音楽室に、凛、とした声が響いた。
「嫌です」
「……抵抗しないと約束したと思ったが?」
「抵抗は、しません。私はこういうだけです」
ひよのは両手を胸の前で組み合わせた。長身の鳴海清隆を見上げる瞳には涙。
「―――私は死にたくありません。お願いします、殺さないでください、なんでもしますから、どうかころさないで……」
恥もプライドもかなぐり捨てての、助命嘆願。
はじめて清隆がひるんだのを感じながら、ひよのは言い募った。
「私、わたし何でもします。私が火澄だというのなら、その細菌の研究に一生ささげてもかまいません。歩さんに一生会うなと言うならそのとおりにします」
「下手な芝居はよすんだ」
「芝居じゃありません。本気です。だから私はここに、武器一つ持ち込みませんでした。どんな武器でもあなたは倒せない。一番生存率の高い方法として、私はこうすることにしたんです」
死ぬのが怖くないなんて嘘だ。
死ぬ覚悟が出来ているなんて、大嘘だ。もしかしたらひよのの中に、そんな自分はいるかもしれない。でも、心の大部分は、死ぬことを恐怖し厭っていた。
おねがいだからころさないで。
これっぽっちも嘘のない、根源的な言葉は本質的に人の本能に訴えかける。
涙ながらに殺さないでと訴える華奢な少女を躊躇いなく殺せるのは、人の心を持たない人間だけだろう。
「……君の死は無駄にはならない。歩を生かす糧となる」
「死んだら全て無です。どれほど財産を持っていても、死に意味があるとか言われても、なんにもなりません。それに私は、あきらめないと、自分に誓いました。たとえ最終的にあなたに殺されるんであっても、最期まで、最期の一呼吸まで、諦めないと」
苦笑に似たものが、清隆の面を彩った。
「もうすぐ死ぬからと、人からさんざん話を引き出して、それか。しぶとくて、したたかだな、君は。歩にはない強さだ。君を歩が選んだのもわかる。正直、私は君を殺したくないよ。君はまだ、17歳だ」
「17歳……? ああ、そうですね。私は一年を一月一日で分ける方法では、歩さんと同年なんでした」
日本の学校では、一年を四月一日で分ける。だからひよのは学年がひとつ、歩より上なのだ。
清隆の手は、ピアニスト特有の、長い指をしている。掌と爪のバランスも整い造形美の極みといえた。
その手で、清隆はひよのの頬に触れた。
「君には感謝している。今まで、歩を導いてくれてありがとう。なるべく楽に殺してあげるから」
瞬間、ひよのの手が動いた。
雷光のように掌にすべりこんだのは、ポケットピストル。握って即座に引き金を引くまでほとんど間はない。狙いをつけずともこの間合いなら、外すはずがない。
―――しかし銃声がすることはなかった。
(弾詰まり!?)
ぎょっとしたが予想の範囲内。右手の銃を捨て、ナイフに持ち替えて切りつけるまでの所要時間は、賞賛に値する速さだった。
だが―――
「無駄だよ」
見切ってかわされ、手首をひねりあげられた。
制服に忍ばせた小ぶりのナイフはとりあげられる。
「君は、本当にしぶとくてしたたかだな。命乞いしてみせたのも、武器などないと言ったのも、全てはこの瞬間のためか」
至近距離の清隆の顔。ひよのはにっこり笑ってみせる。
「ブレードチルドレンの人たちはどうにもこうにも正直者で律儀に自分の約束を守りますけど、私はちっとも律儀ではありませんから。もし死なないですむ可能性が0.1%でもあるなら、卑怯でもなんでも全力をつくすのが私の正義です。物分りのいい顔して死を受け入れるなんてくそ食らえです」
人殺しは嫌だけれど、自分の命がかかっていれば話は別だ。火澄に言ったことがある。
殺したくないけど命がかかっていれば案外あっさりできるかもしれない、と。
この人を殺す銃弾の引き金を絞るのは、とてもあっけなかった。
「……ということは、いろいろこの音楽室にも、罠がありそうだな」
「私がぼおっと、あなたに殺される日をうっとり待ってると思います?」
清隆は床に落ちた銃に一瞬目をやり。
「でも、その用意した銃も私には効かなかった……。この部屋をえらんだのは、もちろん私にピアノを弾いてもらうなんて殊勝な理由からではなくて、銃声をごまかし、罠をはるため、だな」
「ええ。リアルタイムで今この瞬間も、この映像が某所に送られています。ここであなたが私を殺せば、あなたは即座につかまります。殺せますか?」
猫を思わせる鋭い眼光、口元には笑み。
その挑戦的な表情は、このうえなく彼女の魅力を引き出している。
