翌日、リオンはジョカの部屋を訪問した。
リオンは目を見開いた。
扉を開けてすぐのところにジョカはいて、リオンを見て、ゆったりと優雅に一礼したのだ。
「御機嫌麗しゅう、王子さま。俺を支配する真名を父上からお聞きになった様子、お祝い申し上げます。もう、これまでのような口はきけませんな。態度を改め、お仕えさせていただきましょう」
「やめろ、ジョカ……!」
耐えられず、かぶりを振ってリオンは叫ぶ。
ジョカはふっと口元に笑みを浮かべ、下げた頭を起こす。
「聡明な王子のことだ。気づいていたのだろう?」
「―――ああ。気づいていた」
きっかけは、ジョカにかけられた「呪い」だ。ジョカは制約なんて言っていたが、とんでもない。あれは、呪いとしか思えない。
次に、部屋の異状。
窓のない部屋など、リオンは地下牢ぐらいでしか見たことがない。それは、囚人を閉じ込める部屋だ。
おまけに食事がない。リオンは最初、泥棒することについてジョカを非難したが、そうするしかないではないか。どうやって生きて行けというのだ。人は食べなければ死ぬのに。
印章でなければ開かない扉。では、ジョカの側からは? リオンは、ジョカが外を出歩くところを一度たりとも見たことがない。しかも数年に一度しか扉は開かれないという。どんな人間でも、孤独で発狂しそうになる環境だ。病になっても放置され、そのまま、餓死か病死か治るかの三択を強いられるのだ。
どんな最下層の囚人でさえ食事ぐらい出されるというのに、ジョカにはそれもなく、彼は自力で食料を調達するしか、生きていけなかった。
―――この国は、ジョカのおかげで安寧を貪っているというのに!
窓がない部屋、数年に一度しか人は訪ねてこず、しかも訪ねてきたら自分の力を貪ることばかり、食事さえも支給されず自力で調達するしかなく、病に伏したらたちまち飢える。
どんな人間も、狂いそうになるだろう。いや、発狂した方が、楽だ。
そんな場所で三百年以上、ジョカは生きてきたのだ。
それでいて、そんな状況に追いやった王は、無自覚に彼の力を搾取し続ける。
ジョカが、以前、食事の調達方法を非難したリオンを嘲笑したことがあった。今なら、その気持ちが、よくわかる。
食事も持ってこないでこんな部屋に押し込めた王家の人間が泥棒だと? 笑わせる。ならどうやって俺は生きていけばいい。
「……以前、あなたは、ここに入り込んだ唯一の人間を殺してしまったことを悔いていた。それは……」
ジョカは頭を振る。
「あいつは、俺を、助けに来た人間かも知れない」
その一言が、二人の間に重く沈んだ。
救出にやってきた男は、無警戒で、救出すべき相手に声をかけただろう。逃げましょう、と言う気だったのかもしれない。あなたはどうしてここに囚われている、と、事情を聞くつもりだったのかもしれない。
だが、初代国王の作り上げた罠は狡猾で、ジョカはその人間を殺してしまった。
「この部屋に潜り込むなんて偉業を果たしたんだ。俺を、この国から解放できたかもしれない。もしあいつが他の国の密偵だったら、代わりに自国に力を貸せって話になったろうが、まったく問題ない。この国から解放されるなら喜んで力を貸してやる。恩もあるし、いくらなんでもここ以下の待遇なんてあるわけないからな」
当然だと思っても、胸がひどく痛んだ。
その痛みをこらえ、リオンは真っ直ぐに見た。そして、名を呼ぶ。
「ジョカ」
ジョカがいつもと違う空気を感じたのか、戸惑ったような顔でリオンを見た。
リオンの瞳は赤い。昨日からずっと眠っていないためだ。
「私は、あなたを解放する」
ジョカは右の眉を跳ねあげた。
「何を言う? 一時の感情で、この国を揺るがす気か?」
リオンは黙ってかぶりを振る。そしてジョカを見つめた。
そのアイスブルーの瞳には、凛として真っ直ぐなものがあらわれていた。
「突然じゃない。ずっとだ。ずっと、あなたが囚人だということに気づいてから、あなたを解放する術を探していた。でも、わからなかった。だから立太子式まで待ったが、まだわからない。ジョカ。あなたも、自分がこの檻からどうやったら解放されるのか、懸命に探ったはずだ。教えてほしい。あなたを、私は、助けたい」
思わず、という風に、ジョカがたずねる。
「本気か? 俺がいなきゃ、お前らはたちまち苦労するぞ。この国の民はあまりにも平穏に慣れすぎた。天災が起こればそれは王の不徳。王の不備。そう考えるのが、この国だ」
