「歩……あんた一体、これからどうするの?」
これには、迷う理由を感じない歩である。
きっぱりと言った。
「ひよのの情報網を再編する」
この返答はよほど意外だったのだろう。まどかはぽかんと口をあけた。
「……え?」
「情報面でどれほどあいつに頼りきりだったか、ひよのがいなくなって、初めてわかった。あいつの情報なしじゃ、推理しようにも材料がないんだ。行動を起こしたくても、何をすればいいのかわからない。情報を制するものは勝負を制す。兄貴に対抗するには、ひよのが持っていたのと同程度の情報網が、どうしたって必要なんだ」
再編するのに必要な術さえも、彼女は遺していってくれた。その想いの深さに、どう悔いればいいのだろう。もう、歩が彼女に対して出来ること、誓えることは一つしかなかった。
忘れない。
「それは……わかるけど。でも、言うほど簡単じゃないわよ? 管理、維持……メンテナンスも必要だし、相手は機械みたいにいかない『人』なんだし」
「判ってる。へらへら笑っているようで、ひよのがどれほどすごいことを日常的にこなしていたか、よくわかっている」
ひよのにあったもの。無条件に人をひきつけるカリスマ性。……というとご大層だが、たとえば脅迫されているのになぜか憎めないとか、やっていることは陰湿極まりないのに、本人の印象がからっとしているとか。そういう他愛もないものの事を言うのだろう。ひよのには、確かにそんな人を惹きつける要素があった。
「ひよのが情報網の名簿も残してくれたから、しばらくは切れた糸を繋ぐ作業をする。それが終わったら、火澄と接触して、協力を求める」
「あの子と……?」
「そう。俺が火澄というんなら、火澄こそが俺―――神ってことだろ?」
悪魔と呼ばれ、謂れなき殺意を受けて育った火澄を思うと、歩は罪悪感にとらわれる。歩はちっとも悪くないのだが、あいにくそれで納得できるほどドライでもないのである。
「きのう―――俺が落ち込んで死にそうだったとき、助けてくれたのはあいつだった。あいつが神なら、俺とは共闘できるはずだ。ひよのに好意を抱いていたから、説得すれば、こちらがわについてくれる確率は結構あると思う。それが終わったら、まずブレードチルドレンたちと連絡をとって、組織をつくる。ひよのが作ろうとしていた物質、血の呪いを乗り越える物質を、作るんだ」
情報網。仲間。組織―――。
歩は本当に本気で真剣に本腰を入れて、清隆と対抗するための力を手に入れようとしていた。
ついにまどかは核心を尋ねた。
「歩は、清隆さんを、どうしたいの?」
「とりあえず、兄貴の目的をさぐる。それから、徹底的に兄貴の邪魔をする。でも、これだけは約束できる。俺は、ひよのを悲しませるようなことはしない。ねーさんを泣かしたりもしない。兄貴を殺したり、しないから」
人を殺すな。
それが、彼女の望みなら従おう。
「あんたは、もう二度と清隆さんと和解はできないのね……」
「以前のように、笑って同じ食卓を囲むなんて日は絶対来ないな。ねーさんには悪いけど。
……ひよのが生き返りでもしないかぎり、絶対こない」
歩はこの怒りが風化することを恐れる。それは、ひよのへの想いが薄れるのと同義だと考えるから。
どんな激しい怒りも、時間の前では無力だと知っているぐらいには、歩も子供ではないからだ。
強く思っていた思いがあっという間に風化し、変化する。あんなに心の底から誓った事が、翌日になるともうどうでもよい事のように思えてしまう。……憶えがある。
いやってほど、覚えがあった。
そのとき、まどかの声が聞こえた。深刻な問題提起を含んだ声。
「あんたはブレードチルドレンたちをまとめて組織を作って、―――それで? 第二のミズシロヤイバにならない保証は、あるの?」
「ないよ」
歩は、肩をすくめて苦笑した。大人びたそんな仕草が、ずいぶん似合うようになった。
「俺はミズシロヤイバにならない。……といいたいけど、断言できない。スイッチを知らない人間が、スイッチについての何たるかを語れるはずもない。もしも俺が四年後ひよのを忘れていたら―――この胸の怒りも憎しみも消し飛んでいたら。悪魔に変わっていたら」
人の心に絶対はない。
ひよのに会った直後の歩に「お前はこの子に何度も助けられて、将来この子のためなら何でもするイカれた人間になるんだぞ」と言ったら、きっと昔の歩は眉をつりあげて口角泡を飛ばす勢いで強硬に否定するだろう。
そして、今の歩は、黙って微笑しそんな過去の自分にこう言う。
お前も、経験すればわかるさ―――と。
人が変わるとはそういうこと。人の心の移ろいやすさと柔軟さは、時に残酷ですらある。
「もし俺が悪魔になっていたら、できればねーさんの手で、楽にしてほしい」
「そんなこと……!」
拒絶しながらも、まどかは脳裏にありありと思い描けた。
鳴海歩は、組織をつくるだろう。その組織は日を追うごとに大きく強大になる。現在鳴海清隆の抱えている権力、組織力に張るようになるまで、どれほどかかる? きっとさほどの時も必要とはしない。
結崎ひよのの遺言のなかには、おそらく、彼女の脅迫の材料も入っていて、さらに幹部構成員となるブレードチルドレンたちは揃いも揃って有能だからだ。なにより、「鳴海清隆にかつ」という目的意識を持った歩は強い。
鳴海歩という少年は、能力があるくせして、やる気はなく、優柔不断で踏んばりがきかない人間である。その枷が、なくなったのだ。自分の能力をフルに使って、誰かを追い詰めようとしているときの歩は強い。
