さらさらさら。
さらさらさらり。
――リオンは、ジョカが墨を手に文字を紙に書きつけるのを、じっと見つめていた。
彼が手にしているのは「筆」だ。東方からもたらされた文化の一つで、一般的に使われている羽根ペンと比べると短所も長所もあり、好む人間もいればその逆もいる。
ジョカは、前者だったようだ。
リオンは筆を使う人間を間近で見たことはなかったが……、確かに、ジョカの姿を見ていると、ペンよりインク壺に浸す回数が少ないのは大きな長所だと思う。
また、羽根ペンがどうしても均一な太さになってしまう点などは、短所でもあり長所でもあるだろう。
細い字でずっと書きたいときもあれば、ところどころ太い文字で書きたいときもある。
筆は細くも太くもできるが、逆にずっと一定の太さの文字を書き続けるのは、難しい。が、ここぞというところで思いのままに太字を書ける。
筆の構造は単純で、馬の毛を束ねたものだ。それを墨につける。
筆と墨で書き物をするにあたって、ジョカは注意を喚起した。
「墨はすんごい落ちづらいぞ。魔法で洗浄しないかぎり、家具についたら最後だと思え。拭っても完全には落ちん。扱いには気をつけろ」
という、実に有難い言葉だった。
「……使いにくくないのか? その……飛沫がちょっと飛んだだけで駄目なんだろう?」
「慣れないと使いにくいな。でも慣れると楽だぞ。それに――やっぱり、こういうのは雰囲気だからな」
「……そんなものか?」
「漢字を書く時は墨と筆がいい。……ま、単なる趣味だけどな」
と雑談している内に、終わったようだ。
ことり。
ジョカが筆を置いた。危険物の墨が筆先にたっぷりついているので、置いた場所はもちろん墨入れ(すずり)だ。
「よし、できた」
「……これは、なんというか、その……」
「難しいだろう、面倒だろう。字がごちゃごちゃしているだろう。これが、『漢字』だ!」
リオンはジョカが書いた漢字表を見た。
どんな言語でも、対語表があったほうが習得は早い。
東方の言語を憶えたかったリオンは、簡単な日常会話程度でいいので対語表を書いてくれないかとジョカに頼んだのだ。
しかし、自国の文字ばかり見てきた(近隣諸国の文字も、似たような形である)リオンにとって、漢字のカクカクとした複雑な形はちょっとした衝撃だった。
「……読めない……」
「下に翻訳書いてあるだろう?」
上の段に漢字で「こんにちは」。下の段にこちらの言語で同じく「こんにちは」という形式で対語表は書かれている。
「これは本当に文字なのか? 飾りにしか、見えないんだが……」
「あー……、そういうの逆にかえって新鮮かも。そっか、お前にはそう見えるのか」
ジョカは、何故か感心したように頷きながら言う。
「こういうまっさらな感想って、初体験の人間からしか出てこないよなあ……。そうだよな、違いすぎるものな」
「というか、そうとしか見えないぞ」
「東方の人間も、こっちの文字を見た時に似たように思っただろうなあ……」
と、ジョカが言った言葉に、リオンは深く考えこんだ。
相手の文化を想像し、その立場になって考える。
この『漢字』が文字で、その文字だけの文化のなかから、こちらに来たら。
リオンが今思ったような「飾りみたいなヘンテコな文字」に見えるんだろうか? こちらの文字が?
リオンは苦渋の表情で、慣れ親しんだ自国の文字を見つめた。
……これが、ヘンテコ文字に見える、のか? 向こうの人間には。
――これが?