解放されようとしている囚人が、解放しようというリオンを説得するかのような弁をふるうことにおかしみを感じて、リオンはくすりと笑う。
「わかっている。あなたの言うことも、間違っていない。国のためを思うのなら、ここに、死ぬまであなたを捕えておくことが、一番国益にかなう」
リオンは、ジョカを見上げる。
「―――でも、私は、ここに、感謝の心もなく、奴隷当然の境遇であなたを封じていることを正しいとは、とても思えない」
リオンとて、真っ直ぐな正義感だけで国を治められないことなど百も承知だ。ジョカの薫陶よろしく、「騙し」も「ずる」も使う。海千の商人にも通じるしたたかさを、リオンに教えたのは当の、目の前にいる青年だった。けれども。
悪人を牢に入れるのと、恩人を永久の牢獄に飼殺しにするのは、まるで違う。
数秒の沈黙。
その間、ジョカは、リオンを見つめ続けた。
リオンも逃げずにまっすぐジョカの瞳を見返す。
迷いも、怯えも、ひるみもない、堂々として真摯な眼差しだった。
ジョカは、そういえばこの王子は、最初からそうだったと思いだす。
正しく、潔癖な道を、ひたすらに歩んでいた清廉な王子。
人倫としては、明らかにリオンの方が正しいが、それだけで済まないのが政治というものだ。
「……お前の父は?」
「一晩かけて説得した。ジョカと同じことを言ったが、最後には頷いてくれた」
「国王を説得したのか!?」
今度こそ驚いて、ジョカは声を上げた。
リオンは平然と頷く。
「おかげで徹夜だ。父の気が変わらないうちに、急いでここに来た」
歴代の王は、罪悪感にさいなまれていた。
人として、何の落ち度もない恩人を幽閉することに心に躊躇いを持たない人間はあまりなく、それはジョカの力を頼れば頼るほど、大きくなったろう。
その心の重石をできるだけ先延ばしにするために、王子に事情を説明するのは立太子式のあと、ということになったのだろう。こんな重いものを子に進んで持たせたい親はいない。
また、ジョカの性格が性格だ。自分を利用しにきた王族に、罪悪感を刺激する一言を山のように振る舞ったことは確信できる。
長時間のリオンの説得に、最後には王が折れたのも、その重石が、心を押しつぶしていたからこそだ。そうでなければ、頷くはずがない。
リオンは、子供っぽい義侠心だけで、ここにこうしているのではない。
通すべき必要な筋を通したうえで、ジョカに、解放の手を差し伸べているのだと理解するのに、すこしの時間が必要だった。
起きながらにして夢を見ているような、信じられない気持ちで、ジョカは言葉を紡ぐ。
「……この部屋の四隅に、俺の真名を刻んだ石がある。俺の真名だから、俺はどうあっても破壊できない。それを、壊してほしい。そうすれば俺は自由になれる」
「あなたの、あの、制約とやらは?」
「俺を縛る鎖の要がこの檻だ。制約は檻にくっつく付属品のようなもので、檻を破壊すれば共に倒れる」
「わかった。どこだ?」
ジョカは部屋の明かりをともし、リオンを案内した。
家具の裏に、その石はあった。乳白色の石で、その表面には文字が刻んである。
三百年前の、今とはまるでちがう形状の文字だが、ジョカを救う方法を知るべく古書を読み漁ったリオンには読めた。……確かに、ジョカの真名だ。
「この文字を削ればいいのか?」
「ああ」
王子が剣を抜きかけたのを、ジョカは止める。
「これを使うといい」
軽く百年は前の、年代物らしき、鏨(たがね)だった。
リオンの視線を受けて、ジョカはかぶりを振る。
「削り取ろうと何度も挑戦したが、俺では駄目だった」
リオンはその鏨を見下ろし、手に取る。ズシリと重さが伝わった。……逃げようと努力して、果たせず終わった証だ。
槌も受け取り、リオンは姿勢を整えて鏨を構え、槌を打ち付けた。
白い破片が飛び散る。
「うっ……!」
背後で声が上がった。リオンは急いで振り返り、ジョカが顔を押えて体を折るのを見る。
「ジョカ!?」
破片が眼の中に入ったのかと、リオンは急いで立ち上がろうとしたが制止される。
「いい……かまうな、続けろっ!」
「だが……」
「お前が全部削れば痛みもとれる! いいからやれっ!」
呪術的な痛みかと理解し、リオンは無心に槌を打ちおろした。
そのたびに後ろであがる押し殺した悲鳴も何もかも、聞くまいと心に決めた。
