少女は、今日は事前に「魔王に教わりたい」と仲間に理を入れた上で、魔王に頭を下げた。
「今日も、教えてください」
それを見やる魔王はやや意外そうだ。
「授業料は、わかってるんだろうな?」
「うん……はい。キスでいいならいくらでも支払うから、教えてください」
神妙に、少女は頼んだ。
彼女も、考えたのである。
今回の依頼が終わった後に、忙しいなか時間を何とか捻出して誰かに教わるという方法もあるが、見知らぬ教師より、はっきり下心を公言していて代価を明言している魔王の方がずっと安心である。旅の間に教わる事ができることも大きい。
それに、口に出してこそ言わないが、少女は魔王を人間的に信頼していた。
今まで危険性に気づかなかったが、寝技は自分より強い相手を倒すためにあるような技術だ。
体力を時間経過でみるみるけずり、技術を研鑽すれば腕力の差をひっくり返せる上に、防御力無視ときてる。
どうやって彼女を転ばせるのかなどの問題はあるが、今の彼女の技術的に、熟練者に一度寝技に引き込まれたら絞め殺されて終わりだ。
自分の弱点に気づいたからには、それが致命傷になるまえに修正しないといけない。
彼女には敵が多く、敵だって馬鹿ではない。今は気づいていないとしても、そう遠からず彼女の弱点に気づいて、狙ってくるに決まっているのだから。
そのためなら唇のひとつやふたつ、安いもんである。
と、いうわけで、本日も立ち合ったのだが……。
「……きゅう」
一日目よりはマシだが、本日もいいように転がされ、抑え込まれ、絞められ、関節を痛めつけられた少女であった。
夕刻から練習を始めたので、身動き一つできなくなった頃には空はまた真っ暗になっていた。
引っくり返っていると、視界に魔王の顔が入った。
「……生きてるか?」
むに、と頬をつままれる。
「……生きてますう……」
「じゃ、報酬をもらうぞ」
顔が下りてきた。少女は目を閉じる。
「ん……」
唇をついばんで、温かいものは離れていった……が、少女が目を開けると、至近距離にまだ顔があった。
「……」
鼻息がかかりそうな超至近距離でじっと見つめられて、とりあえずもう一度目を閉じる。
が、何もないので開けた。
ここまでのやりとりで動けるぐらいの体力は回復していたので、たずねた。
「……ええと、立ち上がってもいい?」
こんな至近距離に顔があると、立ち上がろうとする動作で顔がぶつかってしまうのである。
「……………………おまえなあ」
「はあ。なんでしょうか」
教わっている立場なので、本日は丁寧語である。
「ちょっとは身の危険を感じろ。俺はお前が好きだと宣言している男だぞ?」
小首を傾げ、いっそ無邪気に、少女は断言した。
「だって、あなたはそんなことしないでしょ?」
ダルクが言ったような、口にするのも汚らわしい類の男が実在するのは事実であるが、魔王は違う。
その気があるのなら、昨日こそが好機だった。
今日は、結界もない。ふつうに呼べば仲間は来るだろう。
魔王は額に手を当てて、疲れた吐息をつくと、もう一度顔を寄せた。
「ちょ……」
「もう一度キスさせろ」
大人しく目を閉じた少女だったが――唇が重なって一分が過ぎて、びしばしと魔王の肩を叩いた。
「……なんだ? キスはいいといっただろう」
少女は取り戻した口で荒く呼吸をしながら言う。
「い、息ができない……っ」
「……ああ、そういえば、お前キスもこの前が初めてだったな」
妙に上機嫌になった魔王が息継ぎを教えると、少女はもじもじと、困ったのと恥ずかしいのとが半々、という様子でいう。
「は、鼻息がかかるじゃない……」
「……おまえ、ほんっとに、経験ないんだな」
どこか嬉しそうに、そして呆れたように魔王は言う。
よくもまあ、ここまで初心に生きていけたものである。それも、箱入りお嬢様などではない、世間の荒波をどんぶらこっことまとめて浴びて生きるような職業で。
これは、本人もさることながら、さぞかし周囲の人間が気をつけていたに違いない――と、昨夜のエルフの剣幕を思い出し、納得した。
――ちょっと待てよ?
そこで、魔王ははたと気づいた。
この少女は、彼とキスをするという意味を、判っているのだろうか?
