ジョカは不思議な心境のただ中にあった。
口は自動的に動く。いつものように他愛のないやりとりをリオンと交わしている。
頭も動く。自動的と言えるほど周囲の状況を把握し、考えられる可能性を想定して、対応策を巡らせている。
――なのに、どこかふわふわしている。
心が浮き立って、幸せをもたらす桃源郷の湯のなかに浸っている。
まるで、自分自身が二つに分裂してしまったようだ。
片方の自分はいつも通りで、もう片方の自分はただただ幸せの雲母の中にいる。
原因はわかっている。
ジョカは嬉しいのだ。
とても――非常に――限りなく、嬉しいのだ。
リオンと冷静に会話を続けていられた自分が信じられない。喜びと実感が次第に湧いてきて、それに伴って心が二つに分裂してしまった。
ジョカが珍しいほどの上機嫌で目の前の食事を気分よく片づけていると、食堂の隅で一人の男が席を立った。
先ほどから二人を観察していた男だ。
珍しいな、とジョカは思ったものだ。
まっすぐにこちらにやってくる男に、リオンもジョカも警戒体勢に入る。
脳裏に鳴り響く警戒信号に、意識が研ぎ澄まされて心が一つに戻る。
目配せしあい、ジョカはリオンに主導権を渡した。
ふたりの周囲の空気が急激に鋭さを増すなか、男はふたりの座るテーブルの前で足を止めた。
「こんにちは」
通常の、平凡でありきたりな挨拶。
リオンは一拍の間をあけ、微笑む。
笑う事については、リオンはプロだ。
媚びるのではなく、相手の心を和らげるのでもない、相手を威圧しつつもあくまで上品な微笑み――ロイヤルスマイルを浮かべる。
「こんにちは」
男は、リオンの方が挨拶を返したことにおやという気配を一瞬見せた。
それは文字通りほんの一瞬のことで、表情も動かさないものだったので、ジョカ以外は気づかなかっただろう。
どういうわけか、男という生きものは美貌の同性を軽んじる傾向がある。
受動的な立場と思われるのだ。
リオンとジョカが一緒に仲良く雑談しながら食事をしていて、リオンの方が能動的に初対面の他人との挨拶を受け持つとは思っていなかったらしい。
「すこし、お話をさせていただけないでしょうか?」
リオンがちらりとジョカに目をやる。
ジョカはリオンに応対を任せて傍観体勢でいたが、軽く頷いた。
――リオンのしたいようにすればいい。どうなっても後は何とかしていやる。
ジョカの無言の後押しを受けて、リオンは再び男に目を戻す。
男は三十代から五十代といったところだろう。年齢の幅が広いのは、顔の広範囲を黒い髭が覆っているからだ。
髭を伸ばしている男は珍しくない。むしろ、髭を綺麗に剃っているリオンたちの方が少数派だ。髭がある事が大人の男の証明であり、大人の男は髭を伸ばすべき、そういう文化圏なのである。
体つきはがっしりとした体格で、骨太で頑健そうだ。ジョカより頭半分背が低い。しかし体の厚みはこの男の方が倍ほどあるだろう。
顔だちはよくわからない。年が不明なのと同じ理由で、もみあげから顎、そして鼻下を覆う髭が顔立ちも不明にしていた。
彼の瞳はこげ茶だ。
その瞳がすばやく動いてジョカを一瞬見て、そしてまたリオンに戻った。
ひとはお互いに観察するものだ。片方だけが一方的に見ることなどありえない。
ふたりが彼を観察しているように、彼もまた、リオンとジョカの今の無言のやりとりを見て、何がしかの感想を抱いたのだ。
男は勝手にリオンの隣の椅子を引いて座る。
リオンはその厚かましい態度に少し眉をひそめたが、何も言わなかった。
男がリオンに話しかける。
「失礼ですが……、この辺りのご出身ではない様子ですね」
「いいえ。私はここから少し東に行ったところにある名もない村の出身ですよ。ただ、私の父は西方人であったようで、その特徴が良く出てしまったようですが」
ここから少し東に行った地域では少数民族が点在している。言葉のなまりもそれで誤魔化せる。彼らは独自の言語を喋るのだ。この辺りで広く使われ、リオンが一生懸命覚えた言語ではなく。
男は目に見えて落胆したようだった。
ただし、感情を隠すことに慣れている人間のあからさまな感情表現は、演技と思った方がいい。
「そうですか……。いえ、失礼。我々はこれから砂漠越えをして西方へと向かう予定なのですが、西方の方がもしいてくだされば、心強いかと思ったのですが……」
