目が覚めると、隣のリオンが起きていて、ジョカを見ていることに気づく。
その時に思い出したが、ジョカはリオンの剣を持ってきていた。自分を解放するために部屋を訪れたとき、リオンは帯剣していて、そのままここに連れて来た。即座に服を剥ぎ取り剣も一緒に床に放り出して、性行為にふけったものだから床にそのままだ。
ジョカも、眠っているときはただの人間だ。
寝首を掻かれる可能性もある、というより、普通に考えれば非常に高いのだが――、リオンの人柄を知っている者からすれば、あまりにありえない可能性だった。
ジョカは自分を見つめるリオンに声をかけた。
「何をしている?」
「あ……、寝顔を見ていた」
「王子の寝顔なら鑑賞に堪えるが、俺のなんて楽しいか?」
リオンは首をかしげ、気負いなく平易に答える。
「そんなことはないと思うが。見ていて楽しかった」
どう考えても、無体を強いられている被害者と加害者の会話じゃないな、と思いながら起き上がる。
寝台から下りて、昨日からそのままになっている衣服を拾い集め、剣を取り上げた。やはり、思った通りにそのままだった。
「王子」
リオンにその剣を差し出す。実戦用というより、装飾用の側面が強い、細身の剣だ。
リオンはその小さな顔を傾げる。
「……? これをどうしろと?」
その反応に気が抜けるのを感じながら、再度差し出す。
「俺の寝首を掻きたくなったら、使うといい」
拒絶するかと思いきや、リオンは素直に受け取る。そして、すたすたと入口のほうに歩くと、大きく振りかぶって、投げた。
この隠れ家は、雪山の岩肌をうがったところにある。入口からは、あまりの高さに引き込まれるような落下感にとらわれる峡谷を望める。
そこに放り投げたということは、回収は、不可能だろう。ジョカ以外。
そして、完璧なロイヤルスマイルで振り返り、リオンは言ってのけた。
「これで問題ないな」
「……」
リオンの性格からして使うはずがないとは思っていたが……。
ジョカは呆れたような息をもらして、腕をとり引き寄せ、口づけた。
リオンは大人しく眼を閉じ、受けている。その長い睫毛と優美なラインを描く頬にも、唇を押しあてた。
精緻な造形物の様に整った面は、リオンが目を開けた瞬間に、造形物ではありえない美をたたえる。
強い意志をたたえる、蒼穹の空を切り取ったかのような瞳。
義侠心で、ジョカを解放しようとする人間はいるだろう。
だが、その後のジョカの怒りも予想して、それなのに解放を決意できる者は、皆無に近い。
ジョカの復讐に燃える心を受け止める覚悟と、最初の一人になる、決意。
―――まったく、人という輩は、愚かで打算的でどうしようもなく欲深だというのに、ときどき、本当にジョカを驚かせる。
「どうして……」
「え?」
「どうして、王子は、俺を助けた?」
沈黙は、長かった。
拒絶する沈黙ではなく、自分の心と向きあい、言葉を探す沈黙。
それがわかったから、ジョカは急かさずじっと待つ。
「……貴方の事に気づいてから、一年以上、私は悩み続けた。事情を知れば、あなたの私への棘たっぷりな態度にも理解ができた。ああそういうことだったんだ……と。そこまではいいが、問題はその次だ。今まではいい、知らなかったから。でも私は知ってしまった。十五になれば、この予測が正しいかどうかもわかる。では、それで、正しかったらどうするのか」
リオンは、滑らかな白磁の頬に、醒めた自嘲の笑みを浮かべた。
「私があなたを幽閉したわけじゃない、私は悪くない……そう思おうとしても、別の自分がこう言う。知って何もしなかったなら同罪だと。同じことだと。そしてまた、別の自分がこう言う。別にいいじゃないかと。歴代の王と同じことを同じようにすればいい。罪の大きさは、歴代の王と変わらない、と」
「まあ、普通はそう考えるな」
「ところが、別の自分がちくちくちくちく言うんだ。お前はそれで耐えられるのかと。ジョカは私を見下げて、徹底的に侮蔑するだろう。そしてお前はそれに反論できない。どんな罵倒も侮辱も、甘んじて受け入れるしかない。それにお前は耐えられるのかと」