リオンが自分の認識と異文化の認識のすり合わせを四苦八苦しながらしているのを、ジョカは微笑ましい思いで見ていた。
頭ではわかっていても、自分にとって水のように馴染んでいるものが他人にとっては奇奇怪怪なものだ、というのは中々芯から納得しがたいものであるのだ。
「でも、何でこんなの憶えたいんだ?」
「この間、あなたが図書館に連れて行ってくれただろう?」
「ああ……」
「少ない数だけど、その中に本……竹に文字を書いて束ねたやつがあってな」
「ああ竹簡(ちくかん)な」
「全然読めなくて悔しかったから、ちょっと勉強しようかと思ったんだが……難しいな」
「漢字の覚え方ねえ……、こっちにはそもそも表意文字自体がないしな。どう教えればいいか……」
「表意文字って、なんだ?」
「コレ。漢字のことだ。この漢字一つ一つに、意味があるんだよ。だから読み方がわからなくても、漢字の意味がわかれば類推できたりする……けど、そこまではまだいいから、とりあえずお前は基本単語を憶えた方がいい」
リオンは紙に目を落とし、再び眉間に皺をよせた。
「漢字って、カクカクしていて複雑で憶えにくいな……」
「あー……まあな。遥かに複雑な形状だもんな。とりあえず俺が言えるのは」
「言えるのは?」
「――それが東方の文字なんだ。あきらめろ」
「…………それもそうだな。わかった」
ため息をついたリオンだった。
「……なあジョカ」
「なんだ?」
「今更な疑問なんだが、あなたは何で東方の言語を知っている? そっちの出身なのか?」
「うんにゃ。魔術師だから」
「……便利な言葉だな」
「事実だからな」
なんて便利な言葉だろうか。
リオンは頭痛を堪えつつ痛感した。文字通り。
何でもかんでも魔術師だから、で済むのはどういうことだ。
リオンはとりあえず、ジョカが手ずから作ってくれた基本単語の対語表と睨めっこをすることにした。
大抵のものは見れば記憶できるリオンなのだが、漢字は飾りにしか見えないので、憶えるのに苦労する。意味のある文章ならば長くても憶えられるが、無意味な文字の羅列は憶えにくいのと同じことだ。
自然と指が動き、漢字を空中で描く。画数が多い複雑な構造の文字なので、ただ真似するだけでも一苦労だ。
手を空中に踊らせていると、不意に声がかかった。
「……そういえば、お前の好みの女ってどういうの?」
さりげなさを装いつつも、その実、ジョカが細心の注意を払いながら尋ねたことは判った。
「なんだ、気にしていたのか」
悪いことをしたと思わないでもない。
先日、リオンは一人の女性と仲良く(?)なった。そのことをジョカはジョカなりに気にしているらしい。
「女の好み……ね」
リオンは少し考えた。――この場合の「考える」というのは、「なるべく穏便な言葉にする」と同意義であったりする。
「金髪の美女。体つきは豊満な方が望ましく、貞淑であることは当然として、財政が傾くほどの派手な乱費をしない程度のわきまえがあれば、ある程度は贅沢を許すとして、血筋は当然王女以上……」
「――おいおいおいおい!」
「何か問題が?」
「お前が言うのは王妃にする女の適性だろ? そういうのが聞きたいんじゃなくて、こう、自然に湧き出る好ましいタイプというか」
「ああ……そういうのなら金髪で美女で肉付きがいい女がいいな。過度の肥満体は論外だが、細いよりかは豊満な方が好みだ」
「……男として同意できる好みなんだけど、こう……っ、こう……っ! 俺が聞きたいこととずれている感がするのは何故なんだろう……」
「あなたの好みは判りやすいな。あなたの性格と嗜好からして……、男に頼らず自立している女性というところか?」
「う」
「芯のある女性と言えばいいか。外見的な好みは面食いだな。私の顔が好き、と以前散々言ってくれたことからして、白い肌の金髪女性か」
「ごめんなさいすみませんもう言わないので許してください」
そこでジョカは無条件降伏したので、やめる。
そして、リオンは語調を改めた。真面目に諭す。
「私は男だからな。女性なら余程好みに合わない相手でなければ、体を合わせることはできる。でも、男でそういう行為をしたいと思うのは、あなたしかいないぞ」
「……うん。それは、わかっているんだけどな」
声はどこか重かった。
この間、町で大っぴらに恋人同士のデートをしたとき、ジョカはわざわざ女性化する薬まで作った。そうでないと、衆目の中で寄りそうことができなかったからだ。
男女間の関係であるのなら、隠す必要もない。堂々と、誰はばかることなくいられる。
けれど、同性間の関係は非難と無縁ではいられない。
眉がひそめられ、後ろ指をさされてこそこそと陰口を叩かれる、本質的に正道の元を歩けない後ろ暗い性質のものなのだった。
同性での関係は、子を作り育むという人としての本能に相反する行為だ。
そして、ジョカにはどうやらリオンをそういう表沙汰にできない関係に引きずり込んでしまった負い目があるらしい。
馬鹿だなあ、と、リオンは古今の叡智もつ賢者を眺める。
リオンは、ジョカとこういう関係にあることを後悔も嫌がってもいないのだ。
選べる道筋は無数にあるけれど、選んだ道は常にひとつだ。
別の道を辿っていたらと思うのは誰もが思う事だけれど、魔術師でさえ時間を巻き戻すことはできない。一度選んだ選択のやり直しは、誰にもできない。
――選んだ道の現状を胸を張ってそれでいいと思えるのなら、その道は、それで、正解なのだ。
→ BACK→ NEXT
- 関連記事
-
スポンサーサイト
Information
Comment:0