クリスだって、自分が魔王に相当な譲歩をさせていることは、自覚があるのである。
炎神の御座で、魔王の部屋を訪ねて「求婚を受ける」と言ったとき、魔王は数秒、無言だった。
そして、側に控える忠実な側近に言った。
「下がれ」
「はい、我が君」
幾分嬉しそうな気配を滲ませて、フィアルが部屋を出る。
結婚するわけだし、二人きりでこれからの予定とかを話し合うんだろーと暢気(のんき)にそれを見送っていたら――押し倒された。
「ちょっとま! ちょっ、まって! 待った、待って! 結婚してから! 人族は結婚してからなのっ!」
必死に押し返すと、魔王はちっと舌打ちしながらも離れた。
その表情が変わったのは、少女を見てからだ。
少女は乱された衣服を手で押さえながら寝台の上に体を起こし、震えていた。
顔面は蒼白で、この豪胆な少女が怯えていたことを雄弁に示している。
「……悪かった」
素直に謝罪の言葉が転がり出た。
魔王が手を伸ばし、あちこちに散らばった長い黒髪を整えていると、声がした。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな、小さな声だった。
「俺が、嫌いになったか?」
一番の懸念を問うと、少女はかぶりを振った。そしてたずねた。
「魔族では、婚前交渉が普通なの?」
「ああ」
「人族では、結婚する前に交渉を持つことは、ふしだらとみなされるわ……」
「ふしだら? なんだそれは。不貞という意味か? お前は俺と結婚するのに、なぜだ?」
魔族は直球勝負で物を言う。よって、論理的に整合性のない習俗はない。
少女もうっと詰まった。
建て前では婚前での関係は糾弾の対象だが、それも場合による。結婚が決まった男女が多少早く臥所をともにしても、あれこれ言う人間は少ないものだ。
「……結婚は、相手が不慮の事故で死んだりで、破談になることもあるでしょう? 人族は一度純潔を失えば、女性としての値打ちは無に等しくなるから、婚姻後にしているの……」
「なるほど、わかった」
魔族との話し合いでは、論理で話をすれば相手は折れる事が多い。
直球勝負なぶん、物わかりが悪い種族ではないのだ。その点をわきまえて語った少女の言葉に、魔王は頷いた。
「異種族婚では歩み寄りが必要というからな。お前が結婚後にしたいというのなら、いいだろう。さんざん待たされたんだ。この上少々待つぐらいは構わない。が――」
すっと、髪の隙間に差し入れるように、頬に手を添えられた。
少女は魔王と目を合わせる。驚いた。
憤りや苛立ちなどのマイナスの感情があるとばかり思っていたが――、魔王の瞳には、優しい光だけがともっていた。
「お前にも、歩み寄ってもらうぞ。これだけは聞く。――俺が好きか?」
「…うん。あなたが、好き……」
素直に頷けたのは、その優しい眼差しのお陰だろう。
自分が、魔王の、男としてのプライドを傷つける行動をしたという自覚はある。
普通の男なら苛立ちを彼女にぶつけるだろう。
魔王は笑った。
側近のフィアルが見たら、砂を吐くに違いない。とろけるような笑みだった。
「嬉しいな……とても、嬉しい。恋が叶うというのは、こういう気持ちか」
魔王の声を聞いていると、少女の頬が自然に赤らんでいく。そして、先ほどの粗野な行動で傷ついた心も、癒されていった。
……怖かった。抗ってもびくともしない男の力というものを感じたのは、初めてだった。
男に襲われたことは何度もある。けれど、ほんとうの意味で、「男」に襲われたことはない。
彼女は、彼女より弱い男に襲われたことしかなかった。
女の力ではかなわない「男」という生き物に襲われたことは、一度もなかったのだ。幸運というべきだろう。
初めて、襲われる女性の気持ちが、わかった。――そう思うとともに、魔王への好意も冷め気味だったのだけれど、今の彼女はそれを許容して、魔王の事も好きでいられる。
嫌だと言ったら止めてくれたし、彼女の我がままとも思えるお願いを受け入れてくれたから。なにより、おびえていた自分を優しく宥める言葉をくれたからだ。
もし責められたら、あっという間に好きが嫌いへと変化していたかもしれない。
恋って、怖いなあと、思う。
以前マーラが言った通り、お互いに努力しないと、すぐに気持ちが変わってしまう。
好きから、嫌いへ。
フワフワしたシャボン玉のように、どこに行くのかもわからず不安定。
――でも、いま、自分は魔王の言葉がとても心地いい。それは、そういうことなのだ。
魔王は彼女にキスをすると、もう一度聞いた。
「――クリス。もう一度、今度は名前で呼んで言ってくれ」
「うん。魔王、あなたが、好き……です」
少女は本人に面と向かって言う恥ずかしさに真っ赤になって俯いたが、呆れたような魔王の答えに顔を上げた。
「……それは、俺の名前じゃないぞ?」
「え、えーと」
名前、なんだっけ?
聞いたはずだが、長ったらしい上にいつも「魔王」と呼んでいたので実は覚えていなかったりする。
それを彼女の表情で察したらしく、魔王は呆れた様子で言った。
「……お前という奴は……。オーバルナイト・エデンだ。エデンでいい」
「ん? 名前がエデンなの?」
「いや。お前と同じく、自分で決めて、自分で勝ち取った姓だ。愛着があるんで、そちらで呼んでほしい」
「うん、わかった」
クリス・エンブレードは、元は姓をもたない農民だった。
その姓は、とある王国で功績を立て、叙爵される際に、自分で考えて付けたものである。ちなみに領地はない。名誉と爵位と報奨金のみの、一代貴族だ。
「私は、エデンが好き……だよ」
少女が、羞恥に全身を朱に染めながら言う姿は、文句なしに可憐だった。
魔王は迷うことなくその細い体を引き寄せ、抱きしめた。髪の間に指をさし込み、そのさらさらとした細い感触を味わう。
少女の体は鍛えてはいるが彼と比べれば充分に柔らかく、体全体でその柔らかさを堪能する。
少女は腕の中で、魔王を見上げる。
「……ねえ、魔王……じゃなかったエデン。私ばっかり、言わせてずるいよ。あなたも言って」
「俺はお前に散々言ってきたような気がするが……まあいい。クリス。お前が好きだ」
うぎゃあ。
自分で要求しておきながら、少女はゆでダコのような顔になった。
甘い。甘すぎる。極甘である。
そして、少女は悲しいほど、恋愛沙汰に耐性がなかった。
以前魔王やコリュウが心配したように、少女は、魔王の「好き」、という言葉の意味を、本当にはわかっていなかったのだ。
そもそも魔王相手には、体に触れられることへの抵抗が少なかった少女である。これは、一度彼の妃になって、口づけられ、ほぼ全裸に等しい状態を見られた、普通ならそこで伽を命じられていた、ということが関係している。
魔王の気まぐれ(と、救いがたい事に彼女は思っている)で解放されたものの、本来なら彼女の純潔はそこで散らされていた。キスもされたし、全裸も見られたし……ということで、心理的抵抗が少なかったのだ。
が。
さすがに、この状況である。
抱きしめられ、自分で愛の言葉を口にし、相手からも同じ言葉を返される、という状況に至って、ようやく、遅れに遅れていた認識が追いついたのだった。
……天下一品の鈍さだと、いっそ褒めてやりたい。
→ BACK→ NEXT
- 関連記事
-
スポンサーサイト
Information
Comment:0