その日の夜、少女は、とった宿の一室で休まず、剣を持って外を出た。
宿の裏庭に出て、コリュウが虚空から見守る中、鍛錬を始める。
絨毯の上で座っているだけの移動中はどうしても運動不足になってしまう。そのためもあって昨夜は中々寝つけずに困ったので、体をほぐすためにも運動することにしたのだ。
地面に落ちている石を拾い上げて、剣の腹で弾く。宙に舞った小石を剣の切っ先で突き上げる。頭上高く跳ねあがった石をコリュウが弾く。弾かれた石を少女がその場にとどまったまま剣の腹か、切っ先を使って返す。
コリュウがその翼を使って跳ね返す……。
一秒の間に三往復もする目まぐるしい石の応酬は、少女が石を手で受けることで止んだ。
「だれ?」
ぱしりと石を受け止め、少女が
誰何の声を放つ。
姿を現したのは、魔王だった。
「……鍛錬か? 遊んでいるのか?」
「半分遊び、半分鍛錬よ」
「そうか……」
魔王は少し考える様子だったが、口を開いた。
「そんなのでは碌に修行にならんだろう。稽古をつけてやろうか?」
少女はその青い目をいっぱいに見開いた。
驚いたが、考えてみれば、断る要素は何一つない絶好の申し出である。
「……いいの?」
「俺様も体がなまったのでな。ほら、魔剣は危なすぎる。木の枝だがこちらのほうがいいだろう」
魔王は庭の立木から抜き打ちで枝を二本切り落とすと、その一本を少女に差し出した。
それを、少女はすんなり受け取った。
魔剣は危なすぎる。
お互い、魔剣の主人同士だ。恐ろしいほどの切れ味を発揮するあの剣は、ちょっと触れただけで手足が落ちてしまう。
受け取った木の枝についている余計な枝葉を、魔剣をノコギリ代わりに使うという贅沢をしてサクサク落としながら、少女は言う。
「以前、私があなたと互角に戦えたのは、マーラの補助魔法があったおかげ。素の実力は、あなたより数段劣るわ。実際の実力差はどれぐらいかしらね。ふふふ、すごく楽しみ」
「……そこで物凄く機嫌が良くなるのが、おまえの変わったところだな……」
「うーん、人族だからかな? 高い目標が目の前にあって、それを超克することに、すんごくやり甲斐を感じるのよねー。あ、いま私、自分が人族だってすごく実感してるわ」
しみじみと少女は言い、同じように枝葉を落としていた魔王の準備が整ったのを見て、問答無用で打ち込んだ。
すっと魔王がその打ち込みを受け流す。
しかし木の枝に枝を当て、滑らせて受け流す動作の途中で、枝の節にあたって引っかかる。
力比べでは明らかに少女が不利。力押しになる前に剣を引き、引っかかった状態を解除する。
今の打ち込みでいつも使っている愛剣との間合いの誤差を認識。修正。
もう一度、魔王の間合いに踏み込み、剣を突きだす。軽く払われる。
急造の木剣ゆえの不備。先端が細く、重さのバランスも悪い。
今度は魔王が打ち込んできた。
速い。
でも彼女の目はもっと早いものでも捉える。
軽くよけ、魔王の体勢が崩れたところに一撃を送りこむ。かわせっこない、と思ったところに、一撃が来た。
先ほどの一打はフェイントだったのだ。
腕を打たれ、少女は枝を取り落とした。
こんな木の枝なのに、指先まで痺れた。
二三回掌を開閉し、少女は剣を拾い上げる。魔王も顎をしゃくる。
もう一度、だった。
通算で、二十戦全敗。とんでもないぼろ負けの数字だったが、少女は割合上機嫌だった。
「やっぱり体を思いっきり動かすのって気持ちいーな」
彼女と互角の戦士というと、みんな著名なパーティのリーダーや副リーダーをやっていて、遠方の地にいることがほとんどだ。いや、ひとり、ふらふら大陸中を歩き回っている人間がいるが、年に一回この地方に来ればいい方という人物だ。
