魔王がぎょっとした気配があった。
そして、焦る声が響く。
「おい、泣くな。泣くなと言っているだろう。泣く女は苦手だ」
「そんな……こと、言われたって……っ」
ぼろぼろと、止めようとしても止まらない涙をこぼす目を一生懸命こする。
とうとう涙を止めるのを放棄して、少女はきっ、と顔を上げると、魔王に叫んだ。
「なんとなく、わかっていたわよ!」
絶叫に、魔王の動きが一瞬止まった。
「肌で、なんとなく、感じてたもん! これはこのまま放置しておいたらまずいなって! 命取りになるなって! だから一生懸命頑張ったのに! 仲良くしようよってやったのに!」
少女が、魔族の国に行くと感じる一種の空気。肌が、ぴりっと帯電するような、あれ。
少女が、異種族の村に行くと感じる、同種の、もっと強い空気。
――警戒心と、敵意。
「異種族の味方ばっかりなんでするって言われて! あんたは人族なんじゃないのかって言われて!
走狗め寄るなって、聖光教会の馬鹿どもからは悪魔とか邪教徒とか言われて! それでも頑張ったのは、ぜんぶ、ぜんぶ、こうならないためだったのに!」
……いい気味だ。
いい気味だ。
いい気味だ。
さっき魔王が言った言葉が、ぐわんぐわんと頭の中を反響している。
「人族が滅んでも、手を叩いて喜ぶ種族ばっかでしょうよ! そりゃあそうでしょうよ! 私が四方八方調整して一つの種族をサンローランに招く間に、何千人の異種族を奴隷として市場に出荷してんのよ! 親兄弟さらわれたら、好意なんて持てるはずないじゃない!」
つぶしても、つぶしても、奴隷市場はできてくる。
幸いなことに、人族の間では奴隷売買は犯罪である。その国の高官が賄賂を貰って「暗黙の了解」のもとにやっている場合がほとんどだが、それを公然と言うことはできない。
それをいいことに、少女は奴隷市場を見つけるたびにつぶしてきた。おかげで奴隷商やら利益を失った高官やら奴隷を買っていた人間やらからは暗殺者がひっきりなしに届く有り様。
ちなみに、魔族の奴隷市場では事情がまったくちがう。奴隷はほとんどが本人自らやってくる。奴隷になれば、最低でも衣食住に困らないから困窮した者の最後の行き先なのだ。また、魔族の間では、奴隷から身を立てるのが一種の勲章で、力試しとして定着している。そのため、魔族の奴隷市場は国が主催する公的なもので、売買されるのはほぼ魔族である。
「どうしてみんな仲良くできないの! 簡単じゃない! 挨拶して、笑って、よろしくねって言って、相手の物を欲しがらなければ済むじゃない! どうして他人のモノを欲しがるの! 未開拓の土地だっていっぱいあるじゃない! そっちいけばいいじゃない! 人が苦労して開拓した土地をよこせどっかいけなんて何で言えるの! それで嫌だって言ったら戦争して生き残りは奴隷商よ。そんなの仲裁求められたって、あんたが悪いとっとと人の土地から出て行けとしか言えないわよ! なんでそれで私が責められるの! 異種族の味方したって責められるのよ!」
積もり積もった鬱憤の全てを吐き出すように、彼女は叫び続けた。
「そんなことやっていればそれは嫌われるわよ! 孤立するわよ! 聖光教会なんて大っきらい! あの教義で自分を正当化して、異種族を殺して子どもを虐待して売り飛ばして大っきらい! 邪教徒? はいはいそうでしょうよ! 聖光教会なんて死ぬほど嫌いよ! 死んだってあんな宗教に入ったりしない! なのにどうしてその宗教じゃないからって責められるの! あんなの最低の私利私欲宗教じゃない! 奴隷商からどれだけ賄賂もらっているか、知ってるんだから! 尊敬なんて死んでも無理に決まってる! いつか神罰が下るとか言ってたけどおあいにくさま、ぴんぴんしてるわ! でも、言ったことは当たったわね! やってきたことの報いは、いつか、必ず巡ってくるって、言った通りになったわよ! 見てみなさいよ! ……人族には、どこにも、味方がいないじゃない……」
