結崎ひよの殺人事件の前日譚です。
歩とカノンが面会したときのカノンの反応の理由は、これを見ていただければわかります。
カノン・ヒルベルトは衆目を引く少年だった。
単純に、容姿という意味でも、雰囲気という意味でもだ。
彼のストイックで高潔な空気は誘蛾灯にもにて、人をひきつけた。ことに自分に自信を持っているタイプの女性は、手ごわくかつ極上の獲物を目にし、なにがなんでも落としてみたいという気になるらしい。
また、清潔な印象から、堅いタイプの女性にも好感を持たれやすかった。
とどのつまり、カノンヒルベルトは、女性に困ったことなど一度もなかったのである。
彼が重くせおう十字架のせいで、そういった女性と関係をもったことこそなかったが、女性に言い寄られてばかりであしらう方法は上手くなった。
……あしらう方法だけが、といっていい。
性欲と愛欲が昂進される戦場を生活の場としながら、彼は病的なまでに女性との身体的接触を拒絶していた。むろん、彼も処置されているが、どうしてもその気になれないのだ。彼は誰よりもつよく自分の運命を理解している。承知しているからこそ自分の体にくわえられる処置を受け入れたのだから。
仲間への仲間意識に匹敵するほど強い好意を、『他人』に抱いたことは、これまで一度もなかった。いや、カノンは自分が誰かに好意を抱いている、と自覚する経験をほとんどしたことがなかったのだ。
鉄のように揺れない心、動じない精神で、これまで生き抜いてきたのだから。
(そろそろ彼女は来るだろうか?)
そんな自分なのに、今日は気分がそぞろに足並みを乱している。しかも、不快でない。
原因は一つだけで、そんな自分の他愛なさについ笑みがこぼれてしまう。
カノンの監禁場所は厳重だ。
許可なくしては入れず、事前にその予定は告げられる。先日、彼女が突然―――しかも一人で訪問する旨聞いたときから、カノンの退屈な監禁生活に心がふわふわと躍る要素が加わったのだった。
(僕は、彼女を慈しんでいる)
誰かを大切に思っていることを、自覚するのは意外なことにとても心地よいものだった。
しなやかな猫の毛皮を抱くように、温かいもので胸郭が満たされる。水ではなく、空気の重さでそれは肺をこすり、切なくさせる。目を細め、その感触に酔うのは、胸の痛みを忘れさせてくれる一時だった。
訪問の連絡がはいり、カノンは少女を出迎えた。
§ § §
少女は、記憶と変わらない印象で、そこにいた。
さすがに猫耳はなかったが、制服姿で、学校帰りと思しき鞄を提げていたのだ。
とくんと、心臓が体の奥で一際高いシンバルを打ち鳴らした。
緊張と歓喜が、心臓の流れに乗って全身に運ばれていく。体温がやにわに高まっていくのを感じて、そのざわりとした感覚に一瞬、瞑目した。
ひよのはカノンの視線を認めて、ほおに刻んだ笑みを深くする。
「こんにちは、カノンさん。カーニバル以来ですね。私のこと、覚えてますか?」
「もちろん。結崎ひよのさん。待っていたよ」
カノンはほんとうに『待って』いたのだけれど。
万の思いを、そんな社交辞令に包んで見えなくする。そう、カノンは彼女に言う気など毛頭なかった。恋かどうかもわからないあやふやな感情なのだから言う必要もないと自分に言い訳する。
席に案内する。
テーブルにあるのは薫り高い紅茶に色鮮やかな生花とクッキー。ひよのはこうした少女趣味が大好きだろうと思ったのだ。
しかし残念ながらひよのは気にも留めずに椅子を引き、あたりさわりのない世間話をかわす。体の調子はどうの、天気はどうの、待遇はどうの。
そして切り出したのは、カノンの方だった。
「それで? 今日は一体どうしてここへ?」
「そうですね、単刀直入に言いましょうか」
ひよのは鞄の中から一枚のケース入りCDを取り出し、テーブルにのせた。
「お願いがあります。このCD-Rを、預かってもらえませんか?」
カノンは腕組みをした。凝視すること一秒あまり。
「……理由はもちろん説明してくれるだろうね?」
「はい。いくつもの理由があります。まず、カノンさんからなにかを力ずくで取り上げるのは、とても難しいこと。あなたは、安全間違いなしの保管庫になれます。そして、二番目。そのCDをあなたに預けることで、あなたの行動を制限することが出来ます」
オブラートに包んではいるものの、意味は明白で。
「……僕は、歩くんに負けた。そうである以上、自殺はしないよ」
「はい。判ってます。ですがそれでも―――清隆さんがなにかちょっかいを出してくる可能性はあるでしょう?」
カノンは乾いた笑みをもらした。
「あの男が、どうして今更僕をかまう? 危険性もなく、何ができるというわけでもない僕を。計画どおり歩くんに殺されなかった意趣返しというには、」
「あなたが知らない事情があるんです」
さえぎるように言ったひよのの言葉に、カノンは眉をよせる。
「……僕が知らないことを、無関係の君が、知っているというのか?」
質問しながらも、そうかもしれないと思った。以前カノンの家庭環境をも調べることのできた彼女は、カノンの知らないことを知っているかもしれない。