異議を唱え、不服を正面から叩きつけるその顔こそ彼女には相応しい。
「あああれか。悪いが、手は打たせてもらった」
「それは残念。ま、無数に打った手の一つですから惜しくもないですけど」
「それについては、君を殺してから探すとしよう」
ひよのはくすくすっと笑い。
「全部見つけ出せるというなら、ええ。やってみせてください」
「見つけ出す必要なんてないよ。君は、ここでは死なない」
ひよのはいぶかしげに目を細めた。
「どういうことです?」
「君がこの部屋のどこにカメラやマイクを隠したのか、知る必要なんてない。きっと君は私に探されることを恐れて、通り一遍の捜査では見つからないところに隠しただろう。警察の厳重な現場捜索でないと、見つからないところに隠したろう。―――なら、そのまま隠しておこうか。警察はこの部屋を調べない。調べてもおざなり程度の捜査にするのは、造作もない」
ひよのは硬い声でいう。
「……私がこの部屋に入ることは、監視カメラが見てます」
「そうだね。大丈夫。君の身代わりがいるから。顔がそっくりの彼女に、新聞部に入ってもらう。そして、新聞部が殺害現場になるんだ。ここではなく。君の死体を移動させる方法はいくらでもある。振り子のように窓からもよし、監視カメラがわんさかある月臣学園だ。監視カメラの映像の細工の準備は、当然出来ているよ?」
「……その私服で、校舎内に堂々入ってきたときに、それは理解しておくべきでしたね」
清隆の服は、スポーティな灰色のソフトスーツ。色はかなり青みが濃い。インナーは白。
似合ってはいるが……私服である。
「もうじき、世界には未曾有の疫病がはやる。人は無数に死ぬだろうから、寂しくないよ。むしろ、君がここで死ぬことでたくさんの人が助かる」
近い距離だ。
顔も。その手のナイフも。
「だから、誰かのためになんてお題目で自分の生存権を否定するほど、私は英雄願望ないうえ、生存欲ありまくりなんです!」
鳴海清隆がナイフをくるりと逆手に持ったとき、ひよのは思わずその手首をつかんでしまった。
すぐに、力がこめられた。嬲るように軽く。ひよのは両手でそのナイフを押し戻す。
拮抗。
こちらの貯金は空なのに、押す力はどんどん強くなる。
目線は危険な、銀色の刃に集まって離れない。
魅入られたように、ひたすらにひよのは思う。
生きたい。
―――ふと気づいた。
「あなたに、私が殺せますか? 私は火澄なんでしょう? 私の銃弾が弾詰まりを起こしたように、あなたが私を殺すことも、できないんじゃないですか?」
「君は、それを予期しながら銃を撃った。なぜかな?」
穏やかな、即時の切り返し。ひよのは一瞬間を空けて答える。
「……試してみないとわからないと思ったからです」
「そう。私も同じ事を思っている。銃ならば、弾詰まりもおきれば、不発弾もまじるだろう。だが、このナイフは? どんなアクシデントが起きれば、私が君を殺せなくなるのか?」
渾身の力で押し返してもじりじりと近づく刃に、こらえきれずにひよのが叫ぶ。
「あなたの言うことが本当なら、この先無数の死者が出るでしょう! 私はそんな世界で歩さん一人に全てを押しつけたくない! 悩み苦しむ彼を側で支えたい!」
たとえ結ばれなくとも―――。
ふと、刃の圧力が停止した。
揺るぎない穏やかさを瞳にすれば、こんな目になるだろう。
そう思わせる瞳で、彼は彼女を見ていた。
「……歩ひとりに、押し付けるつもりはない。君を殺すことで、あの子は一生私を憎み、許さないだろう。だがそれでいい。これから起きる混乱で、私は、負の部分全てを背負うつもりだ」
ひよのの脳裏に浮かんだのは、カノンのたとえ話。
「……10人しか乗れないボートに15人の希望者がいる、乗れなかった人間は死ぬ。その状態で、どういう行動をとるか、ですね」
「歩にはそんな選択をさせない。私なら10人選べる。でも、歩には選べない。選ばれなかった5人の恨みもすべて……汚い部分はすべて私が背負う。それが、君という存在を歩から奪う私の、けじめだ」
ひよのの命も、そういう計算をしているのだろう。
ひよのがここで死ぬことで、どれだけの命が助かるか、それを計算して答えを出している彼は、迷うまい。ひよのの命で1000人助かるなら、それが、彼にとっての正義なのだ。
「……鳴海清隆さん」
「なんだい?」
ひよのは、目と目を合わせた。最愛の人間と、よく似た顔だ。しかし違う。決定的に、覚悟が違う。
