インホウの目の前で、弟は長年押し殺してきた感情を口にする。
「なんであの二人は! ……隠したり恥じ入る気配もないであんな風にいられるんだろう……」
「……恥じる?」
インホウは弟の言った言葉に目が開ける想いだった。
弟は何気なく言ったに違いない。だが、自分の心の中に漂っていた靄は、それだったのだ。
必死になって自分でも否定していた感情。
――同性愛なんて恥だ。
恥ずかしいこと、だ。
隠してしかるべきことで、同性愛者なんて輩は、こそこそしているべきだ。
いや、
そうでなければならない。
なのに、あの二人は文字通り、恥を恥とも思っていない。
インホウ自身も自覚していなかった、「恥知らずな」という感情が心の中にしっかりと根を張っていた。それが、彼らへの腹立ちの原因だったのだ。
けれども同時に彼らは一家の恩人で、そんな感情を持ってはいけないと自制する心があり……。
しかし、抑え込んだつもりでいても、感情は無くなりはしない。
理性の下から存在を主張する。
それが、インホウの心の鬱屈となっていたのだ。
インホウが己の心の闇に不意に直面して衝撃を受ける間も、弟の告白は続く。
「俺は、ずっと、隠して、悩んでいて。……なのに、なんで彼らはああも自由にいられるんだろう……!」
インホウは悟る。
あの、野営地での騒動の原因は、弟の男色家への拒絶反応ではなく。
愛人への恋慕でもなく。いや少しはあったかもしれないが主原因ではなく。
――ねたみだ。
だが、ごく正常な性嗜好で生きてきたインホウにとって、「正常者」として「異常者」への偏見をごく普通に抱く彼にとって、愛する弟が「そう」であることは、すぐに受け止められるものではなかった。
混乱する頭のまま、弟の肩に手を置き、言葉をかけた。
「だ、だいじょうぶだ。お前のそれは単なる一時の気の迷いだ。治る、美女とやれば治る。今度一緒に連れて行ってやるから……!」
インホウがそう言った瞬間、弟の目に傷ついた光がよぎった。
自分の失言を、インホウは悟った。
「……ごめん、兄貴。気持ち悪いよな」
心に戸がたてられたのがわかった。
弟は止める間もなく身を翻し、部屋を出て行ってしまう。
後にはインホウだけが残された。
自分の性嗜好に悩む弟に、インホウも思い悩まずにはいられない。
――いったいどうすればいいのだろうか。
インホウのいる地域は、同性愛者への差別が激しいわけではない。
確かに一歩引かれるし、インホウのように内心軽蔑している者も多いだろうし、ひそひそ声も多いが、公然とした法律上の差別はない。
同性愛者というだけで鞭打たれ、牢獄へ入らされ、あげく絞首刑という国もあることをインホウは知っている。それに比べればいたって緩いものだ。
だが……人間の心の中の差別はそうはいかない。
インホウ自身は、ふつうの性嗜好の持ち主だ。女が好きで男に言い寄られれば吐き気がする、男色家への偏見があると自分でも認める人間である。
――それなのに、弟がその男色家とは。
インホウは思い悩み、迷った末に、意を決してその人物を訪ねた。
「今度はお前か」
うんざりした顔でインホウを出迎えたのは、治療師だ。
「今度は……って?」
「さっき、お前の弟が来た」
インホウは沈黙する。
やはり家族と言うべきか、同じ人物を頼ったようだ。
弟が彼を頼った理由は分かる。
同性愛者という事を開けっぴろげにし、それでいて恥じ入ったり小さくなったりする様子もない人物だからだ。
インホウでも同じ選択をするだろう。
「インタオは……その……治りますか?」
『治る』という言い方にジョカは眉をひそめたが、口にしては何も咎めずにこう返した。
「性嗜好は治らん。そもそも治る治らないというものでもない。今は自分がどちらだろうと迷って悩んでいる時期だ。脇からあれこれ言う方が害だ。黙って見ていろ」
「それで、弟が、男を好きになったら――?」
リオンが冷ややかな顔でインホウを見た。
それにも気づかず、インホウは続けた。
「それで弟が同性愛者になったら、どうしてくれるんです!」
言い終わった後でインホウもさすがにまずったと気づいて口を押えた。
彼らは、その、『同性愛者』なのだ。
ジョカはわずらわしげに嘆息し、強い口調で言う。
「インホウ。俺は、お前に、どうしろこうしろというつもりはない。お前の家の中の問題だ。お前の責任によってすべては決する。だがな、一つだけ憶えておけ。――たとえ同性愛者だったとしても、お前の弟は、化け物になったわけじゃない。お前の弟以外の何者でもない」
その言葉には、表情通りの迷惑だという感情と、そして半分の慮(おもんぱか)る感情、そしてほんの少しの真摯な懸念が含まれていた。
憐れみと心配が含まれていればこそ、その言葉が胸を突いた。
インホウは口をつぐみ、うなだれた。
――家族が、弟が、同性愛者。
他人が同性愛者だというのならいい。そういう人種と割り切って、他人事として流してしまえる。
けれども自分の家族が……というのは、今まで一度も想像したことがなかった。
男色家という人種は知れども、あくまでそれは、遠い世界の事でしかなかったのだ。
「わかったらさっさと出ていけ。俺はリオンと一緒に疲れを癒しているんだ」
にべもない言葉だったが、逆らう気力もなく……インホウは大人しく部屋を出ていこうとした。
その背にかけられた言葉がある。
「あなたの弟が同性愛者だということは、あなたの兄がらい病であったときの衝撃より重いのか?」
インホウは首だけねじって振り返った。
厳しい表情でインホウを見ているのは、治療師の愛人だった。
インホウは動きを止めず、そのまま扉を閉めた。
そして閉まった扉の前で、兄がらい病であると理解し受け入れたときのことを思い出した。
……らい病患者とその家族の辿る運命は破滅だ。
それだけに、人は自分の家族が病にかかっても、それがらい病であるとは認めまいとする。
まず、否定。
第一に否定。第二も第三も否定。そしてその次に、どうしようもなく認めるしかない状態になってようやく認める。
インホウはさんざん足掻いた後に兄がらい病であることを認めた。
あのときの、地獄の釜の縁に立って蓋が開くのを眺めたような気分を思い出し、それに比べてやっと自嘲の笑いが出た。
そう、あの時に比べれば、どうということはない。
あの二人を見ればわかる。
男色家であっても、確かに世間的に冷たい目では見られるが、逆に言えばそれだけだ。
開き直り、開けっぴろげにしている二人に対して、下品な揶揄も目線も中傷もあっただろう。だが、どれもこれも二人はまるで気にしていない。
彼らも同性愛者だというのに。
そうだ――同性愛者だからといって、弟が化け物になるわけでも、見知らぬ他人になるわけでもない。
二人のことを思うと混乱も大分落ち着いて、インホウは自室に戻りながら考えをまとめた。
まずは弟の嗜好を治すように努力しよう。
それでも治らなかったら、その時は前向きに認めるよう努力しよう。
正直なところ男色家など気持ち悪いとしか思えない存在だがしかし、弟が化け物に変わったわけではなく、愛する弟であることは変わらないのだから。
まずは弟を娼館へ連れていこう……そう思いながら、インホウは自分の部屋に戻った。
インホウは同性愛に偏見はあるけれども、それを本人に面と向かっては言いません。
あからさまに偏見を剥き出しにするのではなく、その場では当たり障りなく流す人です。
でも心の中にはしっかりと自分と彼らを隔てる壁を持っています。
そういう「普通」の人です。
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