「ああ、それは考えないでもなかったのですが、ある事情により却下しました」
「ある事情?」
「私は性的な意味合いを持った接触を、好きなひと以外としたくないんです」
恬淡とした、幼稚なほどまっとうな意見に、つい目を見張ってしまった。
カノンの印象では、そんな可愛げのある相手とは、ついぞ思わなかったので。
「それに、あなたは、もし私がその申し出を受けたら失望するでしょう?」
……もはや苦笑するしかない。
勘所をおさえられている、というべきか。的確な読みである。
まぶしいほどの白さ。それに通じた印象を、カノンは彼女に感じている。
その揺らがぬ強さと、好きなものを譲らない強固な一線に魅力を感じているのだから、もしもカノンの申し出を彼女がうけてその身を差し出したなら、カノンの恋はさめただろう。失望し、落胆しただろう。
彼女の譲らぬ強さが、まぶしい。
その強さが生み出す一点の穢れも無い清さが羨ましい。
汚濁の中で血にまみれた自分には、どれほど焦がれても得られぬものだから。
「わかった。預かろう」
伸ばした手はさえぎられた。
「だめです」
「……えっ」
「覚悟を。お願いします。あなたはこのCDを、決して誰にもどんなことがあっても渡さないと、約束できるほどの覚悟がありますか? あなたがこれを渡せるのは、直渡しで私が死んだ場合の歩さんと、一年以上たったあとの私だけです。たとえアイズさんが銃をつきつけられても、仲間を殺すと脅されても、それでも渡さないでください」
「それは……」
言葉がよどんだ。たかが物と、アイズの命は、けっして等価ではないからだ。
しかし口先だけの言葉を、彼女は必要としていない。
混じりけなしの、本音を、ヒタと見据えた視線ではかっていた。
「歩さんに渡す事態になるということは、私が死ぬということ。……私の、命と引き換えのお願いになるでしょう」
そこで彼女は瞑目し、
「……私の命に免じてお願いします。私が殺されたら、このCDを、必ず無事に歩さんに届けてください。いかなる脅迫にも、まけず」
……ああ、なるほど。
そうか。
カノンは理解した。彼女がここへきた理由の、最大のものを。
それは、清隆の打ってくるどんな方策にも負けず届けられるのは、カノンしかいないからだ。
彼女が人を思い通りに動かせるといってもそれは脅迫という手段あってのこと。脅迫はより大きな脅迫に屈する。清隆は彼女の上をいくだろう。清隆は、彼女が脅迫していた相手にこういうだろう。「あなたが脅迫されていた材料は始末しました、それを渡してください」と。
彼女を想うカノンなら、清隆の圧力に勝てるかもしれない。だから、彼女はここに来たのだ。
その考えは、自然と一つの答えに行き着いた。
「……本気で、君は清隆と戦うつもりなのか?」
この世に降臨した、神に。
「はい」
ひよのは気負わず微笑んで、つまりはいつもどおりに頷く。
「君は、無関係なのに……」
思わず、声がしぼりでた。かつて、清隆の思いどおりにはならないと気張って、結局思いどおりにさせられた経験が、そうさせた。
「そうですね」
あの学園で、血の匂いのした十数分。彼女とカノンが話した内容は、この世で二人だけしか知らない秘め事だ。
血を滴らせながら、彼女は最後まで微笑んでいた。
そして、話をした。多くはくだらない世間話で、少なくは単なる場もたせ話。口は動かしつつ目で減っていく血の分量を正確に測りながら、カノンのなかに少しずつ積もっていったものがある。それは時間による化学変化を経て、「危険域に達したら無理矢理にでも止める」という決意にかわった。
彼女はどうか知らないが、カノンは鮮明に、そのとき話した内容を憶えてる。
一から百までくだらない話を、逐一。
恋に気づいたのは今でも、恋は、とうに生まれていたのだ。
「私にも、目的というか希望がありまして。そのためになら何でもしちゃうよって希望なんですけど」
「……それは?」
「歩さんといっしょに、髪が真っ白になってしわしわになるまでしあわせに暮らすことです。それには、あの人が邪魔なんですよね」
カノンの心にうろんな疑惑が生じた。……清隆が攻撃してくるからこの少女が応戦するのではなく、彼女がちょっかいを出しているのではないだろうか。
ひよのならやりそうだった。苦笑してしまうほど、彼女はやりそうだった。
「そのために必要なことは、二つ。歩さんが私を愛してくれることと、あのファンタジーを解決することです」
「……歩くんは、君が好きなんだろう? 彼は今君と付き合っている」
「歩さんは、とっても、お人よしです。あのひとは私への感謝の念とか、そういうので好きな錯覚をしているだけかも。私への気持ちを、誤解しているだけかもしれません。ま、それはそれでいいんですけど。でも、真実の愛とはいえません。だから、このファンタジーが解決したら、私は歩さんとゲームをする予定です」