突き動かした癇癪が萎れて、少女はその場にしゃがみこんだ。膝に顔を埋める。長い髪が膝からこぼれ落ちて、地面に触れた。
……どこにも、味方がいない。
それが、彼女の同胞がしてきた所業の、結果だった。
膝を抱えて顔を押しつけ、嗚咽する少女に、弱りきった魔王が声をかけた。
「クリス……そう泣くな」
「……泣いてないわよ。どっかいってよ」
そうは主張しても、鼻をすすりあげる音と涙に震える声ばかりは止めようがない。
泣いていることはばればれで、魔王は困ってしまった。
地面に広がる髪を踏まないよう慎重に隣にしゃがみこんでその頭を撫でた。
「……」
なでなで。
なでなで。
黙って撫でられていると、止まらなかった涙は、ますます出てきた。
人の優しさが、涙を止まらなくする。誰も人がいない場所では、涙も長続きしないのだ――。
涙とは、助けを求める叫びなのだから。
それでも顔を上げずにいると、声が降ってきた。
「クリス。俺はお前が好きだ」
胸に染みいるような、優しい声だった。
「お前のその生き方が好きだ。不器用で、損ばかりしているのに、生き方を変えようとしない頑固なところが好きだ。人から何と言われようと、出自を知っていても、変わらず毅然として己の種族に誇りを持っているところが好きだ。あの時、俺様に対して、己の種族を誇ってみせた姿は、誰より誇り高かったぞ。自分たちは一から全てを獲得した種族なんだと、お前は、魔王である俺様に対して、そう主張してのけただろう?」
魔王は確信している。
彼女が、そのことに少しでも引け目を持っていたら、彼女はこうまで卓絶したカリスマ性を発揮することはなかっただろうと。
誇りを知る女。
魔王が彼女に抱いている印象は、それだ。
いったい、どこの誰が、自分のことすらも大切にできない人間が、他人を大切にしてくれると思えるだろう。
いったい、どこの誰が、自分の種族を誇れない人間が、他人の種族の誇りを守ってくれるだろうと思えるだろう。
彼女は、己の出自を、種族を知りながら、卑下したことも、唾を吐いたこともなかった。
そうしたことは、自然と伝わる。自分の種族に劣等感をかかえていれば、腐臭がする。卑屈さは高く香る。なのに彼女にそれは無く――その態度に感銘を受け、信頼に値すると、警戒心の強い人々は思ったのだ。
彼女が真実を知っても首尾一貫、胸を張り続けたから彼女は輝いた。多種族を糾合できるほどのカリスマ性を発揮でき、多くの種族は彼女に希望を見出した。多種族が共存する町の、シンボルとなることができた。
彼女が己の種族を愛し、誇りに思っていたからこそ、それができたのだ。
そして、魔王にとっても……彼女がそのことを、卑屈に負い目に感じているようであれば、惚れたりはしなかっただろう。
己の種族を卑下しているような人間はろくなものではない。卑怯な女は嫌いではないが、卑屈な女は嫌いだ。自尊心のない者を好ましいと思ったことはない。
最初の対戦。どこまでもくっきりと誇りを宿すあの瞳を、好ましいと思ったのだ。
しゃがみこんで、膝に顔をうずめたままの少女に、魔王は何度目になるかわからない告白をする。
「俺はお前が好きだ。結婚してほしい」
魔王は卑怯な女は嫌いじゃないです。権謀術数でのし上がって自分の側まで来た女性など、むしろその力量に感嘆し、相応の地位を与えます。
でも、卑屈な女性は嫌いです。かつて彼もいじいじしていた人間で一念発起して努力したせいか、卑屈な女性は嫌いです。……これは魔族全体の傾向でもあって、卑屈な人間はこのまれません。
だから、謙遜はしないのです。誰も。
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