文字をすべて挫滅させた頃には、肩は大きく上がっていた。リオンは後ろを振り返る。
「大丈夫か?」
ジョカは、顔を覆っていた手をゆっくり外して頷いた。表情は強張っているが、痛みを感じている様子はない。
「ああ……大丈夫だ。もう、痛まない。あと三つある。その調子で、俺のことは無視してやれ。いいな」
リオンは唾を飲み込み、頷いた。
「わかった」
石を砕く衝撃は、リオンの手をしたたかにしびれさせた。歯を食いしばってそれをこらえ、つづく二つの石の文字を削りとる。
後ろのジョカの苦鳴の声は、努めて聞かなかった。
「ジョカ……次で、最後だ」
「……ああ……」
ジョカはおぼつかない足取りで、室内を横切り、最後の頸木の在りかを指し示した。
「ここにある。……これを砕けば、すべておわる。解放される……」
自分の足元でさえ定かでない、茫とした様子だった。
あと、ひとつ。
もう、長きにわたる頸木からジョカが解放される時まで、長くとも一時間とはかかるまい。
リオンは震えている自分の手を見下ろし、ふと尋ねた。
「―――初代国王について、私は調べてみたが、ろくに分からなかった。どんな人間だったんだ?」
ジョカは、やや確りした表情になって、リオンを見た。
「聞きたいか?」
「ああ」
ジョカは床に胡坐をかいて座り込み、リオンもそれに倣う。
感情というものが失せた声が響いた。
「俺があいつと初めて出会ったのは、俺が十八、あいつが十七のときだ。あいつは農家の息子で、それだけの身分だったのに、国を作って王になるという夢に燃えていた。すでに子もいたというのに誰彼かまわずそのことを言いふらし、ちょっと頭がおかしいんじゃないかって思われながら、仲間を集めていた。俺は王になる! 仲間になって力を貸してくれ! そう言われた時、俺も、こいつは阿呆かと思った」
身分制が定着した今の時代にそれをやったら、ただの狂人である。そして、今ほどではないが、三百年前の基準でも、おかしな言動だったのだろう。
「常軌を逸した夢を平然と語り、誰に対してもはばかることなく言っていたあいつに興味を感じて、俺はその夢を手伝うことにした。建国は、楽しかった」
楽しかった、そんな言葉を、不釣り合いな乾燥した声が語った。
「俺が協力したおかげで、仲間は飛躍的に増えて、二年後には国ができた。とはいっても、そう大それたことをやったわけじゃない。三百年前は未開の地もたくさんあった。そんな土地に行き、土地を開拓し、開墾して畑をつくり、境界線をひいて、ここからは俺の国、とやっただけだ。苦労して開墾した土地を収用しようって色気を出す国もあったが、それは俺がガツンとやった。そして、あいつは、本当に王になった」
この国は、その頃はそんな、人の手の入らない未開の土地だったのだ。
「決定的に決別したのは、俺が二十二のときだ。ささいなことで言い争いになった。本当に、理由なんてもう憶えていないぐらいにささいなことだ。そして、俺たちは喧嘩別れした。俺は国を飛び出した。しばらく自由に世界を飛び回っていたが、一月もすると、そろそろ仲直りするかという気になった。あいつは、笑顔で俺を出迎え、この部屋に招いた」
リオンは眉の間に、しわを作る。その時のジョカの衝撃が、想像できる。友人だと思っていた相手に罠にかけられたのだ。卑怯な、だまし打ちだった。
初代国王ルダイは、敬意に値しない裏切り者だった。
「俺はあいつに、自分の真名を明かしていた。あいつはもう一人、どこからか魔術師を呼んできて、その真名を用いて俺を縛る檻を作らせた。俺は、何の警戒もなくこの部屋に入り、―――すべての自由を奪われた」
リオンはそっと目を伏せる。その血を引くことが、恥ずかしかった。
淡々とした声が、室内を流れていく。
「あいつは王だった。それも、新しい王だ。強く強く、外に対しては見せなければならないぶん、内はもろさを抱えていた。それを支えていたのが、俺だ。それは分かっていたのに―――俺は、つまらない喧嘩で飛び出した。あいつは俺に執着した。今とは違う、魔術師は他にもいた。だがあいつは、『俺』に、執着した。翼を手折り、どこにもいけないよう雁字搦めに縛ることで、あいつはやっと、安心したようだった。俺は強く抗議した。罵った。無視した。でも、どれも効果はなかった。その頃、食事は三度三度、あいつが持ってきていた。やがて、俺も諦めた。俺の寿命は馬鹿のように長い。その頃の人間の寿命は、あと二十年生きられるかどうかというところだ。つまらない喧嘩で飛び出して、あいつを本気で切れさせた俺にも非がないとは言わない。どんなに王としての職務が忙しくてもあいつは俺のところを三度三度訪ねてきて、俺に食べさせた。その態度に、あと二十年ぐらいなら付き合ってやろうかと、そんな風に思うようになった」
