ジョカは、はるか上空から、緑の大地を見下ろしていた。
うっすらと覚えている三百二十年前の風景とは、地形さえもちがう。
農地は百倍以上に広がり、山は切り開かれ、川岸には建築物が無数に連なって、川渡しをする船も数え切れないほどだ。船着場もたくさんあり、商店もたくさん建ち並んでいるのが、灰色の絵の具の量でわかる。
今は秋。収穫期である。
耕作地は黄金色に染まり、この高さから見て実感できるその広さに、圧倒された。
隣には、リオンがいる。魔術師以外には許されない視点に、興奮しているのが伝わってくる。
ルイジアナ王国を一望できる場所へリオンをいざなった魔術師は言う。
「これがお前の国だ」
「私の? ちがうだろう。父のであり、そして、弟が継ぐものだ」
リオンは自分の立場を正確に理解していた。行方不明からひと月以上がたつ。もう、死んだ者として扱われているだろうと。そしてジョカの予想通り、まったくそれを気にしていなかった。
「王子は、帰った方がいい」
「……そうだな。一度帰って説明した方が、後々面倒がないか」
弟が王になるにあたって、今のままだとどうしても暗殺などの不穏な噂が出てくる。リオンは支持者が多かった分、弟が継ぐのに不満が出るだろう。
「ちがう。戻って、王子が王になるんだ」
リオンは、その言葉を予期していた平静な瞳で、ジョカを見上げた。
リオンは、理想的な王になるだろう。人の心を推し量れ、思いやれ、騙しも駆け引きもでき、清濁両方使い分けができる、立派な王に。
ジョカはこの上なく優しく微笑んで、身体を折り、囁いた。
「心配することはない。王子が望むのなら、俺は改めて、ルイジアナ王家に仕えよう。王子が生きて、俺を必要とする限り、側にいよう」
さすがに、リオンの瞳に驚きが浮かぶ。復讐に猛り、滅ぼそうとした魔術師が、立場を正反対にするとは。
解放された直後、荒れ狂う憎悪のままにジョカがその力をふるえば、こんな小国は、三日と持たずに消滅しただろう。
その時はいい。けれども、その後、おそらくジョカは後悔にさいなまれる。
一時の熱狂が過ぎれば、赤子や女子どもまで容赦なく虐殺した自分自身と対面する。
リオンはジョカを解放してくれただけでなく、その心をも、救ってくれたのだ。
「……それは……。あなたは、ルイジアナを、憎んでいるだろう?」
「ああ。憎悪している。ルイジアナが今滅亡しても、俺はまったく気にしない。でも、……王子は、俺を助けてくれた」
ぽつりと言われた言葉は、果てしない重みがあった。
「王子が、俺を助けてくれた瞬間。あの時ほど驚いたことは、三百年にわたる俺の生涯でも、他に、ない」
ジョカは微笑む。水晶を透過して輝く光のように、透き通った美しい笑みだった。
―――三百二十年の憎しみよりも、重いもの。
「王子は王となるべく育てられた人間だ。親しいものも皆、王子が王になることを望んでいる。王子も、そのつもりだったはずだ。……俺は王子に救われた。だから、王子の望むところに行くがいい。俺は力を貸そう」
リオンは冷静に言う。
「私は、私の一生をかけて償うと言ったぞ。私を卑怯者にする気か?」
「王子は帰らなくてはいけない。王子が王になることをたくさんの人間が望んでいる。父親も、友人も、長年側に仕えた者もいるだろう。皆、王子が王になるのを望んでいるはずだ」
「私は望まない」
さっぱりとした断定だった。
ジョカは変な顔になる。彼は、リオンを愛しているので、望みを叶えようとして言ったのだ。リオンが嫌がっているなら、前提条件が崩れてしまう。
「それより、ジョカに聞きたい。私が王になるということが分かっているのか? 妃を娶り、子を作る義務が生じるということだ。そして、私はジョカをこれまでのような日陰者にする気などないから、事情説明も含めて堂々と魔術師として臣下に紹介する。そうなると、私の死後も、ジョカを縛ろうという輩が必ず現れる」
