ひよののファイルは、膨大なデータと、それに基づく推論という二章仕立てで出来ていた。
データの信憑性にもランクがつけられ、「絶対間違いない」データ、「おそらく間違いないだろう」というデータ、「裏をとってないデータ」、「まったく信用のおけないデータ」の四種類に分けられていた。
絶対に間違いのないデータとして、検証されたのが歩とひよののDNA鑑定だ。
DNAによる血縁鑑定というのは、人が思うほど絶対ではない。
親子程度ならば間違いのない結果がでるが、それ以上離れると少々怪しくなる。
DNAというのは、個々人で違う。だが、DNAの一部分だけをみれば、同一の人間は絶対にいる。たとえば、自分の親である。
DNAの親子鑑定というのは、DNAの一致部分がどれだけあるかで判定されるのだ。自分のDNAは半分ずつ親からもらったものなので、普通に考えて、半分は同じでなければいけない。逆に言えば半分同じならば、間違いなく親子である。しかし46本の染色体のなかにあるDNAは膨大な量にのぼり、その全てを照らしあわせ、半分の一致率を検出することは、現在まだ不可能である。
よって現在使われているDNAの親子鑑定の手法は、ある限定した一部分のDNAを比べ、その範囲内での一致率を出すもので、親子だという確率が高くなるものの、人が思うような絶対的な鑑定ではない。偶然の一致で、おなじDNAパターンを持つ人間かもしれないからである。
そしてこの鑑定は、血が遠くなればなるほど難しくなるのはわかるだろう。
本人とその親。ここまではいい。しかし本人の兄弟となると、DNAの不一致率は場合によって大きく変動する。二人の親のDNAの半分ずつがふりわけられて子供ができる。ではその子供同士は一体どれほどDNAの一致を持つか。
極論を言えば、兄弟間は、0%の一致率も、確率としてはありえるのだ。まず有り得無いが。しかし純粋に確率的にいっても1/4の一致率でしかない。
結崎ひよのと、鳴海歩のDNAの一致率は25%。
かなり、高いほうだ。三親等の親族―――叔父と姪にしてみれば。
§ § §
「ひよのは、兄貴に不審を抱いてから、ずっと兄貴のことを調べていた。兄貴の言うことを疑い、とことん疑い尽くした。もちろん、例のファンタジーもだ」
「……」
まどかは腹をくくったらしい。
しゃんとした表情で、真面目に集中して、歩の一言一句聞き漏らすまいと聞き入っていた。
「そもそも、あのファンタジーは何なのか。神に悪魔に造物主。チェスゲームのような出来すぎるほどよく出来た盤面を、ひよのは一蹴した。全てを清隆のホラとして、思考を進めたんだ」
事実であるデータと、そこから基づく推論とを別のフォルダにしていたあたり、ひよのも自分の危うさ、穴に気づいていたのだろう。
ひよのは一つの事実から複数の推理をたてていた。一つの推論をとると、ある事実が別の事実に見える。無数に分岐する推論だった。
「すべてを清隆のホラとする。では、どうしてそんなことをするのか。ひよのはこう結論付けた。……正義を盲信させるため、と」
「正義を? どういうこと?」
「火澄を殺そうとする奴はいくらでもいるけど、俺を殺そうとするやつはいないだろ? ヤイバを邪悪な悪魔として殺そうとする奴はいても、清隆を邪悪としてみる奴はいない。―――では、その全てが逆転していたら?」
まどかの表情が凍りつく。
「あいつも言ってたけど、たとえ俺が火澄に殺されても、火澄の運命は変わらない。組織の人間はいくらでも喜んで火澄を殺すだろう。人は、自分を正義と盲信できたとき、どんなことでも出来る。まだ幼いブレードチルドレンを殺したのは、それが正義と信じるからだ。自分が正しいと信じて行動する人間ほどタチの悪いものはない。そして逆に、清隆の遺伝子を残すことに反対する奴はいないだろ? むしろ先を争って欲しがるはずだ。ひよののデータに載っていた、小日向さんのように」
そこで小中止し、歩は手を抜いて作ったお手軽メニューであるチャーハンをぱくついて栄養補給をする。
「……で、でも! 証拠はあるの?」
「ひよのが、ブレードチルドレンたちの遺伝子と、火澄の遺伝子。ブレードチルドレンと、俺の遺伝子を比較した。結果は、俺との血縁関係がある確率は非常に高く、火澄とチルドレンの間には薄い、とでた」
このデータの信憑性は、「絶対間違いない」レベルだ。
「つまり、俺と火澄は入れ替わっているんだ」
ぱかっと。まどかは口をあけた。
「そんな……馬鹿なこと!」
「ひよのもそういいたかったろうな。なんせ、叔父姪の関係になるんだから」
一度目はともかく、二度目を拒絶したのはだからだろう。
近親相姦。歩にその度胸があるか? わからない。だが少なくとも、ショックは受けずにいられなかったろう。ひよのと体を繋いでいたら、歩はこの事実を知ったとき、今とは比べ物にならない衝撃だったはずだ。
そしてもし。
ひよのが生きている間に知っていたら。
歩はもう、ひよのにキスも抱擁もできなかったのではないか?