明確に自分より強い相手と、殺し合いではなく思いっきり打ち合うというのは初めてで、とても楽しかった。
「こんな鍛錬が面白いのか?」
魔王は怪訝な顔になる。魔族は総じて体を鍛えるのに熱心だが、魔王にとって「強くなる」ことは嬉しくても、鍛錬自体は「つらくて嫌だけど強くなるために我慢する」ものだ。
魔王は少し考えると、おもむろに言った。
「俺と結婚すると、毎日できるぞ?」
「ううっ……!」
思ってもみない方向からの誘惑に、少女はもろに動揺した。そして、それに魔王も驚いた。
言ってみたものの、こんなことが今までの口説き文句よりも効果があるとは……。
いささか複雑な気分である。
「俺様はお前より強いし、お前が強くなれば俺だって嬉しい。いくらでも、相手をしてやるぞ?」
「うううううっ!」
更に追い打ちをかけられて、少女は誘惑に耐える。
頭上で浮かんでいる飛竜の幼生はそのやり取りを呆れながら見ていた。
コリュウとしては、魔王ならクリスと結婚してもいーや、という気分である。人族のアランに、一時はかっさらわれかけ、もう一緒にいられないかも……とまで思ったのだ。
魔王なら、クリスの側にコリュウがいても気にしないだろう。それだけの度量を彼は持っている。なら、変な相手……そう、異種族に偏見ありまくりの人族なんぞよりずっといい。
この心理状態を身も蓋もなくいえば、「最悪の事態になりかけて懲りたので、妥協をおぼえた」である。
「で、でもっ! こ、子どもはどうするのよ……」
魔王は少女を見下ろし、ぽつりと言った。
「……妃を持ったことのない俺が妃を持つとなれば、それが誰であろうと、貴族たちは諸手をあげて歓迎するだろうよ。ましてやお前は、強いからな」
この言葉は、意外だった。
この魔王には妃はいない。
これは、「今現在」妃がいないだけ、と思っていたのだ。
「妃、持ったことがないの?」
「即位してからずっとな。女に、そういう意味で本気で惚れたのはお前が初めてだからな」
「え……男は、好きじゃない相手とでも、そういうことをできるでしょう?」
男のそういった面について、遺憾ながら良く知っている少女は困惑した。
女性にとって好きでもない男と同衾するのは最高の拷問だが、男にとって好きでもない女と同衾するのは単なる娯楽だ。
「政略結婚とか……勧められたんじゃないの?」
魔族の至上命題は、より多くの、より強い同胞を誕生させることであり、魔族の頂点に立つ魔王ならばそれはもう義務といえる。
そろそろ夜陰がわずかな陽の残照も覆い尽くしていたが、魔族の魔王は夜目がきくし、少女も問題ない。虚空で傍観している竜族も同じく。
魔王は星空を見上げた。星を見て、何を思ったのか、昔話を始めた。
「ひとつ、昔話をしようか。俺様は一応貴族の家に生まれたが、傍流でな。ついでにいうと、弟の方が俺よりずっと出来が良かった」
「……」
「お前も知ってのとおり、魔族では嫡男かどうかは力が決めることだ。出生順ではない。俺は弟より劣った。勝負して負け、勝負しては負けた。最初に負けて以来、ずっと、俺は弟の影であり続けた」
「……」
「俺は弟を恨んだりはしなかった。勝負は正々堂々としたものだったし、力がない自分が悪かったのだしな。だが……父母の扱いは、屈辱だった。すべてが弟の二の次にされ、後回しにされた」
魔王はくくっと笑う。
「貴族とは名ばかりの、貧乏な家だったからな。食事に事欠くこともあった。そんなとき、弟は、優先的に食事を与えられた。ひもじい思いで腹をかかえる俺の隣でな。時として、弟はそんな兄を哀れんで、食事を恵んでくれたものだ」
「……」