ひよのが説明したそのゲームの内容というのが眉をひそめてしまうもので。
なにか言おうとした機先を制して、ひよのは言った。
「ここで言っているのはすべて仮定。全ては卒業してから。ファンタジーが、解決したあとのことです。……卒業、できるといいですね」
仮定で、予定で、未定で。
彼女の未来は、決まり文句の「一寸先は闇」なんてものでなく危うい。
彼女の蟷螂の斧は見過ごすには大きすぎ、勇気と知恵と策略の持っている全てを用いて、彼女はすべてと戦おうとしていた。
―――覚悟を。
先ほどの彼女の言葉を思い出す。
彼女自身は覚悟をしているのだろう。そのうえで、最悪の場合に陥らないためのあらゆる手立てを尽くしている。
その彼女と同等の覚悟を抱けるか否か。
彼女から託されたこれを、どれほど真剣に考えられるか。これはそういった問題だ。
アイズや、仲間よりなにより、歩に渡すことを優先できるか。
(それだけの覚悟がなければ、預かれないものだ……)
心は揺れている。ひよのの頼みを聞きたい気持ちは強くあるが、アイズより優先させることが、出来ない。かといって、断るにはひよののその態度に、惹かれすぎていた。
人は時として、条理も何もなく感情に流されることがある。それはカノンとて例外ではなく、自分がいまその衝動を感じていることも、自分で分析できている。
彼女の無謀なたたかいに、見返りもなにもなくただ味方してやりたいと、強く思ってしまうのだ。
心は天秤のようにゆらゆら揺れて定まらない。だから、賭けをしようと思った。
「もし、君の両親がおぼれていて、どちらかしか助けられないとなったら、君はどちらを助ける? 回答拒否もなし、どちらか一方だけだ」
この質問の回答次第で決めようと思った。
ひよのはにっこりと笑い―――迷うそぶりもなく即答した。
「どちらも助けません」
「……え?」
「死んでくれても、嬉しいとも残念とも思いませんね。あの人たちも私が死んでもそうでしょう」
それから、ひよのが素っ気無く語った言葉は客観的でさめていた。
結崎ひよのの両親は、「親」というものを理解していなかった。金を与えれば親の義務は果たしたと思い込むような人間だったそうである。娘のほうも幼いころはともかく、やがて冷めた目でそんな両親を「そういう人なんだ」と理解するようになった。
なんと会った日数を数えられるほど疎遠だったというから驚きである。
「自分で作った子供も愛せないあんな両親のせいでどうして私が不幸にならなきゃいけないんです? 私は強くしぶとく一人で勝手に幸せになります」
身内の不幸話など、珍しくもない環境に彼はいる。カノン自身そうだ。
だが、そうあっけらかんと語る姿には、胸が痛んだ。これは傷ついていることを認められぬ少女の、認めないがゆえの強さだ。認めたら崩れてしまう強さだ。
彼女は生涯認めないだろう。自分にとって、両親の仕打ちがどれほど深い傷跡となっているか。自分のなかの傷を否定するから、反面彼女はどこまでも強くなれるのだ。
カノンは息を吐き出した。
カノンにとって、アイズはこの世界で最も親しき友であり……失えない人間だった。
これは、アイズより、ひよのが大切ということではない。
ひよのの事を愛しているから、でもない。
柄にもないことで、自分でも意外なのだが、どうやらカノンは、彼女に心動かされたらしいのだ。
―――同情やら、感銘やら、敬意やら。もろもろで。
「……君は、僕の説得についに成功したみたいだね」
「覚悟、決めていただけました?」
笑う笑顔はいつもどうりの童顔で、そのアンバランスにまた笑う。
中身は悪魔なのに、外見は天使のようにあどけないのだから、たまらない。
伸ばされる指と指。今度こそ、一枚のケースを譲りわたして。
「―――最後にひとつ質問だ。これを、僕が見ても?」
「構いませんよ。パスワードが必要ですから見れませんけど」
……なんともまあ用心深い。
「そのパスワードは、歩くんは知っているのかな?」
「知ってますよー。でも、これは嘘かもしれません」
監視カメラのあるなかで、彼女が真実を吐くはずもなく。
嘘ばかりで、何が真実なのかも判らずに。
彼女はイスの横の鞄を取り上げ、頭を下げた。
「じゃあ、カノンさん。私が死んだらあなたに伝わるよう、手は打ちますので。また会えることを祈っています」
「ああ。……僕がこれを歩くんに渡す事態にならないことを、心から祈っているよ」
そして二人は別れた。
二つの道が再び交わるかどうかは、誰も知らない。
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