結崎ひよの殺人事件の前日譚です。
まずいものを見てしまった……。
亮子は瞬間そうおもった。
冬場、肌寒いこの時期のさらに寒い早朝、屋上に上がろうという人間はそうそういない。
カノンのカーニバル後、病院に長期入院中の亮子が屋上に足を向けたとき、そこにいたのはただ一人だけだった。
結崎ひよの。
浅からぬ縁を持っているが、亮子個人としては、あまりつながりはない。
彼女との縁は、ブレードチルドレンとして、また鳴海歩の同盟者としてだった。
それでも、印象は深い。名前だけはまえまえから知っていた。学園を情報で闇から支配する支配者(笑)として、あまり係わり合いになりたくない人間として。
そして関わってみると、クセモノという印象はさらに強くなった。無関係だというのにしゃしゃり出てきて、事態の流れそのものを変えてしまう人物として、明るくしぶとく強靭な精神が印象に残っていた。
「弱さ」などない。迷ったりしない。
いつも、そんな顔をしている少女が、寂しげな憂鬱な顔で、晴れた青い空を見つめているのだ。
常の「強さ」があまりに強く印象に残っているせいか、その横顔は記憶に残った。
彼女は誰にも自分のこんな顔を見られたくないだろう。
そう思って、亮子はそっと持ったままのドアノブをそのままに、ゆっくり閉めていこうとしたのだが。
立て付けの悪い扉はきしんだ音をたて、ひよのが振り返った。
「亮子さんですか」
こうなったら仕方ない。
扉を開け、屋上の空気に身をさらす。
病院で支給された清潔な入院服は、室外の気温に対応しているとはいいがたく、少し寒い。
ひよのは私服だ。足元に鞄を置き、タートルネックのセーターは、温かそうだった。
ひよのの前までくると、彼女は微苦笑した。
「まずいところ、見られちゃいましたね」
「……なにかやな事あったのかい? 私でよければ、愚痴とかきくけど……?」
「ちょっと……自分に嫌だなあと思っただけですよ」
「え」
「亮子さん、これからの五分ほどを、井戸の底に沈めてもらえます?」
「甕の中に閉じ込めて、札でも貼っとくよ」
ひよのは息を吸い込み、吐き出した。
「……どうしてこんなことをやってるんだろうって、思っちゃったんです。あの人は私のことなんかちっとも見てくれないのに。あの人にとっておねーさん……まどかさんが一番で、それは変わらないのに、どうしてこんなことやってるんだろうって。そう思ってしまって。そう思ったことに気がついて、自分が嫌いになりました」
あの人、が誰なのか、固有名詞はいらなかった。
「見て欲しい、これだけ味方しているんだからもう少し優しくしてほしい。気がついたらそんなことばっかりでした」
「それの……どこが悪いんだい?」
亮子からみても、無関係の彼女の関わりようは普通でない。鳴海歩は、彼女に、一生かかっても返しきれない程度の借りは、あるはずだ。
「マズイ、このまま行けば今度こそ殺されるかも。逃げたい。そう思う気持ちの裏側には、あの人に好きになってもらいたいって気持ちがあったんです」
そんなの、当然じゃないか。
そう言おうとした舌を封じたのは、ひよののことば。
「愛に、見返りをもとめちゃってたんですよ、わたし」
与えるだけの、無償の愛なんて、男と女の間に成立するのかい?
愕然としている亮子に、ひよののからだの重みが加わった。
突然しがみつかれて、頭の中が白くなる。
「どうしてここまでしなきゃいけない、今度こそ死ぬかもしれない、あの人はこんなことを私がしても私を見てはくれないだろうに―――そう思った瞬間、気づいちゃったんです。見返りを、求めていたことに」
すがるひよのの腕に、力がこもる。
亮子には、その表情は見えない。ただ……関係者全員から「強い」とされている少女の、弱さに驚くばかりで。ほとんど関わりのない「強い」少女の弱さに遭遇するのが、どうして自分であったのだろうと、ふと思った。
「亮子さん、わたし、死にたくない。死ぬのが怖い。それでも死ななきゃいけないなら、あの人に好かれたい。好きだっていってほしい、私以外の人なんて見ないでほしい、抱きしめてほしい、好きだと言われたい、キスとかしてほしくて……っ」
だから、それが当然で。
好きになったら、相手に好きになってほしいと思うのはそれこそ当たり前で、その相手にいろいろいろいろ骨折りしていたら、期待するのが自然な流れだろう。
「そんな浅ましいこと思ってたって、知って……自分が大嫌いになりました」
おずおずと……亮子はひよのの背に手を伸ばした。
思いを込めて、撫で下ろす。何度も、何度も。
―――あんたはちっとも悪くないよ。
命が惜しいのは当然だし、好かれたいと思うのだって、「見返り」なんて浅ましいイメージのある言葉を使うことじゃない。人として、当たり前じゃないか。
