寝技は、抑え込まれる側の消耗が激しい。
魔王が一通り基礎の基礎を教えて体を離したときには、少女は立つこともできなかった。
前線の戦士職で小型のドラゴンとタメを張れる体力の持ち主である彼女が、である。
ぜいぜいげほっ……という荒い呼吸音が大気に響いている。
咳き込む音もまざるのは、抑え込まれて肺が圧迫されたためである。体を圧迫され、息ができなければ体力がどれほどあろうが急速になくなっていく。
自分の膨大な体力が、たったの数時間の訓練でなくなるとは我ながら衝撃だった。戦闘なら、三日三晩でもこなせる自信があるというのに……。
いままで寝技を軽視してきたのを反省する。
少女の、冷徹な戦闘者の視点がいう。
これは――下手したら、上級者殺しの定番戦法になりえる。
いかにして地面に倒すか、いかにして上級者の抵抗をねじ伏せるかの問題はあるが(たとえば彼女の暴れる手足に当たれば、普通の人間は吹っ飛ぶ)、技術的に上位にある者に抑え込まれたら、抜け出すのは至難の業だ。
ようやく息が整ってからも、少女はそのまま地面の上に身を投げ出していた。
体がくたくたで、それが逆に気持ち良い。
どったんばったんしている間に、周囲はすっかり暗くなっている。魔王も、少女も、闇を闇とも思わないので気にしなかったが。
ここは単なる宿の裏庭だ。これだけの間誰も来ないということは、魔王が結界でも張ってくれたのだろう。
――星、綺麗だなあ。
ぼんやりと空を眺めて光る星を見て思ったとき、さらりと前髪を撫でられた。
少女は目だけを上げて、そこに魔王の姿を見る。
「……髪も土埃だらけになっちゃった……。汚いから触らないで……」
土の上でごろごろ転がったのだ。惨状は推して知るべし。
全身土埃だらけで、特にその長い髪がまずい。
女を捨て、冒険者をするなかで、これだけは切れなかった未練の象徴がこの髪だ。戦闘で掴まれたら不利になるとわかっていても、切れなかった。
数回、髪を撫でて、魔王の顔が近づいてきた。
触れる、というところで――少女は掌でさえぎった。
「それはだめ」
「……なんでだ」
少女は、言おうと準備していたことを口に出した。
「昨日、流されて、誤解させて、ごめんなさい。私は、あなたと結婚はできないわ」
魔王は面白そうに少女を見下ろし、言う。
「――借りをつくるのは嫌いなんじゃなかったのか?」
「そ、れは……」
「授業料だ。キスさせろ。それ以上はしない。それでチャラにしてやる。我ながら、格安だろう?」
顔が重なった。
暴れる体力ももうなく……、仕方ない、と抗いかけた体から力を抜く。一度彼の妻になっているせいか、触れられることに抵抗は少ない。
仰向けに地面の腕に倒れる少女の上に、横から、覆いかぶさるように魔王がいる。
意外なことに、魔王がくちびるを押しあてたのは、額だった。
魔王は額、目蓋と順繰りに口づけた後、唇に触れるだけのキスをして、体を離した。
体を触ってきたら残る体力をかき集めて抵抗しよう、と用意していた少女は拍子抜けする思いだった。
怪訝な思いが顔に出たのか、魔王は笑った。やさしい笑顔だった。
「授業料はキスだといったろう?」
それはなんとも紳士的なことで。
少女は虚空に顔を向ける。
「……コリュウ」
「結界張ったからいないぞ」
「……じゃあ魔王、眠くて動けないから、お風呂連れてって……」
少女はこてんと眠りにつく。
「おい……」
魔王は目の前の据え膳をどうしようかと悩んだが、結局、ため息ひとつついて、抱きあげた。
◆ ◆ ◆
結果的には、美味しい展開にはならなかった。
移動するため結界を解いたとたん、矢の早さで飛竜が飛んできて少女を奪って逃げたのだ。
「……おい」
さっきと同じセリフを魔王は吐いたが、意味は微妙に違っていた。
結界の外で待機していたマーラとダルク、フィアルを見やる。
フィアルはともかく、他の二人は厳しい顔だった。
魔力は足し算である。
だが、マーラとダルクを足しても、魔王ひとりに及ばない。フィアルを足せば勝るが、フィアルは魔王の臣下である。
結界を壊そうにも壊せずに、仕方なく待っていたのだ。
「……お前ら、何か誤解しているようだがな」
自分の身の潔白を主張しようとした魔王を、マーラはかぶりを振っておしとどめた。変化の魔法をかけられた髪が揺れる。
「事情はだいたい、想像がついています。が――」
射る強さの眼差しが、魔王を見据えた。
温和なエルフ族の戦闘モードに、魔王は驚きを禁じ得ない。
笑顔で毒舌を吐く性格だと思っていたのだ。
「あの子は、嫁入り前の若い娘です。密室に何時間もこもったまま、他者の出入りをできなくするようなことは、二度としないでいただきます」
誘惑をなんとかしのいで紳士的な態度に徹した魔王はむっとした。
言語訳すると、「せっかく据え膳に手を出さねえよう我慢してやったってのに、なんだその態度は!」である。
しかしそこで、フィアルに袖を引かれ、囁かれた。
「……勇者さまは若い女性です。魔王さまの結界で閉め出されている間、お仲間の方々がどれほど心配されていたかをお考えください」
いみじくも、魔王が言った通り、少女は女なのである。
怒りはすっと冷めた。
これが男なら、同じ位の強さで、同じ位仲間に慕われていても、こうはならなかっただろう。
若い女性が、その相手に求婚している相手に密室に連れ込まれ、数時間も出てこなかったら……それは不安で不安で居ても立ってもいられないだろう。
そう考えて魔王は今の暴言を聞き流してやることにした。
「わかった。もう二度と、同じことはしない」
「あの子も、叱っておきますから。よろしくお願いします」
マーラは頭を下げた。
――そして、言葉通り、浴室から出てきた少女がマーラとダルクに説教されたことは、言うまでもない。
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