ジョカは、リオンの目の前であっという間に湯船いっぱいに湯を張った。
その姿にリオンはジョカが不思議の力を持つ人であることを思い出す。
過負荷で動きを止めた脳も、しばらくひとりになって湯に浸かっていると、動き出した。
ゆっくりと誰にも邪魔されることなく湯船につかり、体を清めた。
情けなさに泣きたくなりながら、後孔に指を入れて掻き出しもした。
――自分とジョカが、そういう関係であったのはほぼ確実だが……。
動かぬ証拠を見てしまった以上、それについては否定しようがない。
だが。
やはりどうも騙されているような釈然としない感触があるのは、リオンがジョカの『九か月の記憶を無くしている』という荒唐無稽な言葉を信じ切れていないためだろう。
確かに姿かたちは変わっていたが、他人ならともかくジョカだ。
それぐらいなら簡単に偽装できそうではないか。
いきなり、自分の記憶が九ヶ月分も消えた、と考えるより、ジョカが何らかの欺瞞をしてそう思いこませようとしているという方が、あり得る。
その場合のメリットも、想像がつく。リオンと恋人関係にあると錯覚させられる。
つまるところ、ジョカの言葉を丸呑みにして信じるほど、リオンは彼を信じていないのだ。
大体、自分を憎んでいる(過去形かもしれないが)人間の言う事を素直に信じる人間はどうかしている。
ジョカの言葉の正否を知るには、リオンの時間の流れと、他人の時間の整合性を知るしかない。
リオンが長風呂をしてあがると、籠の中に服が入っていた。
リオンにとって普通の服――つまり、庶民の生活費の一年分は賄えそうな、絹でできた上等な一揃いである。
それに着替え、戻ると、食卓に座ってジョカが待っていた。
「あの、ジョカ」
「聞きたい事に想像はつくけど、まずは食事にしろ」
「食事? どこに……」
と言いかけ、リオンは口を閉ざす。
食卓いっぱいに、豪華な食事が現れたためだ。
驚いたがすぐに納得したのは、同様の現象を何度も見ていたからだ。あれはお茶菓子だったが。
「……これは、私が食べても?」
「もちろん」
「……ありがたくご相伴にあずからせていただく」
ジョカは何を思ったのか、喉の奥でくっくと笑う。
「お前、俺に対してさんざ変わった変わったって言ってたけど、お前だって相当俺への態度が変わったよなあ」
「え……?」
問い返そうとしたが、ジョカは手を振って終わりにした。
「食べ終わったあと、お前が聞きたい事全部答えてやるから、まずは食べろ」
それからは二人で並べられた料理を胃袋に詰め込むことに熱中した。
お茶菓子の時も思ったが――王宮で食べていた料理より、ずっと美味だ。
料理人の腕でも、素材の違いでもない。
できてすぐに食べるか冷めてから食べるかの違いだった。
「できたては美味しいな」
何故か、ジョカは喉の奥で笑う。
「前のお前も、よくそう言った」
……前の自分も、自分なのだ。
ということは、ジョカとそういう関係になったのも……、それ以上考えたくはなかったので、リオンは考えるのをやめた。
給仕のいない食事だったが、給仕をこの状況で求めるほど状況が理解できていないわけでもない。リオンは美味な食事をぺろりと胃袋におさめ、食後の紅茶を飲んでから、尋ねた。
「――王宮に戻りたいのだが、戻してくれるのか?」
「もちろん、いつでも」
予想外の反応に、リオンは眉をひそめる。てっきり拒否するかと思っていた。
「ただ、忠告するのなら、外の状況がよろしくない。現在の状況を理解してからにすべきだな」
「何があった?」
そこで、ジョカは口を開いて一拍間を開け、首を傾げた。
「教えるその前に聞いてみたい。何が、あったと思う?」
「その推測をするには、情報が足りない。あなたは……何者だ? 以前聞いたときは教えてくれなかったが、今の私は十六を過ぎているのだろう? 黙っている理由はもうないはずだ。教えてほしい」
「魔術師だよ」
リオンは一瞬呼吸を止め、そしてそっと吐き出す。
「……あなたは、ルイジアナ王国に幽閉されていた。虜囚の身だった。この推測に、違いはないか?」
「ご名答」
「……そして、私は、あなたを解放した。なら……」
リオンは口元に手を当て、しばし問うていいものかどうか、迷う。
その躊躇いを振り切り、尋ねた。
「……何か、なかったのか?」
リオンは目を見張る。
ジョカが、笑ったのだ。
「ああ、やっぱり。気が付いていたんだなお前は」
「な、何を?」
「解放された俺が、何をまずするのか」
「……」
リオンは頬の内側の肉を噛んで、まっすぐにジョカを見つめた。
――解放されたジョカは、何を、したのだろうか。
気迫の籠もる眼差しを、ジョカは微笑んで受け流し、言う。
「安心するといい。俺は、ルイジアナには何もしていない。何なら町に連れて行ってやろうか?」
ジョカの方からそれを言いだした事に驚きながらも、リオンは頼んだ。
「頼む。……ここは、どこなんだ?」
「ルイジアナの王宮から東に5千テーベぐらい行ったところにある山の断崖絶壁に掘った穴」
「クルビナ山か」
「……あー、記憶失っててもお前はお前だわ」
何故か、ジョカは頬杖をついて楽しそうに笑った。
それに困惑しつつ、リオンはたずねる。
