さすがというべきか、なんというべきか。
蛇の体は、断崖絶壁から雪の中に落とされても生きていた。
というか、ぴんしゃんしていた。
人間なら断崖絶壁の最後まで転がり落ちてお陀仏にまちがいないが、モノは小さな蛇である。
断崖絶壁とはいっても、多少の角度はある。
岩壁がナイフで切り落としたように垂直におちているのではなく、斜めの角度がついているのだ。
それでも人間ならばとても掴まることなどできない角度だが。
実質落ちたのは人の身長の二倍ほど(約三メートル)で、雪肌の上にぽふっと埋まるように落ちた。
たったの三メートル。しかも雪がクッションとなる。
そして、体重が軽ければ軽いほど、落下の衝撃は小さくなる。
人間が三メートルも落ちたら骨折間違いなしだが、何ともなかった。
ただし、周りはすべて雪だ。
――早く抜け出さないと、動けなくなる!
蛇をはじめとする変温動物は、過酷な環境でも適応して代謝を下げ、仮死状態で長生きする特技がある。
瓶の中に閉じ込められ、飲まず食わずで数年生きた蛇の記録もあるほどだ。
エネルギー代謝が非常に効率的な生き物だが、その代わり、過酷な環境――たとえば寒冷な場所に置かれると、体が勝手に「適応」してしまう。
とどのつまり、動けなくなるのだ。
エネルギーの節約にたけた変温動物は、その省エネ体質のかわりに、寒冷地では動けなくなるという欠点をもつ。
恒温動物がいつどこでも動けるかわり、エネルギー効率においては変温動物の足元にも及ばない効率の悪さであるのと、対象的であった。
全身が雪にすっぽり埋まり、リオンは非常に焦った。
体から体温が急速に奪われていくのがわかる。
そしてそれとともに、体が強張っていく。
リオンは必死に体をくねらせた。
子蛇の軽い体は、雪の上を這うのに素晴らしい適性を示した。
本気になって動く蛇は、その四肢のない鈍重そうな見た目に反して実に素早い。
垂直に近い壁をも登れる蛇は、斜めの傾斜を物ともせずぐいぐいと雪の上を登っていく。
かるい、というのはそれだけで武器だ。雪に沈むことなく、雪の上を這えるのだから。
しかし、死にもの狂いで登っている本人の心中は怨嗟一色だった。
――ジョカめえええ!
――よくも落としてくれたな!
――私だっていうことにも気づかずに!
――そもそも私がこんな目にあっている原因はあなただろうが!
この恨み、どうしてくれようか。
何とか落とされた三メートルを登り切り、這いあがって入口のところでほっと息をつく。
この魔術師が作った住まいは、中は常に適温に保たれている。
冷え切った体が大気の熱量を吸収して、ぬくもっていく。
――危なかった。
もう少し遅かったら、雪の上で動けなくなり、仮死状態で暖かくなる春を待つ羽目になるところだった。
もちろん凍死の危険もある。
蛇の体には優秀な感知器があるようで、ジョカがまだ寝台のところにいるのがまるで手に取るようにわかる。
蛇の目に見える距離ではないのに、なんでかわかるのだ。
しかし、うかつに近づいたら、またさっきの繰り返しだろう……。
リオンは今は蛇で。
蛇と言ったら多くの人間が忌み嫌うもので。
まして毒を持っているかもしれない危険な存在なのだ。
リオンにあれだけ過保護なジョカが、自分たちの住まいに入ってきた毒蛇かもしれない蛇を、見逃すだろうか?
考えれば考えるほど、ありえそうにない。
見つかったら今度こそ、ジョカはこの蛇を殺すのではないか?