ジョカはふ、と笑う。
「ただびとがどうやって俺を?」
「父が真名を知っている」
「真名単体には、それほどの力はない。言うことを強制的にきかせるような力はな。でなければ、友人であっても知らせるはずがないだろう? 魔術師がそれを織り込んで檻を作ったからこそ、俺は逆らえなかった」
「そう……なのか?」
ジョカは優しく笑う。
「……王子は、一度たりとも俺を真名で呼ばないな」
あの、解放の瞬間でさえ。それでジョカを支配できる可能性を考えなかったはずがないのに。
リオンは困ったような顔をした。
「……その名によって縛られていたのだから、当然、呼ばれるのは嫌だろう?」
「王子に呼ばれる分には、気にならないが。あ……いや。ちがうな」
ジョカは息を吐いて、足を整え、右手の指先を揃えて左の肩につけた。微笑んで一礼する。
「愛情の証として、我が真名をあなたに明かそう。リオン・ラ・ファン・ルイジアナ。我が名はエルウィントゥーレ。我が名をあなたに預ける」
騙し討ちのように他人から教えられた名前、正式に本人から明かされた名前。
同じものでも、その意味はまるで違う。
「呼んでいいのか……?」
「王子になら。とにかく、真名にはそんな俺を縛るような力はない」
「……でも、寝込みを襲えば殺せるのだろう? あと、病にかかると魔法は使えず、不意を突けば殺せると聞いた。王になれば、間違いなくジョカへの危険は大きくなる。あなたは世界で唯一の魔術師だ。あなたが私に仕えるだけで、近隣諸国との摩擦は計り知れない。政治のしがらみが、遅かれ早かれ私にジョカと国の二者択一を迫ることは間違いないな」
堅実で、実現性の極めて高い未来予想図。リオンの怜悧な頭脳は、教師たちの絶賛するものだったのだ。
リオンはジョカを見上げ、ふっと勝ち誇るように笑う。とびきり魅力的な顔だった。
「―――それに、嫌だろう? 私が妃を娶るのは」
そう言われれば、返す言葉はない。
リオンは笑みを消すと、真摯な顔で魔術師を見つめた。そっと語りかける。
「……ジョカは、憎しみが消えたわけでも、許したわけでもない。そんな簡単に消える筈がない。ただ、私の存在に免じて、保留にしてくれているだけだ」
ジョカは答えない。そして、この場合、沈黙こそが、雄弁な返答だった。
「私がジョカを制止する枷となる。貴方と共に、いろいろな所を旅しよう。私はこの国を滅ぼさないでほしいと言いつづける。私が生きる間、ずっと。貴方の側で。……それは、王になったらできないことだ」
『時』が、この魔術師の恨みと悲しみを、洗い流してくれることを願いながら。
「……父親と友人と親しい人間たちが嘆くぞ」
リオンはきっぱりと断定した。
「優先順位の問題だ。私は、彼らよりジョカが大切だ。だから、仕方ない」
ジョカはまじまじとリオンを見つめる。まさか、と思った。
「……あのな、王子。念のため聞くが、それは、わざと、言っているのか?」
「何の話だ?」
演技や揶揄で言っているのではないようだが……ジョカは、誰もが認めるこの明晰な王子の意外な弱点を見つけた思いだった。
少しつついて自覚させようかと思ったが、すんでのところで止める。
人間、一つぐらいは欠点があった方が面白い。それに。
……やはり、相手から進んで言ってもらいたいではないか。
「だから、事情説明にだけ、行こう。今の時間は、謁見をやっているはずだ。ちょうどいい、できるだけ印象的に登場したい。手伝ってくれるか?」
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