方の手で、ぽんぽんと叩いてやった。
「ほんまに、お下げさん見つけたのは偶然なんやけど。お下げさんがそう考えるのは無理ないなあ。こんな人目のない場所で、俺に会ったら。怖いし、緊張するし、警戒するわな。今日殺されるか、明日殺されるか、そればっかり考えてるときに、当の自分を殺す人間にあったら、殺しに来たのか思うのが普通やな。なのに、それをチラとも見せん。呆れるでほんま」
「……離して下さい」
搾り出す声音でひよのがいい、火澄はあっさり踏みにじる。
「いやや。あんた、やせ我慢の信条もいいけどな、時にはどこかで発散させんと、壊れるで? ひとりの時でさえ平気なふりして、いい加減にせいや」
ぽんぽん。背中をたたく。
そのとき、ひよのが呟いた。抵抗は、いつの間にか止んでいた。
「誰に吐き出すっていうんです、誰に言えっていうんです。それで、そのひとが私を助けてくれるというんですか。言われた側だって困るでしょう、どうしていいか判らないでしょう。それに、私が壊れる前に、私の人生のほうが終わりますよ」
「死ぬんやったら、なおさらや。いっぺんぐらいは本音吐き出しいな」
ひよのは鼻でわらってみせた。
「考え方の違いですね。私は、もうじき死ぬなら最期まで見苦しくないよう努めます」
「見苦しいか? こらえにこらえてきた本音は、見苦しいか?」
「ええ。知ってますか、火澄さん。世間はそれを、癇癪とかヒステリーと呼ぶんですよ?」
そう。世間では、本音の爆発を、ネガティブにとらえている。
火澄は沈黙し、口調を変えた。
「―――あんたは、そうしてすべてを自分ひとりの胸にためるのか? 痛いときに、どうして痛いと言わない? 口に出せば、助ける人もいるかもしれない。でもそうして笑っているかぎり、周囲はあんたが傷ついてることにすら気がつかない」
「ええ。私は、それを望みます」
冬の夜の大気に凛と響く、あまりに決然とした声だった。
火澄の力が思わず緩んだ隙に、ひよのは渾身の力で抱擁から抜け出す。
抵抗がやんでいたぶん、油断しておさえ切れなかった。
自由になったひよのは素早く火澄から距離をとる。
昂然と頭をあげ、言った。
「馬鹿な娘と笑ってください。でも私はそういう娘にしかなれません。痛くても苦しくても、私は笑います。生あるかぎり、笑ってみせます。最期の最期まで、笑っています」
―――今も。
彼女は微笑した。
「私はだれかに弱みを見せつけて、相手の優しさをもぎ取る女が嫌いです。弱いからと、弱いことを武器に庇護を求める人間が嫌いです。私は弱い。とてつもなく弱い人間です。誰かに寄りかかることが出来ない人間です。だからこそ、最期までその生き方を貫きます。今ここで、あなたにすがれば一時は楽になるでしょう。でも、時間がたてば、私はそんな自分を許せなくなる。あなたの見せ掛けの優しさに屈してしまった自分が、情けなくてたまらなくなる。……あなたの言うようなことが出来ないのが、私なんです」
ひよのが言っているのは、彼女が彼女である、誇り。
火澄はゆっくりと一歩、足を踏み出して止まった。そこがちょうど、街灯の作る光の輪の真下となる。日本では、人通りの少ない道にも点々と連なる街灯によって、真の闇ができることはない。
「……あんたは、歩になら弱みを見せられるんか?」
「ええ……たぶん。あのベランダに偶然姿を見せ、偶然私を発見してくれた歩さんにならば」
心中にその瞬間草原の大火のごとく燃え広がった炎を、火澄は知っている。
……嫉妬だ。
「あんたはそれを望んでるやろう? 歩が出てくることを。歩が姿を見せんかったら誰にも何も言わんまま、抱えに抱えてこらえにこらえた心のまま、死ぬつもりか」
ひよのは、街灯の光の輪の線上にいた。顔に光の筋ができている。光と闇が現れたその顔で、ひよのはまた。誰よりも白く。
わらった。
「はい」
つらいと感じるとき、人はそれを何かで発散する。子供に当たる人もいるだろう。物を壊す人もいるだろう。振り上げた拳を止めるのは困難で、そして、止めたぶんだけ、心にどす黒いものが積もる。
積もって、積もって、積もったものは、発散させないかぎり積もりつづける。
なのにどうして彼女はこうまで白く微笑めるのだろう。どうして死を目前にして、死にたくないと怯える身で、その負担をすこしも勘付かせることなく周囲と接することができるのか。
「……俺、歩を呼ぼうか?」
「要りません。私はとくに、歩さんに気取られたくないんです。それでも来てしまったのが私の弱さ。それでも偶然を盾に、自分で呼ばずにここで待っているのが私の意地。もしも歩さんの運命の人が私なら、歩さんは気づいてくれるでしょう。まったくの偶然でそれでもなお鳴海さんが気づいてくれるのならば―――私は、自分の殻を破ることを、自分に許せます」
ひよのが言葉を切り、火澄は言葉に困る。そして、静寂が広がった。