そしてひよのは、カノンの眼差しにもひるまずしっかりと頷いて見せた。
「はい。知っています。そのうえで、これをあなたに預けたいんです」
「……中身は?」
「たぶん、鳴海清隆さんが歩さんに知られたくないと思っている事柄ですよ」
澄ました顔のひよのに、カノンは眉をよせた。
「……ここの会話は監視されている。清隆の耳にも、きっと届く」
「ええ、わかって言ってますのでご心配なく。私はその情報を知ってしまったときすでに一線を越えているので、今更なんですよ」
確信犯の、呆れるほど肝の太い少女はそううそぶいた。
諦念の、息をひとつ。
敗北宣言の言葉を唇から吐き出した。
「いつまで僕は預かっていればいいのかな?」
ひよのは紅茶を口に含み、しらっと答えた。
「私が殺されるまで」
カノンは血が凍りつく感覚を感じていた。まだ、肌がぴりぴりしている。逆立った毛が元に戻ってない。
「……どういう、意味かな」
「ですから―――保険です」
ひよのはカップを下ろし、
「私が死んだら、その事実があなたに伝わるようにしておきます。そうしたら、歩さんにそのCDを渡してください。もし、一年たち、私が卒業しても死ななかったら、ここへ取りにきます。……ということをここで堂々言えば、私を殺しにくくなるでしょう?」
「清隆が、君を殺そうとしていると考えているのか?」
「はい」
鐘を打つように明瞭な返事。
「……この中身を知ってしまったから?」
「それも原因の一つ。より直接的な要因としては、私が、歩さんと付き合いはじめたから、でしょうね」
そのことに、不思議なほどカノンは衝撃を感じなかった。
ひよのの心が鳴海歩にあることを、血を流しながら対峙した十数分で、知っていたからだ。
気がつけば、ひよのの目はまっすぐカノンに向けられていた。
「私は、死にたくありません」
ひよのの言葉は、とてもシンプルで力強い。
生きるという本能、生命の根源だった。
それに真っ向から反しているカノンは、眩しい太陽の影で首をうなだれるしかない隠花植物か。
「最後の一鼓動まで、決して諦めません。たとえ神様が私を殺そうとしているのであっても、諦めて首を垂れてギロチンの冷たい刃を待ったりしません。私は、私を守るために全力を尽くします」
ひたと合わされた瞳は、石のように揺れない。その小さな体が何倍にも見えた。
亜麻色の髪を三つ編みにした童顔の少女は、その瞬間女神も敵わない覇気と生気を宿し、神の降臨とみまがう絶対的な輝きをまとった「ただの人間」だった。
カノンは数秒、瞑目した。
そして今目に焼きついて離れない彼女の表情に、自分が二度目の完敗を喫したことを、確認する。
(僕は、彼女に恋をしている……)
今自覚したばかりの感情を再確認しながら、カノンはいう。
「僕が、守ろうか?」
「結構です。無駄だと思いますし。あなたと常時一緒にいたら、歩さんの誤解をまねきそうですし、ね」
知らないのだからしょうがないが、ずいぶん残酷なことを言ってくれる。
そう思った瞬間、透徹な表情で、ひよのが言った。
「私はあなたの気持ちを知っています」
腹の底まで一息に冷えた。
自分の気持ちを先読みされたようで、見透かされたようで、息がつまった。
さらに身のうちに抱えた闇はささやく。この驚愕をおまえは知っていると、以前味わったじゃないかと。
清隆といたとき、何度も味わった。
他人が、自分の考えを読んでいるかのように、返事をする。
この驚愕の感触に、覚えがあった。
「そのうえで、言います。残酷だということは、承知のうえです。私はこのCDを、あなたに守ってほしい。そして、私の身に最悪の事態が起こったときは―――、あなた自身の手から、鳴海さんに渡してくれませんか?」
「……君を好きな僕だから、君からの願いは決して粗略に扱わないと思ってる?」
「はい。そうでしょう?」
自分の勝ちを知りながら微笑む少女の、なんとふてぶてしくも生気にみちていることか。
それに、カノンは惹かれたのだろう。他にもいろいろあるけれども。たとえば愛する相手のためにならためらいなく自分の身を投げ出せるところとか、呆れるほどの諦めの悪さだとか、毅然とした誠実さ、だとか。
ふと、意地悪くこんな質問をしてみた。
「CDは預かる。僕の一身命をもって保管することを約束しよう、では君は、預かり賃として、なにをくれる?」
「なにも」
小船を海に放つように、ひよのはその一言を孤独に吐き出した。
「……ですから、これは取引ではなく、お願いなんですよ。あなたに差し出せる預かり賃は、ありません」
「そうかな? いろいろあると思うけど。僕の気持ちを知っているという君ならば、君だけが提供できるものが、たくさん」
そういったのは、意地のわるい試し。カノンの腹はすでに決まっていたのだから。けれどこの口のへらない少女に一泡吹かせたい気持ちがあるのもたしかで、それがこんな言葉にした。
本気、ではなかったのだ。
→ BACK→ NEXT
- 関連記事
-
スポンサーサイト
Information
Comment:0