その日、リオンは何やら香ばしい匂いで目がさめた。
ぼんやりとした視界をこすり、体を起こすと隣で寝ていたはずの黒髪の魔法使いはもう起きている様子だ。
そして、香ばしいと感じた匂いは、目覚めてみると香ばしいを通り越して焦げているような……?
そこでリオンは眠気を一瞬で脳から叩きだし、寝台から飛び降りた。
「ジョカ!」
よもや火事が起こったのか、それも魔法使いである彼の手に負えないほどの、と厨房(?)に駆け込むと、そこで鍋の前に立っていたジョカが振り返った。
「あ、リオンおはよ」
「……おはよう。火事……じゃないみたいだな」
拍子抜けして、リオンはジョカの手元をのぞきこんだ。
中にはいかにも怪しげな黒い液体がぐるぐるとまわっている。焦げたような匂いの発生源はこれだ。
「朝ご飯はテーブルの上。俺はまだしばらく手を離せないから先に食べてて」
「…………また、何か変な薬を作っているのか?」
ジョカは一瞬きょとんとしてから、破顔した。
「ちがうって。もうすぐできあがるから、楽しみにしてて」
――リオンの脳裏に、これまでジョカの怪しげな薬でヒドイ目にあった数々の経験が浮かんだ。
リオンは胡乱な眼差しで最愛の恋人を見やったが、ジョカは楽しげに鍋をかき混ぜていて、気づく様子もない。
「ほんとうにちがうのか?」
「ちがうって。今作ってるのは薬じゃなくて食べ物」
「ああ、なんだ、そうなのか」
リオンは眉間の皺を解いた。
ジョカがリオンに手料理を振舞うことはたまにある。
どれも珍しく、美味しい料理だった。
「あとどれくらいでできる?」
「んー……二時間ぐらい? 手間が結構かかるんだ。だから待たなくていい」
「わかった」
リオンがテーブルに行き、座った瞬間に食事が現れる。
普通の人間なら仰天して悲鳴をあげるところだが、リオンはとうの昔に慣れていた。
リオンは食欲の命じるままに食べ始める。
いつ来るかもわからない相手が来るまで待って、ストレスを溜め込むことはしない。
そしてジョカの方も、リオンが先に食事を済ませても不愉快になることはない。
良い意味で、気遣いのいらない関係と言える。
お互い信頼しているから、気を使って無理に相手の都合と自分の都合を合わせたりはしないのだ。それで相手が不愉快になることはないと、お互いが知っているが故の距離感だった。
一人で食事を済ませ、リオンが本を読んでいるとジョカがやってきた。
満面の笑顔でリオンに一つの物を差し出す。
「リオン、これ食べて!」
「なんだ? これ」
「ショコラ。美味しいぞ?」
ジョカがリオンに差し出したのは、掌ほどのサイズの、つまりかなり大きい黒く平べったい板のような物体だった。
その上に、何やら白いもので何かが描かれている。
リオンはショコラの上に書かれた文字を読む。
二段になっていて、上段は宛名だ。
――ジョカよりリオンへ。
面積が限られているせいか、その下の言葉は実にシンプルだ。
――君を愛している。
「……」
「え? なんで睨むの?」
ジョカがリオンの険しい顔にたじろぐ。
「わからないのか?」
「わ、わからない」
「照れ隠しだ!」
「ああ、そう……。喜んでもらってうれしいよ」
ジョカがほっと胸をなでおろした。
リオンはリオンで、痛痒いような微妙な表情で手中のショコラに目を落とす。
「……しかし、こういうの実際貰うと反応に困るんだが」
「あれ? 嫌だった?」
「いや。嬉しい事は嬉しいんだ。嬉しいんだが……その、どういう反応すればいいのか、困る」
「なんで困るんだ?」
「いやだって困るだろう」
「俺としては嬉しいなら笑顔で嬉しいと言ってほしいんだけど」
「う。……そうだよな。すまない。その……慣れてないんだ」
ジョカは首を傾げたが、リオンとしては掛け値なしの本心である。
困惑して視線がさまようリオンと、首を傾げているジョカという構図である。
「贈り物をもらったことは……ないわけないな」
「山ほどある」
リオンはルイジアナの王家の王子である。
「だよな。となると……嬉しい贈り物をもらったのが初めてなのか?」
ジョカの指摘に、リオンは小さく声を上げた。
「あ……。そうかも、しれない」
「え? うそ、そうなのか?」