一分ほど経過して、ひよのが不意にこういった。
「……そうだ、いつ殺されるかとびくびくしているのは精神衛生上悪いんです。ぴしっと何日、と教えてくれません?」
「教えてやりたいのは山々やけど、俺もしらんねん」
それは本当。
知っていたら、たぶん、火澄はひよのに教えてしまっていただろう。だから清隆も火澄に教えていないのだろう。
「そうですか~ちぇ、残念です」
「お下げさんは……」
言いかけて、やめ、また言う。
「歩には、弱音吐けるんか?」
「いえいえ? だから偶然を相手にダイス振ってるんじゃないですか。今日は、特別です」
「怖いか?」
「こわいですねえ。死にたくないですもの、私」
「俺が……お下げさん殺したくないゆうたら、どうする?」
「そのときは、他の人が私を殺すまでですよ。あなた一人で私の運命はかわりません」
人間は、夜を偽りの光で満たした。
火澄は照明のなか、逃げようとしたひよのに追いついて、胸のなかに抱きしめる。
「……やめてください。歩さん以外の人がわたしにさわらないで」
「言ってみい。助けてくれ、て」
「いやです」
「そうしたら助かるかもしれんで?」
「……私を嬲って、楽しいですか。最低ですね」
「おさげさんて、ほんまに……どうしようもないほど意地っ張りやな」
小さな頬を片手でくるんで顔を近づけると、ひよのは顔をそむけて激しく抵抗した。
「嫌です、やめて、や……、だめ……、いや!」
少女の力だ。たかが知れてる。
抵抗を力ずくでねじ伏せた。
一秒にも満たない、小鳥のついばむような。
ひと気のない道。夜の闇のなか、照明に煌々と照らされた場所での。
キス。
柔らかいくちびるだった。
ひよのは火澄を突き飛ばす……というより火澄の方から離れた。
ひよのは嫌悪感いっぱいの顔で触れただけのキスをした場所をしきりに手の甲でぬぐっていたが、バッグを持って身を翻した。
放ってもおけずについていくと、ひよのは早足で火澄など眼中にない様子ですたすたと歩いていく。
どこへいくのかと思っていると、公園に滑り込んだ。
ぽつんと建っている水飲み場に走って、予想どうりの音。
「……そこまでするか」
うがいの音が返事だった。
あんな子供騙しのキスでと思うが……火澄が離れたときの顔は、ゴキブリとキスしたような顔だった。
……さすがに、女子にゴキブリ扱いされたことはないので思い出すだけで滅入る。
うがいは一分以上続き、やっと止んだと思うと、低くどすの利いた声がした。
「もう一度やったら、殺しますからね」
「せやな。俺も悪かった思うから、とっとき話そうか」
「そんじょそこらの情報で、ひよのちゃんの接吻をうばった怒りが解けるなんて思わないでくださいよ?」
「ああ。……俺の初体験、年上の女のレイプやねん」
ひよのの動きが一瞬、止まる。
「ま、俺はこのとおりの美少年やし? 年下好みの女にとっては格好の獲物、ってわけでー」
「不愉快な話、ありがとうございました。それ以上聞きたくないので、口を閉じてください」
さえぎってひよのは言い、火澄も大人しく従った。
「ぶっちゃけ聞くけど、お下げさん似たような経験ある?」
「不愉快な体験を話してくださったあなたには申し訳ないですが、まったくないですよ。私は、好きな人以外に触られたくないだけです。当然だと思いますけど?」
「歩にキスされると世にも幸せそうな顔するくせして、俺だと水場に走って洗うんやな」
「……みょうに絡みますね。私の事好きになったんですか?」
火澄は夜空を見上げる。都市部だが星は数個見える。ポツリといった。
「さあ?」
「じゃ、私はその好意に付け込みましょう。―――私が死んだ後、歩さんをお願いします」
「俺は歩の敵やけど?」
「敵を手助けしてはいけないなんて法則、ありましたっけ?」
「いややな」
「そうですか」
無下にことわったのを判っていないように流し、ひよのはやっと水場から離れた。
都市部の空は、地上の光を反射してところどころ灰色の雲が照り見え、星はその明るさにまけて少ししかない。そんな空を見上げてひよのは言う。
「―――火澄さん、どんな歌を歌うかあなたが聞いたとき、歩さんはこういったでしょう? 最後まで運命に抵抗する戦いの歌を、と」
「……なんでそれを知っとるんや」
思わず胡乱な顔になってしまった火澄に、ひよのが笑いかける。
「まあまあそんな瑣末事にこだわらず。……私も同じです。最後の最後まで、あがいてあがいて、諦めません。明日か明後日か……最後の一呼吸まで、抵抗してみせます」
あのとき、自分は何と言ったろう?
記憶をさぐって、思い出した。
火澄は、運命に負けた者を癒す愛の歌を歌いたいと、そういったのだ……。
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