ジョカは、雷光の様な笑みをひらめかせた。
そう。
かつてジョカは、それこそがリオンを傷つける決定打だろうと思っていた。
ジョカがリオンをさんざん責め苛めば、リオンはジョカに軽蔑と憎悪を抱くだろう。憎むべき加害者に、当然の感情を向けるだろう。
だが、それは真実を知った瞬間逆転する。
『被害者』であったリオンが『加害者』であり、リオンが受けた数々の仕打ちは、『当然の報い』であるという事実。
ジョカを憎めば憎むほど、軽蔑すればするほど、善悪が逆転したその瞬間、リオンは傷つく。
ただ憎み、見下げた奴だと軽蔑すればよかったことが、くるりとすべてリオン自身に向かうのだ。
どれほど憎まれても仕方がない仕打ちを、ジョカにしているのだから。
ジョカを黙認するという道は、リオンが卑怯者に成り下がるということだ。
―――誇りは、自分で捨てる時が一番傷つく。他人の与える傷など、物の数に入らない。
「悩んだし、呪ったな。どうしてこんなに悩まなければならないのかと。そうこうするうちに気づいた。ジョカを助けることが、唯一この苦しみから逃れられる道で、それ以外は一生この苦しみは付いて回ると」
「まあ、そうだろうな」
リオンの性格からして、他の王のようにできるだけ思い出すまいとして解決、というのは難しかろう。第一、他の王とて、ふと思い出してしまった瞬間に嫌になるほど苦しんでいたのだし。
リオンは深々とため息をついた。
「わかっている。これは私の私情だ。だが、私は、この世の誰に軽蔑されても、あなたには、軽蔑されるのが耐えられなかった。私はあなたに心を許していて、何でも腹蔵なく言いあえて、その関係が、とても心地よかった。信頼、していた。だから、あなたを解き放つことを決意した。もっとも、その時はまだはっきりと事情を知らなかったから、父から明かされて、それが自分の思っている通りだったら、という条件付きだったけれど」
「……俺が祖国を滅ぼすかもと思わなかったのか?」
「思った。でも……」
アイスブルーの瞳が、ジョカを見つめる。その瞳に魅了されている事を、ジョカは渋々ながらも認めざるをえない。
「私は、賭けた。私が、あなたを幽閉しつづけることを
肯んじることができなかったように、あなたもまた、私に、情を移している事に」
―――復讐するならまず私を!
ジョカは目を細める。……王子は、愚かだ。
そう、ジョカがリオンに情を移しているのは、認めよう。事実だ。
だが、今は多少落ち付いているが、ジョカの中の憎悪は、この先決して消えることなどないものだ。解放直後のあの堰を切った奔流のような憎悪が、前後の見境を無くしてリオンを引き裂く可能性は、少なくなかった。
長年、貯め込まれ、鬱屈した憎悪は、それほど深い。
ジョカは手を上げ、リオンを引き寄せる。リオンは、抵抗しなかった。
寝台にリオンを押し倒し、下穿きを剥ぎ取って放り、唾で濡らした指を入れる。
指をぐるりとかき回して、内壁を探る。
ある場所を刺激した時、むずがゆいような顔で耐えていたリオンが、声を上げた。
「ああっ!」
「気持ちいいのか?」
「き、気持ちよくは……」
「そうか?」
同じ個所を刺激してやると、リオンは唇を強くかみしめる。眉はきつくしかめられ、頬は紅潮し、どう見ても快感に耐えている表情だった。
その煽情的な姿を視姦しながら、ジョカは言う。
「別におかしなことじゃないぞ。男でも、ここはいい」
「そう、なのか?」
自分がおかしいのではないと知り、リオンがほっとしたように愁眉をとく。
「ああ。恥ずかしがることはない」
リオンの欲望は目の前で、隠す何もない。
くちゅくちゅと、淫らな音が響く。
指を増やし、さまざまな場所を探り、指を曲げて内部を押し広げるたび、それは勃ち上がっていく。
リオンはこみあげる快感を否定するように何度も首を振った。金糸の髪が散る。
ジョカは指の動きを早め、リオンが後ろの性感だけで昇りつめる様を見て楽しんだ。
ぐったりと、リオンの体がら力が抜ける。
