「ところでリオン、こいつどうする?」
ジョカが示したのは、あの、青緑色の小さな蛇だった。
石肌がむき出しの床の上で、とぐろを巻いている。どうやら眠っているようだ。
これがまるで縁のない状況ならリオンも適当に処分するのだが、さすがに一時とはいえ自分の魂が宿っていた生き物だと思うと、殺してしまうのは躊躇われた。
死ぬかもしれないと思った恐怖、戦慄、全部覚えているのだ。
「うーむ……。いっそ飼うか?」
「蛇を飼うのは難しいからやめた方がいい」
「そうか?」
「なにより、俺は嫌だぞ。もこもこの獣ならともかく蛇なんて」
ジョカは本気で嫌がっている顔で頬を撫でる。
一般的には珍しくもない反応だ。
ジョカはどうやら蛇が苦手らしい。
それもそうかと、リオンは首をうなずかせた。
蛇を飼うのに拒絶反応を示す人間は少なくない。いや、そちらの方が多いくらいだろう。
「……じゃあ、殺すのか?」
「リオンが嫌だろ、それは。だからまあ、遠いところに移して冬眠でもしてもらえばいいんじゃないかと」
外は雪化粧一色の冬である。
さすがに一回ジョカがやったようにこんな子蛇を外に出したら凍死してしまう。
「……私はこの蛇の中にしばらく入っていたが、びっくりした。驚いた。蛇ってあんな風に外界を認識するんだな」
狭まった視界。
聴覚はほとんど作用せず、なのに熱源……人の位置がわかる未知の感覚器官。
「どうしてこの細い体で壁を這えるんだ?」
「重力は重さに比例して働くから」
「……ジュウリョクって?」
ジョカはしょっちゅうリオンの知らない言葉を使う。
「ええと、人間は高いところから飛び降りたらどうなる?」
「地面に激突する」
「だろ? それは物だろうとなんだろうと一緒だよな? その力を重力という。でも、髪の毛をちょっと濡らして、一本壁紙にくっつけたとする。落ちないだろう?」
「……」
「それは髪の毛が軽いから。地面に吸い寄せられる力は、重さに比例する。だから、体のかるい蜘蛛とか蟻とかは平気で垂直の壁面を這える。鼠は柱を『駆け上がる』、ことはできるけど、柱の途中で静止することはできない。止まったら落ちる。重いから。そして、鼠と同じ芸当を人間ができないのは、それだけ重いから」
「じゃあどうして鳥は空を飛べるんだ? 鳥は鼠より重いぞ」
「ええと……一枚の紙を高いところから落とすと、ひらひら舞ってなかなか落ちないだろう? でもその紙をくしゃくしゃに丸めたら、すとんと落ちるだろう? この場合は重さじゃなく、物体の形状が関係するんだ」
リオンはやや呆れてジョカを見た。
呆れてしまうほど、ジョカは色んなことを知っていた。
「あなたは何でもよく知ってるな」
「魔術師なら常識レベルの知識だぞ、これ」
「……そうか」
「紙と同じで、表面積が広ければ広いほど、空気を掴める量は広くなる。鳥って大きさの割に体重が軽いし、鳥は翼を広げると、とても表面積が広くなるだろう? 鳥は、自分の体を軽くして、同時に翼でたくさんの空気を掴むことで、飛ぶんだ……ええと」
ジョカは実演してみるかとばかりに、テーブルの上に置かれていた紙を一枚取って、折りはじめた。
すぐにその作業は終わって、リオンに折り紙を差し出す。
「はい、完成。紙飛行機です」
「……かみ、ひこうき?」
それは見たこともない形だった。
全体的な形としては、細長い三角形に似ている。
「そう。紙でできていて、飛行するもの。だから紙飛行機」
「え? これが飛ぶのか?」
「そう、ここの下の出っ張りを指で持って、で、こう投げる!」
ジョカは説明して実演した。
ジョカに投げられた紙飛行機は数歩の距離を確かに飛んで、落ちた。
「こんな感じだ」
「羽ばたきはしないんだな」
「……生きてないからそこまではちょっと」
過大な期待をさせてしまったジョカが悪いのだが。
なまじリオンは毎日ジョカと一緒に空を飛んでいたので、期待してしまったのだ。
しかし現実は飛行というより滑空というのがふさわしいものであった。
「蛇の中にいたとき、目が良く見えなくて、耳も聞こえないのになぜかあなたのいる位置がわかったんだが、あれはなんだ?」
「蛇にはピット器官があるから」
「ピット器官?」
「動物や人間は温かいよな? それを感知する器官があるんだ」
「え……? 蛇が?」
「蛇が」
「あの、蛇が?」
「蛇が」
「遠くから生き物が放つ熱を感知する?」
「そう、俺たちは触らないと熱がわからないけど、蛇はちがうの」
これは、蛇という生き物全般を自分より下等なものとして見下していたリオンにとって、天地が引っくり返るような衝撃であったらしい。
「――蛇にか!?」
ジョカは真面目くさって頷いた。
「はい、蛇にです」
リオンのこの反応は、この時代としては決して異常な反応ではない。
人を「神のつくりたもうたもの」とし、それ以外の生き物はすべて下等なものとしているのが、この時代の考え方である。
なのに、蛇に……、体はひやりと冷たくぎょろりとした目が気持ち悪く手足すらもない、人が忌避する生き物である蛇に、そんな人より優れた能力があろうとは、驚天動地の驚きだった。
「す、すごい能力を持っているんだな、蛇って……」
「そう。自然界に生きる生き物は、みんなそれぞれ取り柄があるんだよ。そうでないと淘汰されてしまうから」
リオンはまじまじと床でとぐろを巻く生き物を見つめた。
つるりとした、手も足もない蛇だ。
だが、リオンの魂は一時この蛇の中にあった。そして、蛇ならではのかるい体や能力を実感したのだ。
蛇は確かに手も足もない。手がないから物もつかめないし、声も出せないし、音も聞こえない。
だが、決して劣っているだけの生き物ではないのだ。
世界のすべては神の被造物。
そう聖書は説いている。
蛇もまた、神がこうあれと思い願って作り出した生き物なのだ。
「じゃ、この蛇を遠くの過ごしやすいところに移動させるから」
「ああ。――ちょっとの間だけど、お前の体を借りた。すまなかったな。だが、今になって思えば新鮮で、驚きで、得難い体験だった。息災でな。長生きしてくれ」
リオンは優しい笑顔で蛇に感謝の言葉を言い、別れを告げた。
蛇さんのその後が何気に気になったもので、ちょっと付け足しました。
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