「やがて家を飛び出すと、俺は自分の欠点を徹底的に研究して、結論を出した。弟と同じことをやっているかぎり、決して俺は弟には勝てん。攻撃魔法の魔力適性は弟の方が上だ。その上、弟は、努力家だった。同じことを同じだけ努力していては、生まれ持った素質が上の方が勝つに決まっている。――俺は、冒険者になることにした」
魔族はみな、若い頃は冒険者になる。一種の通過儀礼のようなものだ。
この冒険者というのは人族のように組織化され、冒険者ギルドに登録して依頼を受ける、というものではなく、勝手に冒険者と名乗って冒険をするのに近い。
つまり、家出したばかりの青年が「今日から俺は冒険者だ!」と宣言すればそれで魔族の社会では立派に冒険者である。
「俺は、魔族にしては回復魔法の適性に、さほどマイナスがかかっていなかった。そこに、俺は光を見出した。同じことをやっていては素質の差で弟に負けるのだから、違う事をやるべきだと思ったからだ。……俺は、回復魔法の習得に励んだ。魔族は生まれ持った適性が合わなくて覚えられない事が多いが、実戦で無茶な修行を積んだ結果、俺は何とか覚えることができた。すると――一気に強くなった」
そりゃあそうだろうと、彼女は思う。
多少攻撃力に劣っても、一度傷を受けたらそれきり二度と回復できないのと、回復魔法で回復できるのとでは、耐久力において雲泥の差がある。
「ひとつ、回復魔法を覚えると、ぽんぽんと勝てた。勝てたから、尚更強くなれた。魔族は、自分を鍛えることと、自分がどれほど強いかを確認することに熱心でな。頻繁に、力比べの闘技会が開催される。俺が地方の闘技会で勝ち続けると、噂が伝わったのか、両親から手紙が来た。弟と試合をしろという、な。勝った方を嫡子にしてやろうという笑止の内容だ。俺は破り捨てた。
魔族の社会では、勝って、勝って、勝ち上がった者には貴族の称号で遇する。その時はもはやすでに俺様は、自力で貴族の称号を新たに得られるところまで勝っていた。……それに、弟は真面目な努力家で、俺は弟の事が、あの家で唯一、嫌いではなかった。あの頃は、俺を哀れんで食べ物を分ける弟が、全身が燃えるほど憎くて仕方のなかったものだが……家を出て、外から見れるようになれば、弟は何も悪くないということぐらいはわかる。弟の地位を奪う気などなかったし、家のことなど、もはやどうでもよかった。そう思っていた。だが――」
魔王は、かぶりをふる。
「女を抱くと、子ができる。俺は、とうとう魔王にまでなったあと、『優れた血脈を残すため』に女をあてがわれた。そこで、悟った。女を抱けば、子ができる。商売女ならいい。単なる欲望の発散でしかない。だが、ここで寝台に伏せっているのは、子作りのための女だ。子を作ろうとしている女で、子ができる……と」
「――あなたは、それが、嫌だったのね……?」
黙って、話を聞いていた少女は、透徹とした声で言った。心の傷口の奥まで染みわたり、傷口を手当するような声だった。
魔王は、自嘲の深い表情を揺らす。
「……ああ。俺は、あの親の子だ。俺の子だというだけでは愛せん。強くて、俺に恥をかかせないほど強ければ愛せるかも知れんが、無条件では愛せん。俺の親のように、弱かったら捨てるかもしれん。俺は、俺の親のように、打算でしか子を愛せん人間だ。――だが、そんな親の下に生まれる子は、不幸だ」
魔王のように。
「……」
年相応の恋愛沙汰に夢見る乙女の精神と、多くの経験を積んだ思慮深い精神を、彼女は合わせ持っている。
後者の視点に立って、分析した理性が言う。――無償の親の愛情を受けられかった子どもは、無償の愛を知らない。
だから、親と同じことをしてしまうのではないかと予測し、恐れる。そして、救い難い事実として――実際に、往々にして、そうなってしまうのだ。