頃合いと見て指を引き抜き、足を抱えあげ、リオンの乱れる姿にすでに硬くなっている性器をあてがった。
「声を殺すことはない。我慢することなく声を上げれば、もっと悦くなる」
そう囁いて腰を進める。
「あっ! ああっ! ああああっ!」
狭いだけに貫くにも力がいる。腰をつかみ、ゆっくりと内部を犯していく。最後まで受け入れさせた後は、その心地よさに息を吐き出した。
「う……あ」
リオンの中は熱く、とろけるようだ。
内壁が肉棒にぴったりと吸いついて、キュウキュウと締めあげてくる。すべて、隙間なくぴったりと包まれている。
「王子の中は、すごく、いい。熱くて、きつい」
そう囁いて、動き出す。じっとしていても心地よいが、動き出すと粘膜と粘膜がこすれる快感が津波のように押し寄せた。
リオンは上はそのまま、下穿きだけを剥ぎ取られた姿、ジョカに至っては陰茎だけを露出させた姿で、正面からリオンを串刺しにしている。
出し入れするたび、こらえきれない声が上がる。
「あ……、は、あっ!」
リオンの快感に染まる顔を見れるのが、この体位のいいところだ。
磁器のように滑らかな頬に朱がのぼり、快感に耐えるように強く眼を閉じた顔も、声を上げる際の表情も、すべてがそそる。
「王子、いいか?」
リオンは顔を真っ赤にして頷いた。繰り返される抽送に、リオンの欲望も首をもたげている。
ジョカは根元に指をからめ、放出を禁じた。一方で腰の動きを早めて追い上げていく。
「あああっ! ジョカ、ジョカ……っ!」
無意識に、リオンがジョカの肩口の服をつかむ。バサバサと、細い金糸が頬を叩いた。
「んっ……!」
ジョカは息を止め、欲望を叩きつけた。同時に、指を解く。リオンの欲望が手を汚した。
ジョカの体から力が抜ける。
「ふーーーっ……」
吐き出す息の音が、生々しく響いた。
ジョカは後ろから引き抜くと、リオンの顔の前につきつけた。
リオンはのろのろと顔をあげ、ジョカの目と合うと、大人しく体を起こした。
寝台に肘をつき、口に含んで清め始める。相変わらず上手くない口淫に、ジョカは金の頭を撫でながら言う。
「王子は女にやってもらったことはないのか?」
「……ない」
「じゃあ、教える。基本は、自分がやってもらったら気持ちがいいことをやることだ」
情事が終わり、衣服を整えると、朝食にした。つい夢中になってしまったので、昼近い時間になっている。
こんな時間でも、厨房で料理人が寝坊した貴族のために食事を作っているのだから、王宮というのは。
横取りした分際でそんなことを考えつつ、美味な食事をとっていると、リオンが尋ねた。
「そういえば、ここはどこなんだ?」
「王宮から東に5千テーベぐらい行ったところにある山だ」
直線距離なら遠くない。早馬で一日ぐらいの距離だ。だが、実際は道すらない急峻な山なので、その十倍はかかる。
リオンは脳裏で地図を広げて、答えを出した。
「クルビナ山か」
ジョカは驚いた。自国の地理に精通しているのは王族としては当たり前かもしれないが、実際にそれができる人間は極めて珍しい。
「王子は本当に優秀だな」
「その通りだが、何か?」
澄ました顔でリオンは答え、ジョカは思わず噴き出した。
食事を終えた後の皿洗いを王宮の料理人に押しつけると、ジョカは立ち上がった。
「外に行くが、王子も付いてくるか? あ、いや。やっぱり来い」
「外? どこへ行くんだ?」
「この山の中腹に、日当りのいい、少し開けたところがある。誰も知らないところだが。俺はともかく、王子は長い間陽に当たらないと体を壊す」
リオンは目を丸くした後、頷いた。
◆ ◆ ◆
そこは小さな空き地だった。
あまり広くなく、少し視線を転じれば鬱蒼とした木々で奥が見えない。傘を広げて太陽を独占してしまう樹はなく、太陽が贈り物のように降りそそぎ、柔らかな下生えが広がっていた。
燦々と照らす日の光に、ジョカは着いてすぐに横になった。
全身に陽を浴びて心地よさそうに目を閉じているジョカの傍らで、リオンは放置される。
(……逃げるかもとか考えないのか?)