鳴海歩、が清隆に対抗するとしても、組織の人間は何も、言うまい。歩は、悪魔ではなく神。そう言われているからだ。
まどかの思考を読み取ったように、歩は切り出した。
「ねーさん。俺は明日、ここを出て行くから」
「で、出て行く……って! なんで!?」
「判ってるだろ? 俺はひよのが犯罪に加担しようがなにしようが味方するって。そして、ねーさんにとっては、兄貴がそうだろ? 兄貴が何をしようと、ねーさんは兄貴の味方だろ? だったら、これからひよののケンカを引き継いで兄貴にケンカ売る俺が、ねーさんと一緒にくらせるはずないだろう?」
まどかは反射的に何か言いかけ、口を閉じる。
「歩……」
「今夜中に、荷物、まとめる。明日には出てくから。俺がいなくなっても、炊事洗濯、できるよな? 元々、一人暮らししてたんだから」
「私の家事能力、知ってるでしょ! あんたがいなかったら三日もたないわよ!」
「悪いけどそこまで責任もてない。もともと一人暮らしだったわけだし、この機会に家事覚えるってのもいいんじゃないか?」
まどかは唸り……もう少し建設的な意見に切り替えた。
「あんたはどこ行くのよ」
「秘密。兄貴側のねーさんに、言うはずないだろ?」
揺るぎなく微笑んで拒絶する歩の表情に、まどかが考えを改めたのがわかる。
姉と別居し、情報を遮断し……
鳴海歩は、本気の本気で、清隆にケンカを売るつもりだった。
清隆に本気でケンカを売れば、きっと歩でもタダでは済むまい。
最悪、ひよののように命を摘まれる。でも、それでも構わない、と思う。
―――じゃ、これからあんたを助ける機会があったら、必ず助ける。
結局、自分はひよのを助けられなかった。助けられてばかりで、たった一つの約束も守ってやれなかった。
だからこれはひよののためでなく、自分のわがまま。歩が自分を許すため、踏ん切りをつけるためにどうしてもしなければならないことだ。
「学校も休む。そんな時間ないから」
明日になったら、まずはひよのが遺したリストに沿って、ブレードチルドレンに声をかけよう。血の呪いを防ぐ物質を作り出すのが先決だ。
胸の痛みを無視して、歩は驚き倒しているまどかに笑いかけた。
きっと、ひよのならこんな時、どんなにつらくても笑うだろうと思ったから。
そうして決別の一言を唇から放つ。
「元気で。ねーさん」
鳴海清隆に勝つ。どれほどその道が長く険しいものか、歩はきっと本当には判っていないのだろう。いつか今日の選択を後悔する日が来るかもしれない。
ひよのを失って、歩の心には隙間風が吹いている。
それでも、時はたつ。今は荒野の心も、いつかは手が入り耕され種がまかれ、芽が出る日がくるだろう。
それが恋という実をつける日が来て、その誰かにやめろといわれても、歩はきっとやめない。
愚かで不毛な行為とわかっていても、やめられない。
これは過去の自分、結崎ひよのを好きだった自分が上を見るために必要な行為であり、歩が歩であるために、必要なことだからだ。
結崎ひよのは小さな骨壷に入る白い欠片となった。彼女の墓は、恐らく清隆が手を回したのだろう。無縁仏として葬られるところを、小さな墓が立った。
もしも、歩が志半ばで倒れたら、出来れば、彼女の隣で眠りたい。
これから幾度恋をしても、きっと、ひよのほど自分を愛してくれる相手はいないだろうから。
失うものは多く、得るものは数えるほど。
人に、そんな道を選ばせてしまうこの痛みを、人は愛と呼ぶのだろう。
§ § §
結崎ひよのはピアノを弾いていた。
誰一人として聞く者のない第一音楽室。鑑賞者こそ不在だが音響効果は最高の空間に、音は広がり跳ね返り増幅する。
もしそのピアノを誰かが聴けば、胸に広がる感動に打ち震えただろう。
歩が聞けば、嫉妬を禁じずにはいられなかったろう。
それはこの国の誰もが知る古い童謡。旋律のすみずみにまで神経が行き渡り、くすみも淀みも全てが漉された末の、一つの到達点である硝子のような音を奏でていた。どこまでも透明で澄んで、揺らがない。清水の清さとは種類のちがう、透明でありながら強靭な音。
陽に透かした、茶色硝子のような。
空気をかき鳴らし、ひよのは弾きつづける。単純な旋律を、何度も何度も繰り返し。
ふと、部屋に反響していた音が変わった。
扉が開いたのだ。
部屋の中にだけとどまり、一定の反射を繰り返していた音が、わずかに音色を変える。
そしてすぐに戻った。部屋の中に、この音を聞く人間を、うけいれて。
ひよのは音の微妙な反射の違い、誰かの訪れを感じながら、指をとめない。
最後のキィを指が叩き、音が余韻を残して消えてはじめて、ひよのは顔を上げた。
高らかに拍手の音がした。
「素晴らしい演奏だった」
「ありがとうございます」
ひよのは彼を見て、意外そうな顔を作る。
そこに立っていたのは、初めて出会う青年。
しかしその顔をひよのはよく知っていた。情報を集める過程で、幾度となく写真でみた。
またそれとよく似た顔と、さきほど口付けをかわしたばかりだ。
「あなた自らやってくるとは、思いませんでした」
「わたしなりに、君に敬意を示してのことだよ」
ピアノの隣、端然とたたずむ立ち姿は、清潔な色気というべき華がある。とにかくいるだけで華やかで人目を引くのだこの青年は。
ひよのは不敵に笑って演奏者用の長椅子から降りた。
「はじめまして、鳴海清隆さん」
「はじめまして、結崎ひよのさん」
そうして二人は出会った。
それがすべてのはじまり。そして、終結。
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