その日、サンローランの町の一隅で、とんでもない人物によるとんでもない頼みごとが炸裂した。
「お、女将さんっ。ね、閨の作法を教えてくださいっ」
――こんなことを、突然言われることになった人物こそ哀れであった。
いやまあ悪い予感はしていたのである。
町一番の有名人が、折り入って相談があると言って押しかけてきて、人目をはばかる様子で部屋に入って自分と二人きりになり、そうして頭を下げられて言われたのが前述の言葉である。
そう言った少女は可愛かった。滅多に見ない上玉と言っていい。背はすらりと高く、長い黒髪は艶々していて、そして――この町の、事実上の主である。
名を、クリス・エンブレードといった。
「……いったい、どうしたんだい?」
「そ、そのお……」
もじもじと、両手を絡ませながら、羞恥でいたたまれない様子で言う。顔は赤く染まっていて、なんとも可愛らしい。
「け、結婚、することになったんですが」
「結婚!」
一声上げてしまったが、よくよく考えてみれば慶事である。彼女はもう十八。結婚適齢期もすぎる年だ。
この町の誰も彼女に結婚して「誰かの嫁」になるなんて求めておらず、立場が立場なのでだーれも気にしていなかったが、そういえばもう十八なのである。結婚したいのなら急いでしないといけない年頃だ。
この町の長だからといって、普通の女の幸せを捨てなきゃいけないっていうものでもないだろう。
驚きはしたものの好意的に、宿の女将はうんうん頷いた。
「私、その……男性とそういうことを、したことが、なくて……」
「つまり、生娘なのかい?」
少女は耳まで真っ赤になり、俯いて頷いた。
「…………はい」
これは、意外だった。
「はああ……」
女性の冒険者として旅をしながら過ごしてきた少女なので、とっくに……と思っていたが、そんなこともなかったようだ。
「け、けっこん、するっていうことは、そういうこと、しなきゃいけないですよね」
「そりゃあそうだろうねえ」
「わ、私、そういうの、何すればいいのか……ちっとも知らなくて。さ、さほうというか、何をすればいいんだろうっていうか」
思い悩んで、彼女のところに来たらしい。
宿屋を営む彼女はもう四十もすぎた熟女で、子を十人も生んでいる。五人はもう墓の下だが、残りはりっぱに育てあげてもう大人だ。彼らの年といえば、この子よりもまだ上だろう。そんな酸いも甘いも知る子育ての熟練者である彼女になら、聞けると、思ったらしい。
「……相手の男は、知っているのかい? その、あんたが未経験だって」
「はい」
「相手の男は、どうだい? 経験豊富そうかい?」
「……はあ、私よりはずっとだと思います……」
宿の女将は、にっこりと笑って背を叩く。
初めて同士だと失敗多発だが、処女と童貞ではなく、片方が経験豊富ならなんとかなる。
「だったら大丈夫だよ! 男に任せてりゃいいさ。相手の男だって、初めての娘に何も期待しちゃいないよ!」
「えーと、じゃあ、寝転がってされるがままで、いいんでしょうか……?」
「それでいいんじゃないかい? 大丈夫大丈夫、あっちが全部勝手にやってくれるさ。任せておけばいいんだよ」
少女はほっと――張りつめていた肩から目に見えるほど力を抜いた。
「あのお……それで、その……私は、すごく怖いんですが、女将さんは、そうじゃなかったですか?」
初々しい。
もはや感心するしかない甘酸っぱい気持ちになる。
はて、ずうっとまえ、初夜におびえる自分はこんなだったかと思いだしたものだ。
「そりゃあ怖いよ。でも、相手は好きな男なんだろ?」
「……はい」
「だったら目をつぶっていちゃいちゃしているつもりで任せてりゃいいんだよ。一度やっちゃえばそんなの全然平気だってわかるんだからさ」
「そ、それなんですが、実は私、男に襲われかけた事が山ほどありまして……」
さすがに、真顔になった。
「もちろん、ぜんぶ撃退したんですけど、その、記憶を、ちょっと、思い出しちゃって……怖くなってしまっているというのも、あるんです。その、今度結婚する相手に、結婚を承諾したときに、ちょっと押し倒されたんですが、無我夢中で抵抗してしまって……。い、一度すれば、怖くなくなるモノでしょうか」
女将は頬に手を当てた。首を傾げた。そして、言った。
「……だいじょうぶだったかい? その相手」
彼女の馬鹿力を知る者としては、そこが気になってしまった。
「……はい」
少女にもその心配は伝わって、しょんぼりと頷く。
「私より、ずっと強い人なので……」
驚きに目を見張りつつ、女将は頷いた。
「そりゃよかった。じゃあ、それも含めて言っておけばいい」
「言う……ですか」
「そうさ。恋に恋する、じゃないけどね、似たようなものだよ。怖いからもっと怖くなるんだ。あんたを襲った男と、恋仲の男は、違うだろう?」
「ぜんぜん、ちがいます」
むきになって否定する様子に、ほっとする。気持ちがあれば、だいじょうぶだ。