もちろんそんな気はないが。ジョカのことだからそうなったら容赦なく、この国を更地にしてしまうだろう。
ジョカの寝顔を見ていると、彼がこんな風に太陽を浴びるのは三百二十年ぶりなのだ、ということに気づく。
長い長い時間を、闇の中で過ごしてきたのだ。多少、性格がひねくれるのは必然というものだろう。
ジョカは、幽閉される前は、一体どんな人間だったのだろう?
想像してみて、リオンはふと笑みを漏らす。
奇想天外な初代に協力しようというぐらいだ。面白物好きで、ついでに、根っこは善人だったに違いない。そうでなければ初代が執着するはずもない。心の支えにしていたからこそ、捕らえずにはいられなかったのだから。
リオンは、紅の花弁を持つ花を摘み、目の前で揺らす。
自分の心をはかっていた。
……どう探ってみても、自分はあまり気に病んでいない。連日連夜、性行為を強要されているというのに、傷ついていない。むしろ、これまで神経をすり減らす貴族間の交際をしなくて良くなったせいか、かなり精神状態は安定している。
否定しきれないことにジョカと体を重ねるのは気持ちがいいし、ほっともしている。
自分がジョカのところで、その心を受け止めている限り、ジョカは王国に復讐の牙を剥かないでくれる。そう約束してくれた。
ジョカを解放したことを間違いとは思わないが、正しい正しくないで答えが出るほど、世の中は簡単ではない。
それで国が全滅したら、さすがにリオンも悔やまずにはいられない。その罪を一生悔やんで生きるだろう。
閉じ込めたことも罪なら、解放したこともまた、罪。
両方罪だ。悲しいことに。
ジョカを解放したことを正義だと思えるほど、リオンも頭がおめでたくはない。リオンは、全国民を危機にさらしたのだ。それは間違いなく罪だろう。
ぽかぽかと日差しは快く、更に運動の後食事をしたばかり。必然的に眠くなってきた。
リオンはジョカの隣で横になり、誘惑に負けることにした。
◆ ◆ ◆
目が覚めると、ジョカがリオンを見下ろしていて、おもむろに言った。
「変だ変だと思っていたが、心底変な人間だな」
「……ま、そうだろうな」
少し考え、肯定すると、むきになって否定するとでも思っていたのか、ジョカは軽く目を丸くした。しかしすぐに真顔になる。
「どうして逃げない?」
「試みに聞くが、私が逃げたら、あなたはどうする?」
「どうもしないさ。王子が他国に亡命したいのなら協力してやるし、一般庶民として生きていく根性があるというのなら安全な場所まで送っていってやる。何なら路銀と生活費を渡してもいい」
「……で、ルイジアナはどうなる?」
誤魔化されずに追及すると、ジョカは肩をすくめた。
「予定通りに。王子以外すべて皆殺しだ」
予想と寸分たがわない言葉だった。
「……逃げるぐらいなら、最初からあなたを解放しないさ。言っただろう? 予測していたと」
リオンの言葉に、ジョカはため息をつく。思いがけず、実感のこもった嘆息だった。
「……ジョカ?」
「……俺は、王子と約束した。王子の方から約束を破ってくれれば俺も心おきなくやりたいことができる。どうして王子は平然としている? 男なのに、強姦されたんだぞ?」
「同意の上の性行為は、強姦とは言わない」
さっぱりとリオンは言いきって、背中を完全に草むらから別れさせ、座った。
「どうして私が平然としているかは……私もちょっと意外だったんだが、まあ、予測して心の準備をしてたからだろうな。嫌悪感もないし」