リオンも薄々気づいているが、ジョカは、ひねくれているが、案外人がいいのだ。ひねくれ部分は三百年の幽閉生活がつくりあげたもので、それ以前は結構なお人好しだったのではないだろうか。
どれほど罵られてもきちんと食事を持ってくる初代の態度に、もともと親友だったこともあり、ほだされたのだろう。
「だが、あいつは、それから十年とたたないうちに死んだ。突然の事故だった。あいつは自分が死ぬ時には俺を解放すると言っていたが、檻はそのままに俺は放置された。悲嘆にくれたあと、それに気づいて呆然とする俺の前に、あいつの息子が現れた。あいつから教えられたという、真名をもって」
リオンはすっと息を吸い込む。
「父から、自分が不意に死んだら、俺を解放するようにと言われていたと、息子は言った。俺はこれで解放されるものと、疑わなかった」
続きは、聞かなくてもわかった。
ジョカも、それ以上言葉をつづることはなかった。
ルダイの息子は、ジョカを、惜しんだのだ。
ルダイは、裏切り者だ。だが、話を聞いた今、少し、その印象が変わった。
ルダイにとってジョカは大切で大切で、逃げられたら心が砕けてしまいそうなほど大切な存在で、去られる恐怖に、縛りつけずにはいられなかったのだ。
それから二十代の間―――歴代国王は、ジョカをとらえ続け、搾取し続けた。誰も、彼に彼の正当な権利と自由を取り戻させようとはしなかった。
リオンは立ち上がり、手を差しのべた。
「―――二代目国王ルイスのやるはずだったことを、私がやる。あなたを自由にし、あなたに償う」
◆ ◆ ◆
リオンは、最後の石に鏨の刃をあてた。
石に鑿の刃を入れたら、もう止められない。ジョカの激痛は、最後まで削り取らなければ止まない。
リオンは、ふと心にきざした迷いを、息を吐き出して捨て去る。
これを削れば、もう、後戻りはできない。起こりそうなこともすべて、『わかって』いる。それでも、やると決めたのだ。
最後の文字を削り取って、リオンは振り返った。
激痛に、体を二つに折っていたジョカが、ゆっくりと頭を起こす。
「は……はは」
まじまじと、信じられないような表情で、手を見る。
「はははははっ」
自分が解放されたのだということを理解すると、ジョカは体を起こし、天を振り仰いで笑い声をあげた。
「あはははははははははッ!!」
その顔に浮かぶのは、狂気が入り混じった喜悦。
ジョカが腕を振る。
ただそれだけで天井が崩れ、破片が落下した。
とっさにリオンは頭をかばう。数秒して顔をあげ、もうもうたる粉じんが漂う中を、ジョカの姿を探して視線をさまよわせる。
ジョカは、天井の大穴から差し込む光を愛おしむ様に手を広げ、全身に浴びていた。
その日、空は高く澄み、天国まで見渡せるような素晴らしい蒼穹だった。
高らかに、ジョカの喉から声がほとばしった。
―――復讐の時、きたれり!
その声を、すべての国民が聞いた。王宮にいる人間の一人残らず、ルイジアナ王国の辺境の民の最後の一人に至るまで、同じ声を聞いたのだ。
蒼穹が、にわかにかき曇り始める。暗雲が太陽を遮り、辺りは薄闇に閉ざされた。
―――我の苦難の時は終われり! 三百二十年の長きにわたる苦痛のあがないとして、我、正当なる対価を求めん! この国の最後の一人に至るまで血祭りにあげ、国土のすべてを灰燼にし、我を封じしルダイの所業のことごとくを無に帰すことをここに誓う!
何事にも代価はある。
ルイジアナ王国の歴代の王たちが、二十一代にわたり、ジョカをいいように踏みにじってきた代価を支払う時が、来たのだ。
無体とはいえない。
これは正当なる復讐だった。
三百二十年もの間、幽閉され、復讐に燃える魔術師は、生きた人間の形をした災厄だ。
そして、それに対抗できる人間は、もう、この世にひとりもいない。
正しい行いが、いい結果を生むとは限らないのが現実です。
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