コリュウが持ってきた手紙は、一般配達物に分類されるものだった。要は緊急性のない普通の手紙だ。
そのために、ギルドも彼らが顔を見せた時に渡せばいいということになったのだろう。
全員が集まった席だった。
コリュウが取りに行った手紙を、少女に渡す。
少女の顔は、強張っていた。
「……アランが、何なの?」
「さあ……恨みごとか、あるいは、復縁要請か。どっちかはわかりませんが、会いたいそうですよ」
「……会いたくない」
固い顔でそう言う少女を、黙ってマーラは見つめた。コリュウも。ダルクも。
「―――好きなんでしょう?」
「生きる世界が違う!」
胸をえぐり、えぐった傷口を見せつけるような絶叫だった。
「無数の人間を手にかけてきた私が、誰一人殺したことも傷つけたこともない普通の人と釣り合うはずがないじゃない!」
少女はかぶりを振る。
「馬鹿だったわ……本当に馬鹿だった。先のことなんて何も考えてなくて、見えてなかった。今が良ければいいと言わんばかりに、正体を隠して、騙して会いに行った。交際を申し込まれた時も、嬉しくて嬉しくて、つい頷いてしまった。それからもずっと言わなきゃいけないと思いつつも、ズルズル言えなかった。でも、やっと言えたの……!」
世界が違う。まさに、この一言に収斂される。
冒険者である彼女と、一般人の彼とでは、生きる舞台が、ちがう。
優劣の問題ではない。血まみれの、いつ殺されるとも知れない世界で生きる彼女と、平凡だけれども平穏で安らいだ生活の彼。どちらが優れているとも、言い難い。
世界が違う。
これに尽きる。
両手で頭を押さえ、何度も何度も被りを振りながら少女は言う。
「きっと、アランは怒ってる……そして、私によくも騙したなって言う。会いたくない……会いたくない……責められたくない。嫌われたくない。彼にだけは、嫌われたくない……!」
こらえきれなくなったように。
ダルクは背を翻して出ていった。
マーラは、いたましげに少女を見つめる。
―――どんな聖人も、万人に好かれることはできない。
有名になるという事は、嫌う人数を増すということを意味する。
少女は、罵られることも、嫌われることも、よくあることなのだ。面と向かって罵倒されることすら、日常茶飯事なのである。
その少女が、嫌われたくないと言って泣いている。
彼にだけは嫌われたくないと言って、泣いている。
嫌われるのが怖くて、言葉をぶつけられる前に彼女は逃げだした。
―――その意味を、彼女は、自覚しているだろうか。
別れを告げ、それで終わり、になれば、平穏だっただろう。でも、アランは、それで終わりにする事を許さなかった。
ゆっくりと、マーラは口を開く。
「……彼が、あなたと会って、何を言うつもりなのかは、わかりません。復縁の要請かもしれないし、あなたを責めるつもりかもしれない。あるいは、はっきりと区切りをつけようというつもりなのかも。でも……ただひとつ、はっきりしているのは、アランは、あなたの『言い逃げ』を許さなかった、ということです」
鋭く、息を吸い込む音。
濡れた青い瞳が、マーラを見つめる。
「ねえクリス。どうして、あなたは、世界が違うなんていう言葉で、終わりにしてしまうんです?」
「……だって、実際、ちがうじゃない……」
「ちがいません」
きっぱりとした言葉に、少女は驚いて顔を上げた。
「クリス。私は、生まれてからほんの数年前まで、百年を軽く超す年月、森の中で暮らしていたんですよ」
ハッとした様子で、少女は仲間を見た。
「住む大陸すら違っていたその私が、いま、こうして、あなたの目の前にいる。あなたの声を聞き、一緒の空気を吸い、一緒の家で生活している。深い森の奥で、森の精霊族として生まれ、そして一生を森閑の中で過ごすのだろうと思っていた、わたしが」
「……」
「アランも、あなたも、同じ大地にいます。それも、ごく近い場所に。直線距離にして、ほんの一時間ほどの距離しか、ありません。同じ種族で、価値観も共有していて、どこが世界がちがうんです? そんなのはあなたの思い込みです」
「で、でも……」
ふわりと、体温を感じさせない動きで、マーラは彼女を抱きしめた。抱きしめたまま、たずねる。
「彼が、好きですか?」
何度も、何度も聞いた問いを、もう一度、マーラは口にした。そして、、少女は、やっと、頷いた。
「………うん」
その瞬間、マーラが浮かべた顔を、誰も見ることはなかった。
神のような慈愛と、小匙一杯程のほろ苦さが融合した、限りなく優しい微笑みだった。