唯一の身内で同胞の憎悪も、人々の怨嗟のなにもかもを、その両肩に乗せることを決めた者の表情。穏やかだが、ありとあらゆるものを背負おうとしている顔だった。
「私が火澄なら、あなたは私を殺せないはず。歩さんにしか、殺せないはずです」
「そう、だから君を作った造物主は、君に歩を恋させた。君は歩を愛し、歩を助けるだろう。女の子に、あそこまでされて心動かされない人間は、いないよ? 君に恋された歩は、遠からず君に恋をするだろう、と読み……そしてそれは正しかった」
そう。
爆弾の棒をつかみ、毒入りのコップを飲み干し、身を削って足止めし……。
ひよのは身を挺して歩をかばってきた。華奢な少女にそこまでされて心動かない男はいない。
いつ結崎ひよのに恋をしたかを、歩自身は理解していないだろう。
けれど清隆は知っている。歩が自分の気持ちに気づくずっと前、結崎ひよのが清隆のためでも誰のためでもなく歩のために何の見返りもなく無償で命の危険を犯してくれた最初から、その心は、彼女にとらわれていたと。
「なのに、私が、殺せますか?」
「ああ、殺してみせる。言ったろう、歩に負の決断はさせないと。このままなら、君は悪魔になる。そして、歩はそんな君を殺せず苦しむだろう。歩にそんな想いはさせない。君は、ここで私に殺されて死ぬんだ。人の運命をもてあそぶ造物主の定めたルールなんてものが崩れる瞬間を、この眼で見よう」
その眼にあるのは、誰にも変えられない決意。
たとえ後日どれほどの不利益があっても、ここでひよのを殺すと、彼はすでに心定めていた。
自らの信念に殉じる者は、強い。そして頑固だ。説得するのに最も難儀するタイプかもしれない。
ひよのは必死に頭を回転させる。死にたくない。
「ああそうだ、一つ、聞きたい。―――どうして君はここに来たのかな? 」
意味がはかれず見返すと、青年は言葉を重ねる。
「どうして君は、ここへ……死地へ来た? どれほどの準備も、用意も私に通用しないかもしれないと、死ぬかもしれないと、そう判っていながら、何故?」
意味を理解して、ひよのは頷いた。
「あなたと会って、あなたから真実を聞き出す瞬間は、ここにしかないと思ったので」
清隆は一瞬、虚をつかれた表情になった。
清隆は彼女を極めて「自分が可愛い、生存欲が強い」タイプだと判断していたからだ。多少の知的好奇心より、命を選ぶと。そしてそれは完璧に正しい。
「自分の命よりも、それは重視すべきことかな?」
「知的好奇心より命。そして、―――命より鳴海歩です」
ゆっくり、ひよのは清隆の手首を押さえていた手を外した。
ナイフの位置は、そのまま。
「私が悪魔になる、とおっしゃいましたね。……そうかもしれません。私はずっとずっと、歩さんを愛し続けていたいけれど、私は20歳になったら、歩さんを好きなこの心をなくしてしまうかもしれません。天啓って、なんですかそれ。私が、最初から、造物主の手駒で、いいように踊らされて、歩さんを殺すために生まれてきたなんていうんですか」
返答を求める言葉ではなかった。
答えを、彼女はとうに知っていたからだ。
「死ぬのは、嫌です。でも、歩さんのためなら危険をおかせます。でも死ぬのは嫌だったので、死なないための準備をしました。でも、それでもあなたには通用しないかもしれないので、自分が死んだときのための準備をしてきました。…歩さんのためなら、私はいくらでも自分の命をチップにできます」
何度も、ひよのは自分の命を抵当にいれてきた。なにも驚くことはない。
今回と違うのは、ゲームの難易度が上がって敵が凄腕となり、勝ちづらくなったということだけだ。
「あなたの言うことは正義かもしれません。あなたは正しいのでしょう。私を殺すことで千の人間が助かるのなら、それが正義だと、人は言うでしょう」
さあどういうべきか。ひよのは必死で頭を回転させる。
ナイフは間近、死も間近だ。自分が悪魔だろうが、造物主のルールでは歩以外には殺されなかろうが、そんな奇跡に頼ってナイフで刺されるつもりはさらさらない。
現実を認識し、自分の罪を罪として認識して、それを抱えて生きていくつもりの人間というのは、一番くみしにくい。
これが正義に酔って目の前の罪が見えておらず自己陶酔しているタイプなら、さっさとその酔いを醒ましてやればいいのだが。
「私は私の命の価値を知っています。私が死んだら、歩さんはどれほど嘆き悲しみ、憤るでしょう。だから私はあなたの理屈に納得なんてしてあげません。あなたがどれほどの言葉を並べようと、無駄です。私は自ら死を受け入れたりしませんし、最期まで、抵抗します」