……考えれば考えるほど、わかっていない気がしてきた。
単なる授業料という認識でいる気が、とてもする。
少し身を引くと、少女が上半身を起こす。
じっと見つめられて、居心地悪げに少女は身をよじった。
「……な、なに?」
その風体は酷いものだ。昨日の再現というべきか。
長い髪はくしゃくしゃで、体中土埃まみれである。
その長い髪につつまれた小さな顔を、両手でつつみこむ。大きな青い瞳が、彼を見返す。
「クリス。お前が好きだ」
その時、彼の知覚範囲に誰かが入ってきたが、外形からして彼女の仲間なので、無視した。
「俺はお前の、身も心も欲しい。お前に俺の妃になってほしい。そして俺の子を産んでほしい。俺がそう思っている事を、忘れるな」
もう一度唇を奪って、魔王は立ちあがった。
◆ ◆ ◆
残された少女は、しばらくぼんやりしていたが、近づいてきたコリュウに顔を上げる。
――そして、青ざめた。
耳は閉じられないのに、ぼんやりしていると話しかけられても気づかないことがある。
そして、同様に、彼女の知覚スキルは、ぼんやりしていると気づかない。そこにいる人物に、やっと気づいたのだ。
「だ、だだダルク……」
少し離れた位置から彼女たちを見つめていた半魔族の青年は、彼女の視線を受けて、踵を返した。
「……風呂、用意してもらってくるから待ってろ」
という一言を残して。
そして、コリュウもまた、魔王とのやりとりを見ていた。
「――ねえクリス、魔王と結婚するの?」
「だ、だから結婚する気はないんだって!」
「え? ……キスしてたよね」
どうしようもない居心地の悪さを感じながら、少女は弁解する。
子どもに恋人とのアレコレを見られた母親の気持ち、という奴だ。
「あ、あれは、魔王が、授業料だって……」
オントシ六歳の飛竜の幼生は、疑惑の眼差しを母親に向けた。
「……あの、クリス、わかってないの?」
「え?」
「魔王は、クリスの事が好きで、結婚したいんだよね?」
「う、うん……」
さすがに、あれだけ何度も言われればわかる。
「……ねえ、ボク、よくわかんないけど……、魔王は、もっと上を望んでいるんだよね?」
子どものコリュウは言えなかったことをダルクあたりが赤裸々に切り捨てるとこうなる――あいつがキスみたいな子ども騙しで満足するか。そのうち押し倒されるぞ!
これは魔王の意図を言い当てている。……と、いうよりも、魔王の意図するところに気づいていないのは少女ぐらいなものなのだが……キスで接触に慣らして少しずつやんわり口説いていこう、というのが、魔王の目指すところである。
少女は、真面目に考え込んだ。
魔王と、結婚する気はない。
……でも、魔王と、キスするのは、別に嫌じゃない。
これまで必死の思いで守ってきた純潔を捧げる気があるかといと、今のところない、のだけれど、近い将来もないままかというと…………。
試しに、コリュウに聞いてみた。
「ねえ、コリュウ。もし、私が魔王と結婚したら、どうする?」
「祝福するよ!」
「……マーラ、は……多分私が魔王を好きならってことで祝福してくれるよね。ダルクは――あれ?」
人は連鎖的に記憶を組み上げていく。その記憶の糸を辿っていくと、とんでもない記憶に辿りつくことも、時としてはある、かもしれない。
ぴきん、と。
記憶が積み上がるブロックの一つが外れて中身がこぼれ出た。
――俺はお前の、身も心も欲しい。お前に俺の妃になってほしい。そして俺の子を産んでほしい。俺がそう思っている事を、忘れるな。
思い出すだけで顔が赤らんでくる魔王の真摯なことば。
そして、それに重なるように、思い出しかけた言葉があった。
――お前が好きだ。
「……あれ?」
少女は頭を叩いた。
前に、誰かに、そんなことを言われたような気がするのだが……誰だったっけ?
魔王……ではない気がする。なんとなく、声の印象的に。こういう「何となく違う」は、大抵合っている。
でも、魔王とアラン以外に、自分に告白してくれた相手はいない。(これをマーラやコリュウが聞いたら、ため息をつくに違いない。かつて、彼女に婉曲な告白をした相手は、二ケタ近い)。
――しばらく彼女は思い出そうと努力したが、結局思い出すことができずに諦めることになった。
ダルクが聞いたら泣くにちがいない。
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