お互い、口には出さなかったが、ふたりの関係には明らかに友情があったと、リオンは思っている。
リオンのほうはそうだし、ジョカも……リオンのために一旦とはいえ矛を収めたという行動そのものが、彼らの友誼が確かなものだったという何よりの証拠だ。
同性の性行為など子ができるわけでなし、割り切ればそれだけのことだ。そして、リオンは、割り切る心の準備をしてあった。
ジョカは眉間に皺を寄せる。
「……じゃ、これから先、永遠に俺の性欲解消の道具になってもいいと? 俺は容赦なんてしないぞ。いままで、ずっと禁欲生活を送ってきたからな。王子ぐらいの美形が相手なら男相手でも勃つし、お前の体は具合がいい。憂さ晴らしにさんざん強姦するぞ。最下級の娼婦相手でもしないような、酷いことだって、きっとする」
「したいのなら、いくらでも」
金の髪に蒼い瞳の王子様は、いとも優雅に、にっこり笑って答えた。
ジョカががっくりと首を折る。
―――長い付き合いだ。しかも、浅い付き合いどころか、精神に言葉の刃を刺し込むような毒舌の応酬を続けてきたのだ。お互いの性質も性情も良く知っている。
ハッキリ言うと、リオンはジョカが自分に、決定的に酷いことをできるような人間ではないと、知っていたのだ。怒りや憎悪で我を忘れたならともかく、もうすでに頭に昇った血も下がっている。
ジョカは、本来は、気のいい人間だったのだろう。
それは病の時の反応でも明らかだ。ジョカは、見ず知らずの一面識もない薬師をかばった。頭で考えての反応ではなかっただろう。身についた善良さが、とっさに、苦しい息の中そうした行動をとらせたのだ。
リオンはジョカに抱かれたが、その時でさえジョカは手間暇かけてリオンの体を馴らし、苦痛を取り除いて快楽に喘がせた。まったく、ジョカのお人好し加減がよくわかるではないか。
―――そんな人間を狂気のような復讐にかりたてるのはどれほどの仕打ちかと思うと気分が悪くなるが、その復讐を肯定できないのが、リオンの立場だった。
「……永久に俺の性奴隷でいいと?」
「それであなたの気がすむのなら」
リオンは即答した。自分の役目は、この魔術師の怒りを解くための人柱。
そう決断していることが伝わってくる透徹な声だった。
「……怒れよ。頼むから。解放してやったのにその恩人になんていう仕打ちかって言ってくれ。怒って当たり前だろう?」
リオンは少し考えた。そして、ゆっくりかぶりを振る。
「私は―――あなたを解放したけれど、だから恩に着せるというのは、おかしいと思う」
「何故?」
鋭く、ジョカはリオンに問う。
「もし、お前が異国の人間で、解放するから死ぬまで仕えろといったら、俺はそれに応じていた。人ひとり死ぬまでなんて、せいぜい五十年。俺が苦痛を味わいつづけた時間は三百年以上で、終わる気配も見えない。一も二もなく即座に応じるほどの取引だ。……逆に言えば、俺は、その恩人を踏みにじっている」
声から、苦悩がにじみ出ていた。リオンは瞠目する。
邪悪だったら、苦しまない。人だから、苦しむのだ。恩人を傷つけていることに。
「王子がひとこと、もう嫌だとか、そう言ってくれれば、俺は、王子を、解放する。傷もつけず、記憶も消して……俺の誇りと神にかけて、安楽な一生を、約束する」
リオンは黙り、ぽつりと聞いた。
「―――そのかわりに、ルイジアナは滅びるんだろう?」
答えは、何より雄弁な沈黙だった。
ジョカは顔をそらし、言う。