そして、そうなったらリオンも死んでしまうのかもしれない……。
「シュッシュッ」
蛇のリオンはちろちろと舌を出しながらジョカを呼んでみた。
やはり、声は出ない。
蛇に声帯はない。
息を通りぬける音がするだけだ。
蛇嫌いの多くの人が、不気味と断定するだろう音。
二つの人体が、折り重なるように寝台にいる。密着に近い近さで。
ジョカは、優しい笑顔でリオンを見つめているのだろう。
想像すると、胸が痛んだ。
彼は、リオンが目覚めるのを待って、朝食にしようと待っているのだ。
いつもどおりに。
――ジョカ。私はここだ。
――ここにいるんだ。
――気が付いてくれ。そこに中味がないことに。
急に恐怖が沸き上がった。
このまま、この体でずっと生きるのか?
このまま、ずっと?
元に戻れなかったら、どうなる?
唯一自分を元に戻せそうなジョカは、リオンを見るなり摘まんで放り出した。
ジョカらしい対応といえばその通りなのだけれど――。
――もしも、このままだったら?
リオンはぞくりと体を震わせた。
このままこの体で、戻れずに……死んでしまうのか? ここで、終わりになってしまうのだろうか?
そうなったら、ジョカはどうするのだろう?
リオンの魂の入っていない抜け殻を大事にするだろうか。
でも、そのうち彼も気づくだろう。
リオンの魂が、そこにはないことに。
眠るリオンは永遠に目覚めない。魂は、ここにある。
そうしたら、彼はどうするのだろう?
眠ったまま目覚めないリオンの治療法を、探すだろうか?
……きっと、探してくれるだろう。
眠り姫になってしまったリオンを助けるため、手を尽くしてくれるだろう。
それは信じられる。信じている。
蚊ほどの疑いもなく、かれがリオンのために全力で力を尽くしてくれると信じている。
けれど、それでも――リオンがこの蛇の中にいる、なんて荒唐無稽な真実にたどり着けるだろうか?
客観的に考えればリオンとこの子蛇との間に接点など何もなく、子蛇を見てそれがリオンだなんて思うはずがない。
気づくどころか、発想すらもしないだろう。リオンの魂がここにある、なんて。
洞窟の入り口にいるリオンから見て、寝台にいるジョカは遥か遠い。
人間ならほんの十歩も歩かない距離だけれど、子蛇であるリオンにとっては、とても遠い。
見つかったら今度こそ殺されてしまうだろうから、近づくことができなかった。
――ジョカ。私はここにいる。ここにいるんだ。
そのとき、ジョカが立ち上がってこちらにやってきた。
蛇の感覚は鋭敏で、いち早くそのことを察してリオンは物陰に逃げ込む。岩の陰に身を潜め、ぴったりと地面に伏せて動かない。眼だけをジョカの方に向けていた。
やがて、狭い蛇の視界にも、ジョカの姿が映った。
――あなたは、どうしたら私がここにいると気づいてくれるんだろう……?
どうやって伝えればいいのだろう、こんな声もでない蛇のからだで。
口を開いても出るのは不気味な威嚇音ばかり。伝えられるとは思えない。
――時間をかければ、何とかなるかもしれない。
どう考えても、それしか道はなかった。
今は逃げて、ジョカの目から逃げて、見つからないよう隠れるのだ。
ジョカがリオンの異常に気付き、その原因を探ってみて、そしてリオンのからだの中に魂がないということに気づいてくれたら。
そうしたら、蛇の中にリオンがいるということに気づいてくれるかもしれない。
でも今は、見つからないようこうして隠れているしかないのだ……。
やがてジョカは足を止めて、スッと膝を折る。
そして、リオンが潜む物陰へと手を差し伸べた。
「リオン」
リオンは目を見開いた。
その「声」が、聴覚のない蛇のリオンにも届いたからだ。
にじんだもので、狭い蛇の視界が更に狭くなった。
ジョカはリオンを両掌ですくいあげるようにして持ち上げた。
視線を合わせる。
「ごめん。最初に見た時に気づかなくて」
「シュッシュッ(ジョカ……わかるのか?)」
ジョカの唇が動いていないので、この「声」は、音ではないのだ。