「嬉しくても嬉しい素振りを見せるわけにはいかなかったから。ああ、そうか、そういう事か――。ジョカ。それにだ」
リオンは思い至って何度も頷いた後、睨むような強さで手の中のショコラを指さした。
「これは、食べ物だろう?」
「あ、うん」
「そんなものにこんな文字書くな! 食べられなくなるだろう!」
「……あ」
「あ、じゃない! 恋文は紙に書いて渡してくれ! こんな食べ物に書かれて渡されても困る! 取っておいたら腐るだろうし、食べるのだって気が引ける!」
「あー、そうか。ごめん。そこまで気が回らなくて」
ジョカは頭をかいて謝った。
ジョカとしては何の気もなしに愛情を言葉にして記入して渡したのだが、受け取った側としてはそれは困るだろう。
しかし、ジョカとしても悪い気分はしない。それは当然だ。
ジョカからの恋文を勿体なくて食べられない、とリオンが言っているのだから、それは悪い気がしないに決まっていた。
「ところで……上のこの文字は何でできているんだ?」
「白くしたショコラ。ちゃんと食べられるし、美味しいよ」
「白いショコラ? そんなものがあるのか?」
「ある。ミルクが入ったショコラほど難しくないぞ」
「ん? ミルク入りショコラってそんなに難しいのか?」
ジョカは驚いた顔で、世界最高水準の教養人の王子様を見つめた。
そしてすぐ、納得したように頷く。
「王子様がショコラの作り方なんて知るわけないか。俺も驚いたからなあ」
「驚いた? あなたがか?」
「うん。よくまあ混ぜたと思って驚いた。――リオン。水と油って混ざると思うか?」
「思うも何も……混ざらないだろう、それは」
「俺もそう思ってた」
ジョカの一言に無視しえない何かを感じて、リオンは目で彼を見て先を促した。
ジョカは苦笑して答える。
「知識で知っていたから、それがすべてと思いこんで、そこで思考停止してた。すごいよな、人間の情熱や探求心って。時として、混ざらないものも混ぜてしまうんだから」
「どういう意味か聞いていいか?」
「カカオからできるのがショコラ。ところがだ。カカオから採れるのって、脂分なんだよな」
「……済まないが、もう少しさかのぼって詳しく。カカオから採れる脂分を使ってショコラができる、ということでいいのか?」
「そう。カカオという植物の実がある。これぐらいの大きさの、実な」
と、ジョカは両手を使って長さ十五センチほどの細長い実の形状を示した。
「で、その中に、種が入ってる。一粒は……銅貨ぐらいの大きさの種が。その種を加工してショコラができるの」
「へえ……」
「この種をカカオ豆っていう。豆じゃないけど豆みたいな形だから。で、この種をよーく乾燥させると、長旅にも耐えられる耐久力が得られるわけ。それをルイジアナまでまー遠路はるばる持ってきてるんだよなあ……」
ジョカは何やらしみじみした口調で言う。
ジョカの事だから、実際にそれを『見て』いたのだろう。
感慨ぶかさもひとしお、というところか。
「で、この豆の中にはぎっしりと特殊な脂分が含まれているわけ。その脂分を取り出して、飲み物の中に浮かべたのが飲み物としてのショコラ。ただ、飲み物のなかにペースト状のカカオが浮いているっていうのはちょっと見栄えも良くないし、食べづらい。それに、カカオって苦いんだ」
「苦いのか?」
驚いてリオンは手の中のショコラに目を落とした。
「それは甘いよ、大丈夫。リオンがこれまで食べたことのある固形のショコラも、甘かっただろう? まろやかで。砂糖を入れただけではああはならない。牛乳を混ぜたからこその、まろやかな甘さだ。ルイジアナではそのままじゃ苦くて食べづらいカカオを、牛乳と混ぜて固めるという離れ業をやったんだよ」
「それって難しいのか?」
「超難しい」
ジョカは断言した。
「どうしてかっていうと、カカオ豆に含まれているのは、常温で固体、体温で溶けるっていう特殊な性質は持っているけれども、脂分なんだ。油と水は混ざらない。牛乳はほとんどが水だ。混ざるはずがないって思っていた。ところがそれをやったんだ、ルイジアナの料理人は」
「なるほど。わかってきた。どうやったんだ?」
興味を引く話に、リオンも引き込まれ、尋ねる。