「なら、なーんも問題ない。あんたは恐怖に恐怖して小さくなってるだけだ。できるだけパニックにならずに冷静に冷静に、って頭の中で唱えて、後は相手に任せておけばいいのさ。どうしてもダメそうなら、相手の男にも言っておけばいいのさね。抵抗しちゃうかもしれないけど、気にしないでってね。一度だけでも完遂しちまえば、そんな怖いことなんて無くなるから」
少女は気負い込んだ顔で頷いた。
「わ、わかりました。とにかく相手に任せて、寝転がっていればいいんですね」
「そうそう。生娘に誰も高望みなんてしやしないさ。やってるうちにだんだんやり方を覚えて行くもんなんだから」
「そ、そうですよね」
『先生』に、心温まる励ましをもらい、大分楽になった心地で少女は家路を歩いていた。
自分が純潔を守るために一体どれだけ血を流してきたかはさておくとして。
世の中の大半の女性は苦もなくしていることをするのに、どうしてこんなに怖気づいてしまって苦しむんだろうと思うのだけれども、やっぱり怖いもんは怖いし、怖いのである。
「……やっぱり襲われかけたせいかなあ……」
女性の冒険者には、身の危険が付きまとう。それが、年若い少女なら尚更だ。
暴行を受けかけた回数は、もはや数えてもいない。二桁の後半ぐらいはいっている。
少女は天を仰いで息を吐き出す。……思い出したくもない記憶の数々をつい思い出してしまい、滅入った。
親の決めた相手と十代のうちに結婚し、たくさん子どもを産む。十人産んで、普通は二三人、五人育てばいいほう。ほとんどは疫病や魔物で死ぬ。そして、子どもを育て、家事をして家の切り盛りなどもしながら一生をすごす。それが普通の人族の女性の生き方である。
その道筋から外れたのが彼女だ。
冒険者になり、自分で自分の口を購えるぐらいになり、やがて大陸でも有数の冒険者になり、町をひとつ作り上げた。
その過程で山ほど貞操の危機はあったものの、すべてを切り抜けて純潔を守った訳なのだけれども……。
そこまではいいのだ。問題ないのだ。
でも……結婚。結婚である。
「冷静沈着でいるのは処女には壁が高いんだよお!」
部屋に戻って、コリュウを抱きしめて少女は叫んだ。
そのまま、広い寝台の上をごろんごろんごろんごろん。
腕の中に抱きしめられているコリュウも、一緒にごろんごろん。
「……クーリースー」
さすがに恨みっぽい声が出る。
「どうしてみんな簡単にできるのよー。私のせい? 私が特別へんなのかっ」
しくしくしく、と少女は自分への情けなさに泣き言を言ってしまう。
人族の女は身持ちがかたいので、初夜の晩が文字通りの初夜であることが多い。
夫婦になった相手がナニをするわけで、そこにやましいことなど何もないのだが、少女は心理的葛藤を前に身悶えていた。
「……あのさあ、クリス。魔王のこと、きらいなの?」
「きらいじゃないよー。好きだよー」
「政略結婚とかでさ、ぜんぜん知らない、会ったこともない上に好きになれない人と結婚しなきゃいけない人とか、いっぱいいるよね?」
「うん、いるねー」
少女のところにも見合い話はごちゃまんと持ちこまれた。
なんといっても彼女はまだ十八歳の年若く、可愛い女の子で、町ひとつの実質的長である。
彼女一人押さえればサンローランを手に入れたに等しい。そう考えた人間たちから求婚はそれこそわんさか来た。
「そういう人と結婚するより、ずっといいんじゃないかな?」
「うん。そうだと思う」
クリスはすなおに認めた。
「でも怖いんだよー。馬鹿でみじめで阿呆だと思うけど怖いんだよお!」
こんな姿はとても人前では見せられません。
なので、部屋にこもって、コリュウにだけ、見せている。
どうにも歯が立たない己の弱さを前に、勇者はじくじくいじけていた。
「なんでこんなに怖いんだろう……」
「ボク、よくわからないけど……、クリスは、戦場に出るときより怖いの?」
「……うん」
男には永遠に判らない心理だろう。命のかかった戦場よりこわい、なんて。
自分でも不条理だとは思うのだが、怖いもんは怖いのである。
「……クリスは、自分を殺そうとしている刃物を持った人間は怖くないよね?」
想像してみる。
剣を持った剣士が目の前にいるとしよう。相手がこっちを殺そうとしているとしよう。
「――うん、怖くないなあ」
「死体を見ても怖くないよね?」
想像してみる。
いままで見た中で一番ひどかった惨殺現場(描写は自制)。
「――うん、怖くないなあ」
「魔物を見ても怖くないよね?」
想像してみる――以下略。
さすがのコリュウも呆れた声を出した。
「なんでそれで、結婚だけがそんなに怖いのさ?」
「それが自分でもわからないから駄目駄目なんだよーっ」
何やらワケノワカラヌ恐怖があるのだ。正体がわからないので、始末に悪い。
コリュウは醜態をさらす少女をやれやれと見やり、口を開いた。