「……逃げてくれ。怒ってくれ。もう嫌だと言ってくれ。そうしたら、俺は―――復讐できるのに」
痛々しいほどの憎悪の傷跡が見えて、リオンは目を細める。痛みに似た、哀れみに近い感情が胸をよぎった。……長い長い時間をかけて、育まれた憎悪。
それが内側からジョカを引き裂いている。何をしているあの苦痛を忘れたか、と。
その痛みを昇華する最も手っ取り早く確実な方法が、復讐だ。この国を滅ぼし、灰燼に帰せば、ジョカの胸の憎悪は浄化されるだろう。
「そんな約束知ったことか、とは思わないのか?」
リオンは、当たり前のことを聞いた。そう、ただの口約束なのだ。
だが、ジョカは苦痛にゆがんだ顔で、それでもかぶりを振った。
「……俺は、王子と約束した。強制力なんてないけれど、この約束は……破れない。人には、踏み越えてはいけない線がある。これは破ってはいけない、心が、そう感じるんだ。無力な人間の分際で、勇気を振り絞って
魔術師の前に立ったおまえの覚悟にかけて、この約束は、俺からは破らない」
「―――ありがとう」
リオンは、心から礼を言った。
ジョカはうろんな目つきでリオンを見た。
「だからどうしてそこで礼を言うんだ。逆に言えば、俺はお前に約束をふり捨てさせるために色んなことをするぞ」
リオンは考え、すぐに目を悪戯っぽく光らせていった。
「その点に関しては、そうだな、因果を遡って考えれば、あなたが悪い」
「はあ?」
「私は、あなたがするどんな暴力も虐待も、受け入れる。あなたが望むのならあなたの靴に口づけるし、他人と性交でも何でもする。有り体に言ってしまえば、私はそんなことで傷つくようなやわなプライドの持ち主じゃない」
むう、とジョカは眉間に山脈を作った。
「で、だ。どうして私がそこまで図太くなったかというと、―――あなたのせいだろう」
クルリと視線で指差され、思い当たるフシだらけのジョカは頭を抱えた。
「だから、あなたのせい。あなたがさんざん私を叩きのめし皮肉を突き刺して教育したせい、そして、あの言葉を聞かせたせいだ。こういうのも自業自得というのかな」
「あのことば?」
「―――『誇りは、自らの中で譲れないものの思いの強さだ』」
リオンはそっと、その言葉を口にした。声、口調、響き、そのどれもが、彼にとってその一言が重いものだと告げていた。
ジョカは眉をひそめた。怪訝そうな顔をしているので、彼はリオンにそう言ったことを覚えていないのだろう。けれど、リオンは覚えている。
リオンはその言葉を胸に抱き、呟く。
「……あの時はこの言葉の意味がわからなかった。でも、今は、よく、判る……」
リオンにとって、譲れないもの。どうしても譲れないもの。それは、ルイジアナの安寧だ。リオンは私情でジョカを解放した。だからその責任は、リオン自身がとって、国民にはまわさせない。それが、リオンの誇りだった。
だから、リオンはジョカに何をされても傷つかない。彼の誇りは、そんなところにない。
一時はどうなる事かと思ったが、ジョカは……やっぱり、リオンの友人のジョカで。口で辛辣な事を言っていても根は優しいし、こうして会話していても言葉はぽんぽんと出てきて、話していて楽しい。
不意に、ジョカはリオンの肩をつかんで草むらに押し倒した。
驚きは重なった唇に解消されて、至近距離に黒曜の瞳。
「いいよ」
リオンは、体から力を抜いた。
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