「―――じゃあ、会いなさい。そして、彼の言葉を聞きなさい。そして、もし、彼が、あなたの正体を知ってもあなたと一緒にいる事を望むのなら……一緒になりなさい」
「そ、そんなのできない! だって、だって私は……!」
彼女には、守らなければならない人たちがいる。守りたいものがいる。
それを捨てられない。アランもまた、そうだろう。
「あなたは、もう少し、自分が築いてきたものの価値を、知りなさい」
「え……?」
マーラが抱擁を解き、少女は顔を上げる。
「あなたが守りたいと思っているものすべて、私たちが代わりに守ります」
「―――」
まるっきり痴呆のように、少女はぽかんと口を開けた。
「すべてのエルフは、あなたの為に力を尽くします。あなたに助けられた種族はすべて、力を貸してくれます。我々は―――あなたが幸せになるためになら、どんな協力もいといません」
少女には言わないが、彼女の平穏を守るために、犯罪とされるものに手を染める覚悟が、彼にはある。
「暗殺者が心配ですか? 大丈夫、私たちが守ります。あなたも、あなたの大切な人も、その家族にも、一歩も近づけさせやしません。この町が心配ですか? それも、心配することは、ありません」
サンローランの町に戻って来てから、マーラが方々に出向いて話をしていたのは、それをまとめるためだった。
異種族たちにも、生活がある。でも、数日に一度、時間を裂く事に、反対する者は―――いなかった。
みな、彼女が幸せになるために、力を貸すと快く言ってくれた。
「あなたが背負ってきたものすべて、私たちが引き継ぎます。だから―――あなたは、幸せになって、いいんです」
「ボクもね、この間会ったラズナーおじさんに、連絡取ったの。いつでも来ていいって。だから、ね、今度、行こうと思ってるんだ」
コリュウも、つっかえながらではあったが、何とか、それを言えた。
「え、で、で、でも……」
一度舵を切り方向を定めた心が、別の選択肢を示されて迷いだす。でも、一度動き出す方向を決めた心は、方向転換に力を要する。
「……クリス。あなたも、女性としての喜びを知っていいと思います。男性に愛され、守られて憩う喜びを。それの障害となるものはすべて、私たちが何とかします」
少女は十八。この世界の適齢期でいうと、ぎりぎりのところで、片足出ている。
早い娘なら十三で婚姻、ふつうは十五で婚姻が常識の世界である。
生物学的に見て、多産の為には、性に成熟してすぐの十代の婚姻が最も良い。
五人から十人ほどの子どもを産んでも、その多くは幼少時に疾病や魔物などで死んでしまい、育つのは二三人。血を絶やさないためには、多くの子どもが必要なのだ。だから、女性はたくさんの子どもが産めるよう、若くして婚姻を結ぶのである(受胎率は、若い方が高い)。
子どもがたくさん死ぬから、たくさん子どもを産まなければならない。この世界の人族の一般庶民は、こうした考え方である。
胸が詰まって、言葉が出ない少女に、マーラは言う。
「……もし、彼が、あなたの正体を知って、それでもいいと言ったのなら、あなたは、自分の心に正直になってください。―――それにまつわる障害はすべて、私たちが引き受けます」
コリュウも言う。
「幸せになって。ボクらは、自分たちのことは自分でできる。そして、クリスの幸せのためなら、なんでもしてあげる。クリスの守ってきたもの、クリスの守りたいもの、ぜんぶ僕らが肩代わりするから。だから、クリスは、自分のことを考えて」
マーラは、少女の頬を撫でた。両手で顔を包み込む。穏やかな緑の瞳が、彼女を見た。
嫉妬や欲望や、そんな「俗世」の感情を越えた先にある、何か。
好きな人の、好きだからこその幸せだけを願う、暖かな眼差しだった。
「幸せになってください。誰よりも、幸せになってください。この地上に生きる誰より、あなたは、幸せになる権利と、義務があります」
少女は、二人を見つめた。
優しく、彼女の背を押している大事な家族を見つめた。
目の前が何かで霞んだ。
「どうして、ここまでしてくれるの……?」
思わず、マーラと、コリュウは目を合わせる。
どうしてって、まあ。
ごく簡単なことで。
「クリスが大好きだからだよ」
「あなたが、好きだからですよ」
少女は俯く。
「……あり、がとう……」
それ以上の言葉は、いらなかった。
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