「……そんなに嫌なら、結婚、やめる?」
はたと、醜態を止めて、少女はコリュウを見た。
「クリスがそんなに嫌なら、ボク、結婚式がご破算になるよう、がんばるよ。みんなも、クリスの事だもん、協力してくれると思う。今なら、まだ、頑張れば何とかなると思う。クリスの手首のそれだって、皆に相談すれば、道が見つかるよきっと」
少女は――、がっくりと、首を垂れた。
なんたることだ。
ああなんたることだ。
可愛い息子に、こんなにも心配させたことを、彼女は恥じた。
そりゃあ普段魔物の群れにも先頭切って突っ込む女がこんなにびくびくしていたら、心配するだろう。
「……誤解させて、ごめんね。結婚は、やめる気ないの」
それは本当。
やめる気は、ないのだ。……ただ、怖いだけで。
それでも呼吸を整え、掌を前に突き出して聞いた知識を元に分析する。
「女将さんが言うには、これは、まあ、初夜を迎える前の女性の心理として、さほど珍しくはないもので、とにかく情緒不安定になりやすくて怖がるのも普通のこと、なんだって」
「じゃ、結婚しちゃえばおさまるんだ?」
無邪気に言ってくるこの、この、この子の言葉が、胸に痛い。
結婚式までどれだけあると。
「……精神修行の道場とかあったかな?」
いわゆるZENとかいうやつを習得してみたら、この情緒不安定はおさまるかもしれない。
溺れる者は藁をもつかむ。
そんな事まで本気で検討してしまう。
「……おっかしいなあ……覚悟はできてたつもりなんだけどなあ……」
女性が戦場に出るというのは、そういうことである。
野卑な言葉を投げかけられたことは、百や二百では済まないほどだ。
少女もまた、覚悟していた……ハズなのだが。
「……あのね、コリュウ。私、たぶん戦場で捕まったら、それなりに、物分かりよく覚悟決めて諦められていたと思うんだよね……。でも、どういうわけか、魔王と結婚すると思うと、のたうち回っちゃうの。なんでだろーねえ……」
そういえば、とコリュウは思い出した。
魔王から取引を申し出られたとき、すぱっと少女は即答で受け入れた。
その後も、従容として運命を受け入れていた。無理して魔王城を脱出しようとはせず、妃としての役目を果たそうとしていた。魔王が彼女に伽を命じても、彼女は黙って大人しく従った。
彼女自身、己の醜態に納得できない様子で、少女は頭を抱える。
「……わたし、精神的に、お子様だから……」
それはそーかも、とコリュウも思った。
冷徹に人を断罪できる成熟した大人の部分と、こうして初めての経験に狼狽する未成熟の部分が彼女には共存している。
さて、『大地の勇者』と魔王との婚姻ともなれば、タダではすまない。
というより、済ませる気が、一部の人々には、毛頭なかった。
魔王の求婚を受諾した時、少女はそんなことを考えてもいなかった。せいぜい人族の結婚式のように、教会で夫婦で名前を書いて宣誓して終わりかな、程度に思っていたのだが、とんでもなかった。
長年苦楽を共にした仲間に、誰より真っ先にその選択を伝えたとき――。
涼やかに、告げたのはマーラだった。
「では、結婚式の準備をしないといけませんね」
「え?」
「我がエルフ族が、総力をあげて数々の品を作り上げています。よもや、それを無駄にするようなことはしませんね?」
「あ、あの、マーラ?」
「あなたが助けた種族がそれぞれ秘蔵の品を提供してくれました。ちょっと時間がかかりますが、エルフ族の最高傑作をお目にかけましょう」
「い、いや、最高傑作ってそれ今私が身につけている装備のことじゃなかったの!?」
「いやですねえ、時とともに最高点は移ろうものですよ。あなたの装備はその時点での最高傑作。これから作るあなたの嫁入り道具は、それをも凌ぐ現時点での、最高傑作です」
そんなのいいよ! いらないってば! もうじゅうぶんだよ!
そう言いたかった。切実に。
でも、付き合いの長い彼女は、マーラが言うだろうことを想像できてしまった。
彼は、にっこり笑ってこう言うに違いない。
――私たちに、最後の恩返しの場所をあたえてくれないつもりですか?
と。
いつの間に連絡をとっていたのやら。
サンローランに帰る前からこの町に住む各種族は力を合わせて製作に入っていた。帰りついたときには製作の真っ最中である。
花嫁衣装と花嫁道具の製作に時間がかかるため、結婚式は四か月後とされた(即座に結婚式を挙げたい魔王とマーラの間で少々のやりとりがあったが、割愛する)。
ついでに、各国の王族にも招待状をバラまいた。
そうして、質素な、署名だけの結婚式を想定していた彼女の意図とはまったくちがう、壮麗で豪華絢爛たる結婚式の準備がちゃくちゃくと進んでいたのである。
サンローランの町で、丸くなる少女を置き去りに。
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