エロなし、ギャグなし、暗い短編です。
ジョカの傷のお話です。
夢を見る。
現実と夢の境目がわからなくなる。
これは現実だ。
夢じゃない。
夢に見た以上の現実であろうと、これが現実(ほんとう)なのだ。
けれど、
――けれど。
閉ざされた扉。
闇に包まれた部屋。
一つの窓もない永遠の闇の中、死んだように横たわり息をしていた自分。
「――誰か殺して!」
扉に手を叩きつけ叫んだ。
「誰でもいいから来て! 俺を見て! 話して!」
狂えれば楽だった。
自殺できれば楽だった。
老いることさえ許されず、いつ終わるとも知れなかった。
「誰か俺を殺してええええ!」
魔術師は自殺できない。
どれほど自分で自殺を試みようと、ぎりぎりのところで止まる。それまでに負った酷い怪我も、自動で治癒魔術を発現して癒してしまう。
「だれかっ! だれかっ! 誰でもいい世界のすべての富をやる! 誰か俺をここから出して! 出せないのなら殺して! お願いだから殺してくれえええ!」
時折訪ねてくる王族は不快そのものだった。
自分を虐待し、痛めつけ、便利な道具として苦痛をかえりみることなく扱った。
――でも、それですら、完全なる孤独と闇のなかに置き去りにされているよりましだった。
来れば苦痛が始まり、
かといって来なければ更なる苦痛。
だから、頻繁に来させようと働きかけることはしなかったけれど、殺害してルイジアナ王家を滅亡に追いやることもしなかった。
ジョカにとってルイジアナ王族とはそういう存在だった。
王族どもは誤解していたが、ジョカは彼らを殺そうと思えばすぐにできた。しなかっただけだ。
殺したところで、檻の中ひとり取り残されるだけ。
誰からも忘れられて。
それは、あの闇の中、未来永劫ひとりで残されることを意味する。
それぐらいなら、まだ生かしておいた方が良い、それだけで。
あの檻の中で、自分がどれほど暴れたのか、ジョカは憶えていない。
どんな下種であろうと、永劫の孤独よりはましだった。
人は、人がいるから人となるのだと、思った事を憶えている。
◆ ◆ ◆
「うあああああああああああああっ!」
髪を振り乱し、半狂乱になって叫び声を上げ続けるジョカを、リオンは顔を青ざめさせながら見ていた。
「助けて! 殺して! ころして! ころしてえええ! 耐えられない! かみさま、かみさまああ! 俺はいつまでここにいればいいんですか、お願いです殺して下さい! もういやだあああ!」
その目には何も見えていない。
ジョカの目には過去が映っている。
リオンは、完全に血の気が引いていた。凄絶な暴れ方に、恐怖すら感じた。
幾度か声をかけたが、届いている様子はない。
彼の心は完全に過去へと舞い戻り、その苦しみを追体験していた。
「ここから出して! 出して! お願いだ、誰か俺の言葉を聞いて! 俺を見て! 声を聞いて! 話して! いつまでつづくんですか、いつになったら俺はあああっ!」
壁を殴り始めたところでリオンはやっと硬直していた体を動かすことができた。
「ジョカ!」
飛びついて制止する。
素手で岩壁を殴ればただでは済まない。
しかし、狂乱状態のジョカの力は凄まじく、あっけなく弾き飛ばされた。
その事にではなく、「ジョカがリオンに暴力をふるった」ということにしばしリオンは茫然としてしまったが、すぐに活を入れた。
――いま、ジョカは普通の状態じゃない。
過去に囚われ、その苦しみを味わっている。
岩壁の凹凸で皮が破れ、叩きつける拳は血に染まった。これは骨まで来ている傷だ。でも、ジョカは痛みを感じている様子もない。
「ジョカ!」
――聞こえていない。
リオンは声かけは無駄と判断すると、急いで桶に凍るような冷水を汲んできて、ぶちまけた。
通常人なら水をぶちまけられた後の床やベッドの後始末を考えて躊躇するところだが、王族のリオンにはそんな発想は元からない。
身も凍る冷水を頭から浴びせ、追加で往復平手打ちした。さすがにジョカの動きがとまる。
「目を覚ませ! ここは現実だ!」
リオンはジョカの肩に手をかけ、揺する。