「私は……どういう経緯であなたとそういう関係になったんだ?」
そこがどうしても引っかかっている。
リオンにとって、ジョカは確かに気の置けない友人ではあったが、友人以外に思った瞬間なんて一度たりともなかった。
そして、ジョカの方からも……そういう気配を感じたことはなかった。
男色家の目線は、腐臭がする。向ける側は無自覚だが、向けられる側は敏感にそれを感じ取る。
美貌の王子として有名だったリオンは、色めいた視線を送ってくる彼らが大嫌いだったものだ。
しかしその手の気配を、ジョカから感じたことはないのだ。あれだけ長い付き合いだったにもかかわらず。
この頃のリオンにとってそういう嗜好の人間は、すべからく、「薄汚い男色家」以外の何者でもなかった。
後日、ジョカとそういう関係になってからは流石に考えを改めているが、それ以前は同性である自分にそういう粘ついた視線を送ってくる人間に理性よりも感情的な嫌悪感がまさって、嫌悪しか抱けなかったのである。
……なのに、どうやら自分はジョカとそういう関係にあったらしいことは、今のリオンにとってかなりのショックだった。
「経緯と言われても……、うーむ、どういえばいいんだかなー」
「どっちが先に好きになったんだ?」
「それは俺かな」
「告白とかしたのか?」
純真な言葉に、ジョカは吹き出した。
いや、間違ってはいない。恋愛の基本は告白から。その姿勢は間違っていないのだが。
ジョカは笑いつづける口元を手で覆いながら答えた。
「くっくっ……、『ぼくとつきあってください』とか? まあ、そういうのはなかったなあ」
その笑い声に、リオンはひどく居心地の悪い思いをする。
なんせ記憶がないので、何故笑われているかも判らないのだ。
「私が……あなたを、その、そういう風に見れるとはちょっと思いにくいんだが」
「そうだよなあ。その点は俺も似たり寄ったりだから、よくわかる」
「なのに、それから一年後には恋人になっているのか? おかしくないか?」
ジョカはまた吹き出した。
今度は声を立てず、無言でテーブルをばしばし叩いて痙攣している。
「……少なからず、不愉快なんだが。何でさっきから笑っているんだ」
「いやだって。当事者から真顔でその時の状況を尋ねられると、無性におかしくて」
「そんな笑えるような状況だったとか?」
「いや逆。もう逆。真逆。お前が俺をオトさなかったらルイジアナ滅亡の瀬戸際」
予想していた中で、一番悪い……が、一番確率の高い内容に、リオンは頭痛がした。
「あなたの怒りを治めるために、人身御供になったわけか? わたしは」
「おーさすが。やっぱお前賢いわ。よくまあこれだけの情報でそこまで正解に近い答え出せるなー」
正解を告げられて、リオンは現実の苦さに口を歪めた。
――ジョカを解放し、ジョカが復讐しようとして、身を投げ出すことで止めたわけか。私は。
あり得る。今、自分が同じ状況になったらその選択をするだろう。他の答えはない。
さすがに自分の我が儘によって自国が滅亡の淵に瀕している時に、己の貞操がどうのこうのと言う気はない。
「……それで、私は、あなたと恋人になったわけか……」
その事については、くだくだ言うつもりはない。
同じ状況でその道を取らなければ、そちらの方がどうかしている。
「そうだ。……リオン。立ってくれ」
立ち上がると、ジョカは片膝を立てる姿勢で跪いた。
「……っ!」
「尊敬と愛情の証として、我が真名をあなたに明かそう。リオン・ラ・ファン・ルイジアナ。我が名はエルウィントゥーレ。我が名をあなたに預ける」
驚いていると、跪いたままのジョカが顔を上げ、リオンを見上げた。
「この言葉を言う事に、何の躊躇いもない。――リオン。あなたを愛している」
淀む様子も、恥じる様子もなく。
その言葉は、まるで水が高所から低所に落ちるように自然にジョカの唇から紡がれた。
リオンを見上げる黒い瞳には、どこまでも純粋な愛情が宿っている。
「リオン。俺は、お前を、愛している。どれほどの時が過ぎようと、どんなことがあろうと、この思いは変わらないだろう」
「……ちょっとまて。ちょっと待ってくれ。私は……記憶がない。あなたと愛しあった記憶がない。いわば、別人だぞ?」
心からの、今まで聞いたことのないほど情熱的な愛の言葉をよりによってジョカから告げられ、リオンは混乱の極みだった。
あの毒舌皮肉屋、リオンを根深く憎み、その悪意が折りにつけ伝わってきた、ジョカがだ。
「記憶がなくても、お前はお前だ。お前がお前であるかぎり、俺は愛せる。記憶を無くそうと、姿形が見る影もなく醜く変わろうと、愛することに何ら迷いはない。そう誓えるほどに、お前は俺に、たくさんの贈り物をくれた」
リオンは跪くジョカを見下ろし、ぽつんと。
「憶えていないんだ……私は」
「構わない。思い出す必要さえない。望みがあればなんなりと俺に言え。制約に違反するものでないかぎり、お前の力になろう」
リオンはしばらく考え、やがて口を開いた。
「ジョカ。……真名ってなんだ?」
まずは、そこからだった。
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