そう言おうとして、またも出来なかった。
ひよのが、ぴょこん、と亮子の体から体を起こしたのだ。
「失礼しましたっ」
ウサギのように軽快な仕草と、童女のような笑顔には一分の隙もない。
心底あっけにとられているうちにひよのは足元の鞄を拾い上げる。
「じゃ、亮子さん、早朝の屋上は気持ちいいですけど、冷え込みますから。風邪など引かないうちにお早くお戻りくださいねっ」
「ちょっ……ちょっと!」
ひよのが屋上の扉のほうに向かおうとしたところでなんとか間に合った。
「あんた! もう、うちらのことに関わるのはやめな!」
ひよのがくるりと体を回して振り返った。
「どうしてです?」
「ど、どうしてって……鳴海歩はあんたに脈なしだし、つまり理由もないし、死ぬかもしれないし……」
ひよのはチッチと指を振る。
そして、亮子に言葉を失わせたほどの、とびっきりの笑顔。
「愛は、見返りを求めないものですよ?」
ぽかん、だった。
本当に、正真正銘心の底から唖然呆然愕然とした。
怯えていたくせに。つい一分前、死にたくないと震えていたのに。実際……あのカーニバルではもう少しで、死ぬところだったのに。
「鳴海さんが誰を好きでも、わたしのことを見てくれなくても、関係ありません。私が、鳴海さんを好きなんですから」
慰めの言葉も労わりも必要とせず、彼女は去っていく。
その背を見送り、数分たつうちに、亮子はムカムカしてきた。
相手はむろん、鳴海歩である。
当たり前の好意すら求めることを自分に禁じている少女の、その度外れた好意に当然のように甘えてるあの弟には腹がたって仕方がない。
「……こんど会ったら殴ってやる」
少なくとも、結崎ひよのには学生生活の間、鳴海歩をドレイのようにこき使うぐらいの権利はあるはずだ。
彼女がそういったことを要求しないのなら、せめても亮子が殴ってやろう。あの感謝の足りない弟にはそれぐらい当然だ。
冬の早朝、空気は確かに寒い。
一分ほどそうして立っていると、身を焼く苛立ちもすっかり冷えて、見えなくなった。
もう、どうしてあれほど怒りを感じたのかわからないほど心に残滓が残っていない。
亮子は病室に足を運んだ。
自分の、ではない。
香介のだ。
たどり着いたはいいが、亮子は何を言うでもなく、ずっと考えていた。
一切合切の報酬を切り捨て、自分を切り刻んで、なのに求めない。
愛情はそこまで清廉になれるものだろうか?
ひよのの苦しみはそうなりきれない故だけれども、彼女は少なくとも、その葛藤を誰かに見える形で外に出しはしなかった。無償で無辜に歩を助け続けている。亮子の眼には、むしろさっき見た、成りきれないことに苦しむ姿のほうが当然に見える。
一方、困惑したのは香介である。
朝早く亮子がいきなり訪ねてきたかと思うと、ずっと黙りこくって椅子にすわったまま一言も口をきかないのだ。
無言の圧迫に耐えかねて、香介は言葉を吐き出す。
「……どうしたんだよ?」
「しあわせかもしれない、って……思って」
自分自身というもっとも困難な敵との孤独な戦いをしているひよのと比べれば。
「はあ?」
「望みがないうえ、危険でしょうがないところに首つっこんで、人として当然の心の動きまで禁じてるあの子に比べたら、うちらは幸せかもって、そう思ってさ」
「はあ?」
手の中にあるのは、香介との想いと、血のつながり。
想い想われている自覚と、兄弟という十字架。
手の中になにも持たずに戦う彼女に比べれば、亮子はしあわせだ。
香介との絆は二本あって、一本はともかく、一本は生涯切れない。
嫌な血のつながりと思っていたけれども、まんざら悪くないかもしれないと、初めて思った。
そんな亮子は後日、複雑な思いでこの日を思い出すことになる。
関係者はみな、ひよのの強さという一面しか知らなかったが、亮子は知っていた。
死にたくないと、全身で怯えていた少女の感触を思い出すたび、亮子は泣きたいような気分になる。
それでも、唯一の慰めは、彼女は自分の道をまっとうしたのだということ。
誰がなんと言おうが、彼女はやりたいようにするだろうし、したのだ。
彼女は自分の生きたいように生き、そして死んだのだと思うことで、亮子は胸の痛みを和らげる。
世界に冬が始まりかけている日、一瞬の出会いだった。
亮子視点なので文中出すチャンスがなかったのでここでバクロしてしまいますが、ひよのの鞄のなかには入院中のブレードチルドレン全員の血液アンプルが入っていたりします(入手経路は言わずもがな。笑)。
医者から脅して奪って、不意に「なにやってんだろ」と気づいちゃったのですね。
→ BACK
- 関連記事
-
スポンサーサイト
Information
Comment:5