ここまで酷いのは初めてだが、ジョカがうなされることはよくあった。
「これは夢じゃない! 現実だ! あなたは解放されたんだ!」
目の焦点が合う。
「……り、お、ん……?」
「そうだ、私だ。……わかるか? あなたは、もう解放されたんだ」
「――リオン……」
目の焦点があい、正気に返ったかとほっとしたのも束の間、またジョカは声を上げた。
「あ、ああああああっ!」
水でぐしゃぐしゃになった寝台の上で、ジョカは両手で頭を抱えてうずくまった。
「あああっ! あああっ! ああ――っ!」
頭を抱え、ジョカは叫び続ける。
肺の中の空気すべてを叫び声に変えようというように。
永遠につづくかとも思えた絶叫が終わると伸ばしたリオンの手を振り払い、ジョカは寝台から下りた。
「ぐ……っ」
しかしそこで糸がきれた。
喉元を押さえると、ジョカは寝台から下りたその場で嘔吐した。
床に吐瀉物が広がり、思わずリオンは反射的に身を退いてしまう。
酸っぱい匂いが広がる。そして、自分に嫌悪した。――「汚い」と思ってしまった己に。
ジョカは口元をこぶしでぬぐうと、枯れた声で謝った。
「ごめ……、あとで、ちゃんと、綺麗にするから……」
よろめく足で浴室へと行き――そして、嘔吐する音が聞こえてきた。
「ジョカ……」
手をつき、彼は幾度も幾度もえずく。その顔には透明な筋が幾筋も刻まれていた。
「ジョカ……」
掛ける言葉が、見つからない。
嘔吐はおさまらず、胃の中のものを全て吐き出し、苦しげに胃液をえずく。
体を支えるために壁についた右手は赤く滲んでいる。体重がかかって強く曲げられた指が、乾いて黒ずみつつある血液を下地に皮膚の皺を浮かび上がらせていた。
嘔吐の波が間隔をあけるようになり、やっと収まるかと思った矢先、今度は両手で頭を抱えて奇声を上げた。
「ああ……、あああ……っ。あああああ!」
うずくまり、神に許しを乞うかのように頭を床になすりつける。
強く負荷のかけられた指先から新たな血が噴き出し、どす黒く染まった手に鮮血の筋を作った。
その一切に気づかぬ様子で、ジョカは叫び続ける。
「うああああああっ!」
「ジョカ! だめだ、ジョカ!」
見た瞬間ぞっとする。
あの指。あの十指。爪が剥がれかけているものも多く、一本は完全に折れている。ひびが入っているのも多いはずだ。
「ああああああああああああああ!」
いつ終わるともしれない絶叫は、肺の最後の一呼吸まで振り絞って、終わった。
「ああ――ああ――……あ、あ……」
うずくまって絶叫していた男は息を吐き切ると、全身に込めていた力を弛緩させた。ぎゅっと目を閉じ……そして、しばらく、そのままでいた。
「ジョカ……」
狂乱を見ていることしかできなかった少年はそこでやっと声をかける。
予想外に、返事が返ってきた。
「あり……がとう」
「え?」
何もできなかった自覚がある。
「おれを……あそこから出してくれて……ありがとう……」
ゆっくりと、ジョカは顔を上げる。
そしてリオンを視界にとらえるなり表情を急変させた。
「それっ! 俺がやったのか!?」
リオンもそれで気がついたが、手や顔の柔らかい皮膚に小さな傷が幾つかついていた。痛みを感じている状況ではなかったので気がつかなかったが。
ジョカが触れようとしたのをさっと身を引いてかわす。
「ジョカ。まず、自分の手を見てくれ」
「あ……ああ」
リオンの小さな擦過傷には血相を変えたくせに、ジョカは自分の手の無惨な状態を見ても驚くそぶりもなく、傷を癒す。
「顔もだ。あと腕も足も全身」
岩肌に、皮膚を押しつけただけで柔らかい人間の肌は傷つくのだ。
ジョカは全身傷だらけだった。
ジョカは自分の傷を治し、体のあちこちに付着した汚物を落としてさっぱりさせ、家も魔法で綺麗にした。
「これでいいか? さあ傷を見せてくれ」
血もほとんど出ていないかすり傷だが、意識すればそれなりにじくじく痛い。
有難く治してもらったあと、ふと思った。
――あっという間に傷を治せてしまうから、彼は自分を傷つけることに躊躇しない。
いや、幽閉される以前は躊躇していたかもしれないけれど、今はしない。
