少女は、ゆっくりと、腕にかかったアランの手を外す。うなだれたまま、言った。
「……ありがとう、アラン」
少女は、顔を上げた。
逃げたいと思っていた。
いつの頃からか、深く胸に巣食っていた。
少女は天を仰いで、胸を開き、大きく呼吸した。
「勇者」という名声と期待。そしてその影で寄せられる心ない中傷が、いつの間にか、彼女に、逃避への渇望を育んでいた。
逃げたかった。
もう、何もかも終わりにしたかった。
……疲れてしまっていた。
今ならわかる。そんな自分の気持ちが、逃避であったと。
「……でも、私は冒険者をやめられない。だって――今、私がやめたら、誰があの子を助けるの?」
はっとしたように、アランは動きを止めた。
忘れるはずもない。
彼女にティルトを助けてくれ、そう言ったのは、ほんの少し前の、自分だ。
「今、あの子を助けられるのは、私だけだわ。あなただって……、あの子を助けたいでしょう」
アランは、頷くしかない。
「……ティルトは、弟、みたいなもので……、生意気なところもあるけど、素直で、可愛くて……」
魔族と人族という種族の違いはあれ、アランが本気で説教した時、ティルトはいつも素直に、大人しく聞いた。
種族の違いから来る考え方の違いも、逆に面白かった。アランは魔族の考え方をティルトから聞いて面白かったし、ティルトもそれは同じだったようだ。
「ええ。そうね。あなたがあの子を本気で可愛がったから、あの子はあなたのこと、本気で好きだったんだと思うわ。あの憑依者は、宿主の記憶と強い感情を共有する。彼は、あなたを攻撃できなかった。私のことは、何とも思っていないようだったのに。
求婚はしたけど、私への好意はただの上位者への好意、つまり錯覚にすぎず、あなたへの好意は、ホンモノだった。……そういうことよ」
少女は、共感を含んだ哀れみの視線で、彼を見下ろした。
「あの子を、助けたいでしょう? そして、同じ想いをして、私に依頼をする人が、たくさんいるの……」
大切な、誰かを助けてほしいという思い。そのために勇者にすがる人。
今なら、アランもその気持ちがわかる。アラン自身がそのひとりであるからだ。
そして、見知らぬ顔もない概念でしかなかった「勇者に助けを求める人々」なら切り捨てられても、それを己が身に引き寄せられては、同じように切り捨てることが、できるはずがない。
アランは髪を振り上げる勢いで顔を上げた。
「――でも! それじゃ君は!」
いつになっても解放されない。
今から百年経っても、魔物に苦しむ人々は無くなることはないのだから。
「わかってる……。わかって、いるわ……」
その顔に浮かぶ、透明な表情を見たとき、アランは悟った。
そこにあるのは、純度の高い諦観。
古来、神にささげられる定めの巫女が浮かべていたであろう顔。
己を縛りつける鎖を、諦めとともに受容した人間の、途方もないほど悲しい表情だった。
少女は思う。
アランへの恋は――結局のところ、逃げたいという想いが見せた、幻だったのだろう。
それを嘘だと言うつもりはない。
それもまた真実であり、彼女は、確かに彼が好きだった。今求婚されて、どうしようもなく心が揺らいでしまったぐらいに。
でも、迷いが生じたとき、目の前にいた人こそが、「勇者に助けを求める人」だった。
冒険者をやめろと、こう言ってくれるアランも――、あの子は見捨てられないだろう。
彼女に、自分でできることならなんでもするから助けてというだろう。
それを責めるつもりはない。人が、自分にとって大切な人を無慈悲に奪われ、他方にそれを助ける力のある人がいたら、すがりつくのが人情であり、普通なのだ。
誰でも、そうなのだ。
――そして、だからこそ、彼女は。
彼女は頭を振る。
一時の、儚く、美しい夢だった。
冒険者であることをやめ、勇者であることを捨て、ただの、一介のパン屋の妻になって、子を生み、育て、穏やかで平凡な生活をする、という、荒唐無稽な美しい夢だった。
結局のところ、彼女は、捨てられやしないのだ。
冒険者であることも、勇者であることも。
少女は、そっと、別れを告げた。自分に、一時ではあるが、違う未来を見せてくれた人へ。
「……さよなら、アラン」
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