言葉を言い終えると同じぐらいのタイミングで振り下ろされた刃を、ひよのは見ていた。
それがカン、という音を立て、跳ね返されるところまで。
ひよのはとびすさり、素早く距離をとる。
清隆はナイフの感触にすぐに悟ったらしい。―――硬いもの。刃を通さないものを、制服の下に仕込んでいると。
「準備はしていた、って言ってたね、確かに」
「私は勤勉ですよ? 特に、自分を守る手立てに労力を費やすことは厭わない人間ですからね? とりわけ新聞部と、この音楽室には手を尽くしています」
清隆は眉を寄せる。
「あなたがいつどこでくるのかわからなかったので、私の放課後の常駐場所である新聞部と、おびき寄せる場所であるこの音楽室の両方に、布石を打っています。ここで私を殺せば、あなたも傷を負いますよ。―――提案です。鳴海清隆さん、ここは退いてもらえませんか?」
青年はさらりと言った。
「君の考えてることはわかっているよ。まどかと、歩。私の愛する二人をつかって、私に圧力を加えるつもりだろう? 録音テープの10や20、君は仕掛けていそうだし、それを二人に聞かせれば二人も私が君を殺そうとしているということを納得するだろうし。―――君のようなしぶとくて諦めの悪い人間は、多少のリスクを踏んでもここで殺すに限る」
「逃げ回る女子供をとっつかまえて、殺すなんて、人でなし確定ですね」
「同感だ」
近づく清隆を前に、とうとう追いかけっこかとひよのが利き足のつま先に力を込めた瞬間、それは起こった。
駆け出そうとする前傾姿勢のまま、無様にひよのは床に倒れこんだ。
とっさに突き出した腕で体重を受けとめ、胴体をかばったのが限界で、力が入らない。
清隆が、息を吐き出す音がした。
「やっと効いてきたか……」
愕然とした。
伏したまま、頭も上げられない。全身の神経がしびれたようで、力が入らなかった。
「君の性格はわかっているよ。素直に殺されてくれる人間じゃないだろう。だから、毒を盛らせてもらった」
驚く表情も、何もかも、すべて演技。
「……どうやったんです。私はあなたの打つ手を警戒して、所持品は一つ残らず、管理下においておいたのに」
「その君が、無防備に触れるものがある」
「……なんです?」
「歩のお弁当だよ」
一拍開けて、ひよのは呟いた。
「……地獄に落ちやがれ」
自分でも不思議なことに、ひよのは毒よりも歩がそれを食べていたらどうするという方に怒りを感じていた。二つの弁当の中身はおなじ。なら。
「歩が、それを食べる心配はない。あの子は馬鹿丁寧に、君の分を君好みの味付けで作っていたから」
体に、力が入らない。
恐ろしい速さで脳裏に投与された可能性のある薬品名がスクロールし……その一つで止まる。
―――遅効性、持続時間長!
床にふしたまま何とか立ち上がろうと、爪で床をかくひよのを、清隆が抱きおこした。
世界中の女を魅了することも可能な、蜜のように甘い美声が睦言のようにささやく。
「地獄で待っててくれ。そう待たせはしないから」
歯噛みする思いだった。
―――ここまでか。
どう頭を使っても、抜ける手立ては見つからない。死にたくないが、生き延びられる道が見つからない。
そもそも、死は暴虐なもので、奪われたくない者から奪っていくものだろう。
ロッカーを使わないために、毎日鞄はぱんぱんの大荷物でくるひよのをクラスメートが怪しまなくなるまで一週間もかからなかった。それから鞄の中身はいつも、機械だ。その機械の何一つとして、「後で面倒なことになってもひよのをここで殺しておく」という決意のある清隆には役に立たない。
武器はすべて、服のなかだ。取り出すこともできはしない。
最期の心残りは、たった一人のこと。
「……歩さんを、お願いしますね」
「君は……」
と、青年の面に、本物の苦笑がのぼった。
「最期までそれかい?」
「ええ。―――私の一生に意味があるとしたら、あの人に会えたことだけです」
ひよのは微笑む。
すべての現世の淀みを落としきった顔。
どこまでも白く輝く蛍雪の笑顔だった。
無垢という言葉を体現したような微笑に、一瞬、清隆が気をのまれた瞬間。
銀の鈴のような声が言った。
「地獄で、お待ちしています」
長いお話をお読みくださり、ありがとうございました。
この後、少し番外編があります。
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