思い出した。
以前、一度だけ経験したことがある。
遠距離でも会話ができる魔法。
頭の中に響く、不思議な声。
あの魔法だ。
「シュシュシュッ」
「うん。今、助けるから」
ジョカはそっと、小さな蛇に口づけた。
姫君の呪いを解くように。
◆ ◆ ◆
リオンは自分の拳を開閉させて、自分の体が自分のものであることを確認する。
手足がある、顔もある、声も耳も聞こえる。
間違いない、自分のからだだ。
それを確認し、そして、彼がまず真っ先にやったことは。
「よくもやってくれたな!」
今回の原因である、世界でたったひとりの魔術師をぶんなぐることだった。
ジョカはまともにくらって吹っ飛んだ。
細身とはいえ成人男子が、一瞬完全に宙に浮いて床に叩きつけられる。いかにリオンが怒っているのか知れようというものだ。……また、剣も持てない優美な王子様に見えるリオンが実際は真面目に修練をしているということも。
それでも何とか起き上がると、土下座して頭を深く下げた。
「ごーめーんー! まさかこんなことになるなんて思ってもいなくて! ごめんなさい!」
「――それで?」
「え、ええと……ごめんなさい」
「そうじゃない。原因はなんだったんだ?」
「俺にもよくわからないけど……、薬が揮発してこんなことになったのかも……。リオン、念のため聞くけど、薬飲んでないよな?」
リオンは腕組みをし、じつに王族らしい堂々たる態度で言い放った。
「あんな怪しい薬を盗み飲む馬鹿がどこにいる」
「……反論の余地がまるでないお言葉ありがとうございます。じゃあやっぱり偶然揮発した成分が相互に作用して奇跡的な偶然でそうなったんだと思う」
「それで、どういう薬だったんだ?」
「…………怒らない?」
「内容による」
「…………二人で飲んで、飲んだ人間同士の魂を入れ替える薬」
リオンは無言でもう一発殴った。
「どう考えてもあなたが原因だろうが!」
「ごめんなさーい!」
「ものすごく焦ったんだぞ! 何とかしてもらおうとあなたに会いに行ったら外に捨てられるし! 今度見つかったら今度こそ殺されるかもと思ってこそこそ隠れる羽目になったし! 本当にどうしようかと思ったんだからな!」
リオンの眼が涙目になっていることに気づいて、ジョカは物凄い衝撃を受けた。
蛇になってあちこちうろつきまわり、挙句の果てに「ジョカに」捨てられるという経験は、リオンにとって笑いごとではすまないものだったようだ。
ジョカは心から後悔して頭を下げた。
「ごめん……。本当に、ごめんなさい」
リオンはジョカを見下ろし、魔術師が心底後悔と反省をしている様子を見て――ふうと一つ息を吐いて、それで怒りを収めた。
「どうしてそんな薬を作ったんだ?」
「怒らないか?」
「理由による」
「一度でも魂が肉体と切り離されれば、肉体操作が上手くなるんだ」
「……え?」
思ってもみない理由だった。
「肉体と魂が不可分に結びついていると人は思っているけど実はそんなことはない。でも、実際に自分で体験してみないとそんなこと、実感できないだろう? お前は一度、魂と肉体が切り離されて、そしてまた戻った。そうすることで、以前よりずっと肉体操作の精度があがったはずだ」
肉体操作の精度があがれば、当然剣術にも体術にもそれは反映されるだろう。
「…………。えー、つまり、だ。わたしのため?」
「うん。……出来上がったら俺とリオンとで飲んで、そしてすぐに戻るつもりだった。まさか、こんなかたちで成功するなんて思わなかった」
「そういえば、蛇の体をものすごくすんなり動かせたな……」
よくよく考えてみれば、ジョカが何かを頑張る理由というのは九割の確率でリオンのためだったりする。
一割の確率で自分の欲望を実現するためだったりするが。
自分のためだと思うと、怒りも鎮火してしまって、リオンは仕方がない、と苦笑して終わりにすることにした。
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