小市民の自覚のある歩に、このハードルはすこし高すぎた。
「で、でも、歩あんたは清隆さんにそっくりなのよ?」
そう、似せようとしても似せられないところまで、意図してないのにそっくりだった。
「だから、ひよのは俺のDNAと、兄貴のDNAを比較した。俺の両親と、俺のも。出た結果は、俺と兄貴のDNAが一致、という結果だった」
「一致……て?」
「同一ってこと」
「はあ!?」
「だよな、当然。このデータ、じつは信頼度が低い。なぜなら俺の遺伝子は実物を手にいれたけど、兄貴のは単なるデータだから。ひよのは、このデータから三つの仮説を立てている。一つは、俺が兄貴の一卵性の双子の兄弟って可能性。二つ目、クローン。三番目。兄貴のでっち上げ」
「……クローン……て。最近よく使われるけど……」
「そう。実用レベルになったのはごく最近、クローン羊のドリー誕生は96年。俺が生まれたのは、それより10年以上前だ。羊よりずっと難しい人間のクローンは技術的にできるはずがない、とひよのは結論づけた。一つ目の一卵性のなんたらは論外で除外してな。のこるのは兄貴のでっち上げ。自分の遺伝子情報入力するの嫌さに、適当な情報―――この場合は俺のを放り込んでおいたという説」
「……清隆さんならやるかもしれない」
面白半分、ふざけた性格だった。
自分の情報を登録したくない、だから弟のを。それぐらいはやるだろう。
「ひよのはそれを、自分のDNAデータを残したくないがためと結論、その理由として二つの仮説を挙げている。ひとつは、小日向グループ総帥に言った嘘を暴かれたくないため。もう一つは、自分の入れ替わりを知られたくないため」
「いれかわり……?」
「ひよのは、こう結論付けた。正義と悪。神と悪魔。その単純な二元論を持ち出して、あんなファンタジーを流布したのは、抵抗を抵抗としなくするため。悪魔に対抗しようとする人間はいても、『善』に対抗する人間はいない。相手を悪魔と思えばこそ、人は反抗の気がわく。相手を善と思えば、そもそも反抗しようとも思わない」
「まさか―――あんた、清隆さんが」
「ミズシロヤイバだとひよのは結論しているな」
歩はあっさり言った。
「ちょ、ちょっとまってよ! そんなことあるはずないでしょ!?」
「どうしてだ?」
「顔だってちがうし―――」
「整形すればいい」
「ヤイバは死んでいるのよ!? たくさんの人が見てる前で!」
キリエは言った。「信じられないって表情だったそうよ」。これは、誰かが見ていたからこそ出てくる台詞だ。
「―――というのがそもそも、ひよのの疑いの発生点だったんだ。ねーさんならどうする? 人間を殺すとき、わざわざ衆人環視のなかでしようと思うか?」
また沈黙。
「いくらヤイバが悪魔と呼ばれていようと、人は人。ましてヤイバはカリスマだったんだろ? 悪魔でも、いや、悪魔的なところがさらに魅力となって、ヤイバに心酔していた人間はいくらでもいたはずだ。どうして、人が見ている前で殺さなきゃいけない? どうしてわざわざ恨まれやすくするんだ? そう、顔なんて整形すればいい。体格なんてあらかじめ似た人間を選べばいい。死体となるまでの短時間の入れ替わりだ、不自然さも誤魔化せる。そうして、自分は鳴海清隆の姿となって、ニセのヤイバを堂々殺せばいい。衆目のある場所で殺したのは、ヤイバの死を、多数の人間に見せ付けるためだ」
「りょ、両親や親戚は気づくわよ!」
歩は息を吐き出した。
「ねーさんが結婚前に挨拶に行ったとき、俺の両親は無関心で素っ気無かったんだろう?」
「まさか……」
「親なんて、すりかえてしまえば済む。ひよのが調べたよ。俺と、俺の両親の間には、遺伝的つながりは、ない」
「あんたはどうなの? 清隆さんが―――」
歩はかぶりを振った。