「牛乳とカカオを混ぜると、牛乳の中でカカオが浮いている状態になる。それを、とにかく混ぜまくった。ぐつぐつ煮える鍋の中で、徹底的に混ぜて混ぜて混ぜた。そうなると、どうなると思う?」
「薪代がすごくなる」
「……いや、それもそうなんだけど、それ以外」
リオンは顎に手を当てて考え、答えた。
「干乾びるな」
「そういうこと。水と油は混ざらない。でも、水を蒸発させてしまったら、混ざるんだよ。三日三晩徹夜でガンガン薪を焚いて、鍋を片時も休まずずっとかき混ぜたら、それは水分飛ぶさ。それを初めて『見た』時、俺は驚いたね。いくら苦いショコラを牛乳と混ぜれば美味になるだろうって言っても、やるかほんとに!? やったのか、水と油を混ぜたのか! って」
それは不可思議な力を持つ魔法使いであり、多くの知識を持つジョカが、人間の底力に感嘆した瞬間だったのだろう。
どこか懐かしむような優しい眼差しで、ジョカはその日の驚嘆をリオンに語った。
リオンの方も、微笑んでその話を聞いていた。
ルイジアナの料理人は、ジョカが一度は無理だと決めつけたことを覆してのけたのだ。
「で、このショコラは、それと同じ製法で作ったもの。まあ魔法でちょこっとズルはしてるけど」
「へえ……。手間がかかっただろう?」
「ああ。魔法で省力しても疲れた……。でも、今日リオンにショコラを食べて欲しかったから」
「ん? なんでだ?」
「それは――」
と、ジョカは答えかけ、口を閉ざす。
「それは、その、秘密」
リオンはじっとジョカを見たが、ジョカの方は視線をそらしたまま、答えない。
リオンはなおも見つめる。
ジョカの額に冷や汗が滲む。
リオンはまだ見る。
……ジョカは白旗を掲げた。
「……俺の故郷では、この日は愛する人に告白をする日という風習がありまして」
「ああ、なんだ。そんなことか」
拍子抜けするような理由だった。
四六時中ジョカに愛を告げられているリオンとしては、なんで隠したんだろう、という理由である。
「で、その時にショコラを渡すのがなぜかルールになっております」
「……こんな風に表面に恋文を書いて?」
「ハイ」
「そうか、でも……どうしよう、すごく勿体ないんだが、食べなきゃダメか?」
ジョカはにやにやと緩んでくる口元を意識して引き締めて言う。
「そこまで嬉しがられるとこっちも嬉しい。でも、それはあんまり長持ちしないんだよ」
「そう、か?」
「うん。味は確実に悪くなる。それに、甘いから置いておくと虫とか虫とかが寄ってくるし……」
「――わかった。食べる」
リオンは意を決してショコラに挑んだのだが――。
「なあ、ジョカ。これ、割ったら文字が割れるよな……」
「ハイ、割れます」
「……もったいない……」
逡巡するリオンの手からジョカはひょいとショコラを取り上げると、ぱきりと割った。
「ああーっ!」
真っ二つ。
どころか、ジョカは更に割る。
ぱきんぱきんと一口サイズに分割されてしまったショコラはすでに文字の判別も難しかった。
「わ、私のショコラが……」
「リオンがそこまで惜しんでくれるのはすごく嬉しいんだが……これは食べ物だから。食べないと悪くなるぞ」
「そうなんだが……」
リオンは未練のある様子で、それでも一口サイズになったショコラを一つつまんで口に運んだ。
その目が驚きに見開かれる。
口の中に入れた途端、ショコラはふわりととける。
王宮の料理人が作ったショコラをも上回る出来であった。
なんせジョカには魔法という強い味方がある。
カカオの発酵、焙煎、粉砕も、ミルクとの混交も、魔法を使ってこれ以上はない品質を確保した。
ジョカは会心の笑みでリオンに尋ねる。
「美味いか?」
「……うまい」
ジョカはにっこり笑う。
「もう一度、笑顔でそれを俺に言ってくれると嬉しいんだけどなー」
リオンは最初に言われた言葉を思い出し、反省してジョカに向き直った。
渡された時にはできなかった心からの笑顔で、ジョカに礼を言う。
「ありがとう、ジョカ。とてもうれしい」
その笑顔を見て、ジョカも嬉しくなる。
愛する人が喜んでくれること。
それ以上のお返しはないのだ。
チョコの表面に書かれている文字は
「 J to L
I love you 」
かな。
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