リオンは微笑む。
「残念ながら、ご期待に添えなかったようですね。しかし……ここから西方へと向かわれるのですか?」
度が過ぎるほど不審そうに、リオンがそう言ったのも無理はない。
主要な交易路からは外れた小さな町である。
そして、西方への交易はここからだと行きに二年、帰りに二年、往復で四年はかかるだろう。
何のアクシデントもなく、すべてが順調に行って、その歳月だ。
しかし現実的にそういうことはありえないので、五年はかかる。
それだけの長期交易は、大きな隊商しか行わないものだ。
大きな隊商は、本拠地もまた大きな町であるものだ。
通り道で寄っただけにしては、この辺にそんな大きな町はないので地理的におかしすぎる。
ジョカも、こんな鄙びた田舎町に「ついで」で寄るような理由が思いつかなかった。
男は穏やかに微笑み、言った。
「そう思われるのも当然でしょう。じつは、私は今は隊商から外れているのです。先日、長い交易が終わったばかりでしてね。休暇中なのですよ」
長期の交易に出る人間は、休暇もそれに見合った長さだ。
その長い休暇の最中、彼はここに来たのだろう。
「そうですか。では一つ情報をご提供しましょう。対価は見合う情報もしくは手蔓。いかがです?」
男は一瞬驚きを見せた。
リオンがいっぱしの商人のように慣れた様子で堂々と情報交換を申し出たからだろう。
対価も払わず、情報をただ取りできると考えるのは決まって素人だ。
玄人ならば情報と情報を交換する。一方的に利を吸い上げるような関係は長くは続かず、情報の質も落ちる。
――誰だって、自分だけ得をしようとする人間にくれてやるものはないのだ。
男は慎重に口を開いた。
「先に、どのようなものかをお尋ねしても?」
「その前に、確認しておきたいのですが、あなたが最後に東西交易をしたのはいつですか?」
「戻ってきたのは一か月ほど前になります」
「では、砂漠越えのルートが一度火山の噴火によって塞がれ、その後新しいルートが開拓されたのは、ご存知ですね?」
男の視線が変わった。
ほうと評価替えした気配になる。
リオンは何といってもまだ若い。
二十代の青年が、通常知っている情報ではないのだ。
火山の噴火によって一旦山越えルートが壊滅したことまではともかく、新しく新ルートの創設がなされたということは、知る者のまだ少ない情報である。
砂漠越えルートの復旧がなされてからもう五年以上経過しているが、東西の長大な距離は、これだけの時間がたっても情報の伝達を困難にするのだ。
誰もが知り得る情報ではない。
東西交易に携わる商人しか、知らない情報である。
自分が信憑性の高い情報を知っている人材であること。
その可能性を示し、リオンはにっこりと微笑む。
先ほどとは違う、人の心を安堵させ、好感を持たせる種類の笑顔だ。
「東西交易での有益な情報を提供いたします。その代わり、私は現在少々困っておりまして。相談にのっていただきたいのです」
「どういったご用件で……?」
「私はこの町に住んでいる者ではありません。所用あって訪れ、後は帰るばかりなのです。ですが、困ったことに、ここまで隊商に同道させていただいたのですが、帰り道で同じように同道させていただく隊商が見つからないのですよ」
リオンは困った顔になった。
美貌の彼がやると、同性であっても思わず引き込まれ、同情してしまうほど悲しげな顔になる。
男もリオンの欲するものを理解して、にやりと笑う。
「それはそれは……大層お困りでしょう」
「ええ、そうなんです。私と連れのふたりでは、物騒な世の中、旅路で何が起こるかわかりません。この町から東へ向かう隊商に、お心当たりはないでしょうか」
盗賊とかいう種類のならず者は、「遭う時は遭う、遭わないときは遭わない」ものだ。
ふたりで旅をしても出くわさないかもしれない。
だが、出くわすかもしれないのだ。
そして、二人旅の場合、山賊に出くわしたら運命は二つしかない。
殺されるか、運よく逃げられるかだ。
空想小説の英雄でもあるまいし、何十人もの知恵ある人間をひとりで倒せる人間などいない。
ジョカとリオンの場合、奥の手はあるが、できればそれは一生使わずにおきたいものだ。