「兄貴がヤイバと入れ替わったとしたら、俺が4歳以下の時になる。兄貴が20歳になるまえ、もしくはその直後だ。さすがに、4歳児に兄貴の様子が変だ入れ替わりかなんて考える知能はないさ。その後ずっと、兄貴が兄貴として側にいればなおさらだ。入れ替わったあと、の鳴海清隆を本物として記憶する」
「でも……そうだ、以前清隆さんの高校時代の同級生が訪ねたことがあった! 清隆さんはその人を知っていたわよ」
生き返ったようにさけぶまどかに、ひよののファイルを見せてやりたい。
どういう情報収集能力か、ひよのはそれすら集めていた。
「ねーさん、その場にいたんだろ? 兄貴のその人を見ての第一声が『十年以上前の高二の時の同級生でさらにほとんど口をきいたこともない子』だったってのは、ほんとか?」
まどかは記憶を探る顔になり、
「……ええ。たしか、そうよ」
歩は息を吐き出して、
「ふつう、自分の気を引くために骨折して、さらに狂言の自殺未遂までして、周囲からさんざん非難され警察からも冷たい目を浴びるはめになった元凶の相手を、そんな風に言うか?」
「……」
「ねーさんの眼とか思いやりとかで事実を言わないまでにしても、『思い切りがよくて過激な同級生』ぐらいは言わないか?」
「で、でもそんなもの―――」
「そう。証拠と呼ぶにもおこがましい。いくらでも言い訳のきく状況証拠だ。でももしヤイバなら、鳴海清隆の過去の同級生ぐらいは当然のように顔を記憶してるだろうな。兄貴が珍しくやりにくそうだったってのも、鳴海清隆の過去を知る相手に自分の知らないことを言われたらと思っていたとしたら、説明がつく」
「ひよのの想像はこうだ。いくらなんでも成人男性がティーンエイジャーに化けるのは無理がある。鳴海清隆という神のごとき存在は、確かにいた。だがヤイバとの戦いに負けて、入れ替わられたんだと」
「ちょ……じゃあ、あんたはいつ入れ替わったのよ?」
「ひよのの調査では、ちょうどその時期、鳴海家は一回引越ししてる。そのとき両親もろともそっくり入れ替わったんじゃないか。そう想像してるな。俺は兄貴を兄貴として認識したまま、名前を入れ替えたんだと。で、ねーさん。ここまでひよのの想像を聞いて、どう思う?」
チャーハンを食べ終え、皿を向こうに押しやって、歩はテーブルの上で手をくんだ。
「……信じられないわよ。そんなの嘘でしょうっていいたい」
「そう。ひよののこの推理は推測とか、想像とか呼ばれるものだ。矛盾はないけど、証拠らしい証拠のひとつもなく、こじつけと言われても仕方ない。なにより、組織の人間は絶対に信じようとはしないだろうな。兄貴の掌の上で踊って、子供たちを殺してきたなんて」
いったん正義と信じたものが実は間違いだったとしても、人はそれを認められるほど、強くないのだ。
「ひよのが出した結論の終着点は、兄貴の目的。兄貴の目的は、自分を『善』と信じさせること。そうすることで、人間駆逐ゲームをよりたやすくすること。そのためには、ヤイバは悪であればあるほどいい。そのイメージが強烈なほど、対比した清隆は白くなる」
鳴海清隆がひよのの想像どおりならば、最後に残るのは、ゼロ。
人が駆逐された、人ではない者の生きる土地となる。
「……あんたのそこに占めるポジションは?」
「兄貴の片腕となって、手伝うこと……かな。俺と火澄は入れ替わってる。これは確実だ。なら、当然、俺にもタイムリミットは設けられているんだ」
ブレードチルドレンの、呪い。
「どれほど心を強く持っていても、脳内物質の働きは強烈だ。その『心』自体が、かき回される。……だからひよのは、アメリカに行くつもりだった」
歩のために。
ひよのはその時自分がそうであるとは知らなかった。だから、その行為は歩のためでしかない。
「今現在俺の体で生産されている攻撃衝動を高める物質を無効とする物質を、ひよのは自分の手で作り上げるつもりだったんだ」
卒業したら。私はアメリカの研究室に行きます。探してください?
