遅れていた認識が、そのツケを取り戻すようにいっぺんに押し寄せた。
その結果、少女はのたうちまわることになったのだが……、体はがっちりと抱きしめられていて動けない。
そのぶん、頭の中でのたうちまわることになった。
くるくると変わる百面相を、魔王はしげしげと、完全に面白がりながら見ていた。
もちろん少女は見せまいと俯いているのだが、そんなの角度をちょっと工夫すれば、見えてしまうのである。
見せたくなければいっそ完全に魔王に抱きついて胸に顔を埋めてしまうのが一番なのだが、なんせ彼女は現在魔王の腕から離れたくてじたばたしていたので、そんなことは思いつきもしない。
「……魔王、離して……」
とうとう、少女は魔王に頼んだ。
のたうちまわりたいのである。一人で部屋に閉じこもって、思う存分自分の恥ずかしさを発散したいのである。心の整理を付ける、時間が欲しかった。
「離してやってもいいが、約束しろ」
「約束?」
魔王は、魔力を込めて声を発した。
「お前は、俺と、結婚することを承諾した。間違いないな?」
「う、うん」
その場にマーラがいたら、止めていただろう。
しかし、残念ながらこの場には二人以外誰もおらず――契約の成立に充分な言葉を、彼女は口にしていた。
シュンッ!
「きゃっ!」
少女が可愛い声を上げて手を引く。ここまでは予想通り――が、相手は経験豊富な戦士である。反応が魔王の斜め上だった。
何か不測の事態が起こった、とにかくここから離れるのが先決だと一瞬で判断し、狭い空間で体をねじり、地面を蹴り上げ、体を縦に一回転させたのだ。
「――つっ!」
したたかに顎を蹴りあげられ、さすがに魔王は手を離した。床に膝をつく。
反射的に体の命じるままに動いた少女は青ざめた。
「あああっ! ご、ごめんなさいっ!」
嫌味を言われたからと言って、ナイフを持ち出して刺す人間は、頭がおかしいというべきだ。
自分が何をされたかも自覚が無い少女は、とっさとはいえ、魔王に過度の暴力をふるってしまったことに必死で謝った。
魔王でよかった、というべきで、一般人が彼女の蹴りを頭部に受けたら普通は頭が木端微塵に吹っ飛ぶ。
「ごめんなさいごめんなさい、大丈夫!?」
自分のしたことに自覚のある魔王としては、緊急回避のために全力を無自覚で振るってしまったことに謝罪する少女の姿は少々胸が痛い。
顎に手を当て、回復呪文をかけながら魔王は言う。
「……問題ない。それより、手を見ろ」
少女が手を見てみると、黒い痣のようなものが二本、螺旋状に手首に巻きついていた。
「……なにこれ?」
「さっき、お前は結婚を承諾しただろう? その証だ。……人族の言葉で言えば、結納の証明? のようなものか」
魔力が無い少女はじっと手首を見る。
魔力はないが、洞察力はある少女は、魔王の態度や先ほどの現象から、おおよそのことを感じ取っていた。魔力を感じるのではなく、あくまで目に見える現象から。
もっとも……彼女でなくとも、普通に敏い者なら察するだろう。
「ね、これ……私が結婚しない、って言い出したら、相応の罰が落ちるやつよね?」
「そうだ」
魔王は誤魔化さず、頷いた。どうせ、エルフに見せたらすぐに判明することだ。
「結婚式あげたら、消える?」
「ああ」
「――じゃ、あなたがやっぱり結婚やめると言ったら?」
意表を突かれて、魔王は黙った。彼にしてみればあり得ない話だったので。
だが、はたからみれば、決して、低い可能性ではない。
魔王が、人族の女を、妾妃ならともかく正妻として娶るなど前例がない。前回、魔王が彼女を妃にしても反発が無かったのは、彼女が「戦利品」だったからだ。
手慰みなら、別に人族でも良い。男でもいいほどである。彼は王なのだから。
だが、正妻となれば、話は別だ。
臣下は反対するだろう……。
「俺は、お前に救われた命だ」
魔王は彼女の髪を一房すくいとって、口づけた。
「そして、お前に惚れている。……かまわんさ。反対されようとも。俺は魔王だ。今、あの国で俺以上に強い者はおらん。いざとなれば――全員を黙らせれば済むことだ」
「……」
「魔族の社会では、力が通る。お前のことは、皆が知っている。お前の力も。なら、半数はとれるだろうさ。そして、残りの半数を、俺がねじ伏せてしまえばいい話だ」
「いや、そういうのじゃなくて……その、こう言ってはなんだけど、あなたが私に飽きてやっぱり止めるっていうことだって、あると思うんだけど……」
人族と、魔族では、常識がちがう。だから、付き合っていくのはかなりの寛容さと努力が双方にいる。それを、彼女は数々の経験で知っていた。
恋なんていうシャボン玉は、それはそれは崩れやすい事も。
困ったような顔で言う少女に、魔王は内心感心した。意外と冷静で現実的だ。恋を始めたばかりの娘は、普通、恋の終わりなど考えないものなのだが。
あれだけ好きだ結婚してくれを連呼していた相手が、自分に飽きるという発想はなかなかできるものではない。
「その場合は、俺にも罰が落ちる」
「……うーん。じゃ、いいわ」
あっさりと、少女は自分を拘束するその鎖を受け入れた。
「……いいのか?」
「私にだけ一方的に罰が下るなら腹立つけど、結婚の約束……結納ってあなたは翻訳したっけ。そんなようなものでしょ。人族同士でも、結納を一方的に破棄したらペナルティがあるしね。それと同じと思えばいいわ」
彼女の鈍さは、欠点であると同時に、長所でもありうる。普通の人間なら不愉快になるところだが、彼女はあっさりと受け入れてしまった。
更に言えば、多少の違いは笑って流すその鷹揚さがあったからこそ、彼女は無数の異種族の信頼を得られたのだ。
悪く言えば鈍さ、よく言えば包容力といえる。
――そして。
「なんですか、この鎖は!」
部屋に戻った彼女を待っていたのは、マーラの滅多にない怒声だった。
→ BACK→ NEXT
- 関連記事
-
スポンサーサイト
Information
Comment:0