親の愛情を知らない子どもは、自分の子どもに対して、同じように遇してしまうのである。何故なら、彼らはそれしか知らないから。
それを薄々予測しているから、魔王は子を作ることに二の足を踏むのだ。
「俺は、俺のような気持ちを味わう子を作りたくはない。だが、俺は俺の子どもだという一点だけでは、愛せんのだ。だが、お前に惚れてわかった。俺は、お前の子ならば愛せるだろう」
魔王は、ふ、と笑う。
「結婚というのは実によくできた制度だと思ったぞ。一人では愛せずとも、愛する相手の子と思えば愛せるのだからな」
不意に、魔王は少女の両肩をつかんだ。
ちょっと待て! と逃げようとしたが、遅かった。澄んだ闇色の瞳が彼女を見下ろしている。視線にからめとられて、どういうわけか、体が動かない。
彼女が本気を出して逃げようとすれば、魔王も本気で拘束しているわけでなし、逃げられるだろうに。
「俺は、お前が好きだ」
おとがいに指をかけられた時点で何をされるかはさすがに判った。が、まだ体は動かなかった。
後で思えば、たぶん、魔王は、逃げる時間を与えてくれたのだろう。
ゆっくりと、顔が近付いた。
……コリュウはその一部始終を見ていたが、くるりと優美なその流線型の体を翻した。
空中を泳いで窓から宿の一室に入る。護衛を放棄してしまったけれど、一緒にいるのは最強者のひとりである魔王だ。問題ないだろう。
さすがに母親の情事なんて見たくない。
コリュウがベッドの上でとぐろを巻いて、いじけていると、意外にも早く少女は帰ってきた。
がんっと扉が開き、バタンっと扉が閉まる。
コリュウはむくりと顔を起こした。
少女は無言だったが、ずかずかとベッドに近づくと、コリュウを抱きあげて頬ずりした。
そのまま、背後のベッドに引っくり返る。
腕の中のコリュウは抱きしめられたまま天地が回転する。
「……どうしたの?」
少女は、うー、と、唸った。
「……アブなかった。流されるところだった。あぶなかった……」
「う、うん……、流されても、別にいいんじゃないかな……?」
少女はばんばんと寝台を叩く。
「よくなーい! 流されちゃだめなの! 毅然として断らないと駄目なの! 私は、誰とも結婚する気なんて、なんて、なんて……」
そこで首が折れた。
はい、すりすりされています。鱗なのでモフモフはできません。すりすりです。
「ね、魔王の事……きらい?」
「……ううううううう。嫌いじゃないのよ。だから困るのよ!」
「……あ、ごめん、忘れてた。大丈夫だった? 無理矢理とか、されなかった?」
コリュウは暗殺者のことばっかり考えていたが、よく考えてみれば、魔王と二人っきりというのはかなりマズイ。
普通の相手ならともかく、相手は魔王なんである。
少女はコリュウが見つめるなか、こっくりと頷く。
「……うん。大丈夫だった。キスはされたけどそれだけだったし……」
魔王の手が下がって胸を触られた時点でぞわっと悪寒がきて思わず全力で突き飛ばして逃げ出してしまったが、無理強いの要素は何もなかった。
「……はあ。だいたい、私は、結婚する気なんて……」
「なんで?」
「はい?」
「すればいいじゃん。結婚。どうして嫌なの?」
「……ン……とね、私、しばらくは、冒険者辞める気ないし……」
「辞めなきゃいいじゃん」
「……はい?」
「クリスは、冒険者やってたいんでしょ。魔王は別にそれでいいって言うと思うけど」
「……」
さいきん口が達者になった息子に、少女は頭を抱えた。
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