いきなりだと思った。恋人の自分に一言の相談もせず、薄情だとも思った。
馬鹿は誰だ。
あのとき、彼女はすでにもう、覚悟を決めていたのだ。
「卒業できればよし。できないときは―――俺のなかに白いイメージを焼き付けるために、あいつは死ぬつもりだったんだ」
ひよのを殺した清隆を、歩は許せない。
たとえ死んでも、一生ずっと、彼女は歩の中に残る。ハイスクール時代の甘酸っぱい恋愛として時間とともに薄れていくはずのものが、変わらないものとして、残る。
この痛みや憤激を、忘れることなんてあるはずがない。この傷も、……一生、残るだろう。
変わらない、確かなもの。
それをひよのは歩に与えたのだ。命を犠牲にして。
もしも歩がそれでもなおひよのを忘れ、この痛みを忘れることがあれば、あるいはこの痛みに負けて打ちのめされ、立ち上がることの出来ない闇でうずくまっていれば、ひよのの死は、まったくの無駄死にになる。
「血の呪いに負けないものを遺すためにひよのは死んだ。姪、だけど。血が……つながっているけど。俺の一番は、ずっとひよのだ。この先何度恋をしても、それはずっと変わらないと思う」
ひよのからの、最後のメッセージ。
ひよのちゃんは、自分の死んだ後の歩さんの所業についてがたがたいうほど嫉妬ぶかい人間じゃないですからね、私が死んだ後も、あなたは恋をしてください。何度も何度も、恋をしてください。生きてること、生きることを楽しむには、恋をするのがいちばんです!
知ってます? 私が歩さんに恋をして、どれほど光が満ちたか。どれほど世界がかわったか。歩さんに抱きしめられたとき、どれほど胸が高鳴り嬉しかったか。とうてい言葉では言い表せません。
たくさん恋をして、たくさん人生を楽しんでください。生きることを、苦痛に思わないでください。それで私は充分です!
少なくとも、これだけはいえる。
歩はひよのを忘れない。
「俺は、負けない。兄貴のたくらみになんか負けない。この先兄貴が何を仕掛けてきても、それを食い破って勝ってやる。あいつを殺した兄貴に、膝を屈しはしない」
まどかが驚いた顔で目を見開いた。
「……清隆さんが、あの子を殺したの?」
迷ったのは、少しの間だけだった。
「ああ」
「あの子を殺して、何の得があるのよ?」
「ひよのは、やりすぎたんだよ。兄貴の予定をことごとく狂わせた。俺はカノンを殺してるはずだったし、火澄はカノンを殺してるはずだった。予定外の因子は、早めに取り除くのがセオリーだろ?」
まどかは、長い間沈黙していた。
「……あんたは、到底清隆さんを許せそうもないわね」
「ねーさんには悪いけど」
「いえ……いいわ、当然だとおもう。ええ、あんたの行動は正しいわ」
迷い、揺れる心をそのまま表して、まどかの眼差しはさだまらない。
歩はそんなまどかに柔らかく微笑んだ。
「ねーさんは、自分の心のままにしていいんだよ。俺に悪いとか、考えなくていい。俺は徹底的に兄貴の邪魔をしてやるけど、ねーさんは、自分の心を最優先するといい。俺の味方しなくていいんだ」
目を見開き、そんな歩を見上げてまどかは言う。
「あんた、変わったわね。いい意味で」
「変わらなかったら、ひよのが可哀想だろ?」
絶対に失いたくないものが奪われる痛み。奪われた後の絶望。それでも、歩はひよのを好きにならなきゃよかったとは思わない。会わなければよかったとは、思わない。
ひよのに会えてよかった。
こんな情けない人間を、ひよのはあそこまで愛してくれた。なら、少しはそれに相応しい人間になろうじゃないか。
§ § §
「一緒にかえれるか?」
「これから調べ物をしないと……」
「どれくらいかかる?」
「かなり。八時ぐらいまでいくかもしれません。先に帰っていてください」
「うん、わかった。じゃあ明日な」
そんなやり取りの後、去っていく鳴海歩の後姿を、結崎ひよのは感慨深く見つめ続けた。
たぶん、これが最後になるだろうから。
視界からその姿が消えて数秒。
ひよのは、息を吐き出し、準備を整える。
それが終わり、鏡をみて、嘆息した。
歩のつけた赤い鬱血がくっきり見える位置にあった。
隠すため、髪を解く。歩がうなじに手をさしこんだから、ほどけかかっていて、ちょうどよかった。
鏡を再度みて合格をだすと、ひよのは立ち上がった。
向かったのは、第一音楽室。
この地球に、星の数ほど存在した音楽家。そのなかでどれだけの数が、人生最後の日に、これが自分が弾く最期の演奏だと知って弾ける幸運にありついただろう。
天上の空のように、青く澄み切った一音。
今の自分にならば、出せるはずだ。
今日、ここで、自分は死ぬ。
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