……できないのだ。
「……リオン?」
けげんな声。
リオンはジョカを抱きしめていた。ふんわりと、包み込むように。
このぬくもりと、体温が、彼の心に届けばいいと思いながら。
「……これが……今が、現実なんだ。わかるな?」
少しの沈黙の後、しっかりした声が返ってきた。
「――ああ。今が、現実だ。俺はもう、あの闇から解放された」
「あなたは、もう、あんな風に自分を傷つけて試す必要なんて、ないんだ……っ」
「……うん、そうだな」
魔術師は自殺できない。
魔術師の、無数の制約のひとつ。
あの牢獄に、ジョカが幽閉されつづけることになった理由の一つだ。
でも、どんなものにも穴はある。
少なくとも、やってみないで諦めるという手はない。ジョカの立場なら、試したはずだ。
ありとあらゆる方法で、自分が死ぬ方法を。
どれだけ傷つけて、どんなふうに自分を痛めつけて、どういう風にすれば、制約の隙間を抜けて自死を達成できるのか、試行錯誤を繰り返したはずだ。
即死を狙って高いところから、首の骨を折るように飛び下りたこともあっただろう。
意識を失い、失っている最中に水に沈んで溺死しないかとやってみたこともあっただろう。
人を唆し、殺してくれと頼んだこともあっただろう。
訪ねてくる王族を挑発して怒らせ、殺させようとしたとは、ジョカの口から聞いたことがある。……さすがに、何でも片づけてくれる便利な道具である魔法使いを殺すほど、そこまで馬鹿な王族はいなかったようだが。
リオンはいつの間にか泣いていた。抱きしめているからジョカからは見えないだろうけれど。
……ジョカは、よくうなされるけれど、起きている最中は理性的で冷静だから、忘れていた。
彼の傷が、どれほど深いものかを。
ジョカはリオンの背をぽんぽんと叩いた。
「……ごめんな。これから、こんなことは良く起こると思う。やっと、俺も、この暮らしに馴染んできたから……揺り返しはそういう時にこそ起こりやすいんだ」
「……そうなったらどうすればいい? いきなり氷水かけた上、乱暴して、すまなかった」
リオンは謝ったが、ジョカは怒らなかった。
「いや、あの状況では最良の対処だったんじゃないか? あれで現実認識して返ってこれたし……。吐いたけど」
「あれでよかったのか?」
「ああ。パニックは強い衝撃で上書きするか、落ち着くまで待つか。あのまま俺を放置していたら延々我に変えるまで過去の夢の中にいたわけで、冗談じゃない」
ジョカは珍しく感情をあらわに、顔を思いきりしかめて言う。
そうなると、どんな夢を見ていたのか気になってしまうのだが――。
「その……いや、いい」
聞こうとして、やめた。怖くなったのだ。
ジョカはくすりとすると、口を開いた。
「闇の中、扉がある。俺はその扉を乱打し、誰か聞いてくれる人間がいないかと助けを求めて声を上げる。もしかしたら、万に一つ、俺の声を聞きつけて誰かが来てくれるかもしれないという虚しい希望を捨てられず。扉越しで良い、同情心で良い、ほどこしで充分だ。誰かが俺の存在を認め、言葉を交わしてくれるのなら、それで。――まあ居るはずないけどな。そういう夢だよ」
魔法で人が遠ざけられていたあの部屋に近づく第三者など、いるはずもなかった。
「……三百年以上続いた『現実』だったけど、今はもう……夢になったんだ」
背に、ジョカの腕が回る。しっかりと抱き返された耳に、声が聞こえた。
「――夢にしてくれて、ありがとう」
※本作のフラッシュバックの対処法は、いろいろ間違っているので、絶対に真似しないでください。
ジョカはリオンのおかげで救われましたが、それですぐ傷が治るはずもなく……、フラッシュバックに襲われながら、少しずつ心の傷を癒していきます。
傷は薄くなっても一生こころから消えることはありませんが、リオンがいるのでジョカは大丈夫です。大事なことなんでもう一回言います。
リオンがいるからジョカは大丈夫です。
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