運が良ければ出会わないかもしれないが、ジョカとしてはそこまで自分の強運に自信を持ってはいなかった。
しかし現実的に見つからなければ、妥協して二人で出立するしかない。
困っていたところに現れたこの人物を、リオンは隊商を紹介してもらう手蔓にしようという腹積もりらしい。
「ここから東、ですか……」
やはり、リオンが探してもなかったように、男にもすぐに思い当たる隊商の心当たりはないらしい。
しかし、男はしばし考え込んだ後にこう切り出した。
「この町からではなく、もう少し南にいった町からの隊商でしたらいくつか心当たりがあります。紹介することもできますが、それでは?」
リオンは喜びに満ちた笑みを浮かべた。
「じゅうぶんです。ありがとうございます」
美しいというのは得だ。
たとえ同性であっても、その笑顔は男の心の警戒をゆるめた。
「それで、あなたの持つ情報とは?」
「砂漠越えルートにおける、新規の町――補給地点の出現です」
「ほう……」
「私が聞いた話では、すでに町の土台はできていたそうです。井戸を掘り、温泉水を引き込むことで浴場も設置しているとかですので、訪れる価値はあるでしょう」
リオンは水をつけた指先で木のテーブルの上に簡略な地図をかく。
砂漠越えルートの簡略図。
それは、リオンの情報の信憑性を高めただろう。
地図でわかりやすくその町の位置を教えると、男は頷き、頭を下げた。
「ありがとう。それでは紹介状をしたためますので、明日ここに来ていただけますか? あ、申し遅れましたが、私の名はインホウと申します」
「私の名はリオン。よろしくお願いします」
リオンの名を聞いて、男が眉をひそめる。
何を考えたのかわかったので、リオンは先手を打っていう。
「私の父はリオンという名前だったそうです。母はその名をそのまま私に付けたんですよ。リオンという名は、西方には多いのだとか。ほんとうですか?」
インホウは納得したようすで頷く。
「非常に多いですね。右を見ても左を見ても……という感じでした」
そこで、インホウはジョカに顔を向ける。
これまで、彼はジョカを見るとき、気づかれないように目だけを動かしていた。
リオンにはジョカを見たということも判らなかっただろう。それだけ巧妙にやっていた男が、今は顔をまともに向けた。
自分は彼を見ている、ということを相手に伝えるための動きだった。
「失礼ですが、彼は?」
「ああ、私の旅の道連れです。今回の旅の出資者でもあります。旅費も路銀も何もかも彼の丸抱えで旅をさせてもらってますよ」
「では、隊商への運賃も問題ないですか?」
リオンは涼しい顔で答える。
「相手の隊商との話し合い次第ですが、おそらく取られないと思いますよ」
「え……?」
「彼は腕利きの治療師です。これまでの隊商でも旅程中の治療を請け負う条件で交渉したところ、快く同行させてくれました」
リオンがそう言ったのは、相手の隊商にとっても自分たちの同行は利益があるということを伝えるためだったが、インホウは顔色を変えた。リオンが一瞬引いたぐらいの勢いで食いついてきた。
「――それは本当ですか?」
ここまで黙って傍観していたジョカはやれやれと思う。
やっぱり本命は自分か。
リオンの交渉のお手並みを拝見するためにジョカは丸投げしていた。
つつがなくお互いに利益を得ておしまいになれば良かったのだが、相手はジョカと話をしたかったようだ。
リオンがきっかけを与えずとも、何らかの口実を付けて言ってきただろう。
ジョカとリオンが並んでいた場合、人の目は即座にリオンへ向く。
人は道端に咲く花には目を向けても、その脇に落ちている小石に目は向けない。
その点、ジョカは自分を知っていた。
しかし、インホウは最初、リオンとジョカ、両方に目を向けていた。
その時、ジョカは不審に思ったのだ。
ジョカは自分がリオンとは違う人種だと理解している。
どこにいても、どんな姿でも、どんな身分でも、人の目を惹きつけてやまないリオンとはちがう。
ジョカは、どこにでもいる平凡な人間だ。
リオンとジョカが並んだ場合、人の目は百%、リオンに行く。
そうでないのなら、そこには何か、理由があるのだ。
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