翌朝、ぱっちりとクリスは目を覚ました。間髪いれずにノックの音が響く。
「魔王さま、王妃さま、朝食をお持ちいたしました」
五人ほどが並べて眠れる大きな寝台の中で、彼女はその声を聞いた。
戦士の心得で、意識は一瞬で覚醒している。自分の体を見下ろして真っ赤になり、毛布を巻いて体を覆った。
寝台には天蓋がついているので、見られることはないだろう――どうして貴人の寝台に天幕がついているのか、よく理解した。
「食事は置け。給仕はいらん」
彼女の隣にいる夫は、彼女に尋ねる。
「何か欲しいものはあるか?」
「……お風呂、入りたいな」
贅沢かもしれないが、それぐらいの我が儘は言ってもいいだろう。
「浴槽を持ってこい」
「かしこまりました」
侍従は、小さなテーブルの上に食事を並べ、空の浴槽を運び入れると、立ち去った。
浴槽は一人入ればそれで一杯ぐらいの小さなものだった。
空っぽの浴槽をどうするのかと思ったが、すぐに疑問は氷解した。
魔王が水と炎を呼びだしたのだ。
「あ……そっか」
人族は魔力がないのが普通。魔族は魔力があるのが普通。魔族にとって、風呂とはこうして入るものなのだ。たぶん、人族とは違って、贅沢ですらないのだろう。
「ありがとう、エデン」
毛布を剥いで立ち上がると、魔王の視線に気づいた。
「な、な、なに?」
魔王はじろじろと、遠慮のエの字もなく彼女の体を眺めたおした。
ついさきほどまで、組み敷いていた体だ。
均整が取れ、引き締まった体。腰はくびれ、大きくはないが小さくもない膨らみ。女性の柔らかさにはやや欠けていたが、そのぶん贅肉がなく、触れれば皮膚の下でしなやかな筋肉がうごめいていた。
小麦色の肌は弾力があり、さわり心地は、悪くなかった。十代の肌はじゅうぶんに瑞々しく、つるんとした肌で、傷跡一つなく――たいへんよろしくない。
魔王は鼻を鳴らした。
「――せっかくつけた痕が消えてる。面白くない」
ぎゃー。
「そそ、そういうことを言わないでっ」
昨日の事を思い出すだけで顔が火を吹く。
歯型だの、鬱血痕だの、全身につけられた所有の痕は、綺麗に消えていた。
「それは仕方のないことでっ。わたし前線で戦っていたから傷の治りが早くってっ」
狼狽してあらぬことを口走っていたら、ふわりと浮遊感がした。
次に、心地良い湯の感触。抱きあげられて、湯の中に導かれたのだ。
「適温か?」
「うん……」
体を清め、長い髪をどうしようかと思っていたら、魔王が洗ってくれた。
「……ありがとう」
湯からあがると、マーラがよくやってくれたように、余計な水分を魔法で取り除いて乾かしてくれる。
「あ、ありがとう」
どうしよう。魔王が優しい。
少女は内心思いきりあたふたしてしまう。
コトに及んだあと、男というのはこう、女に対して粗雑になるものだという偏見があったせいか、優しくされると頬が熱い。
偏見であったのは、もちろん嬉しいけれど。
さらりとした状態になった髪を、魔王は指に巻いた。
「お前の髪、さわり心地がいいな」
艶のある鴉の濡れ羽色の髪は、ろくすっぽ手入れもしていないのにしなやかな手触りで、天使の輪を浮かべている親孝行者だ。以前から、髪だけは綺麗だとか髪だけは合格とか言われたものだ……言われたときには涙したが。
「気に入ってくれたのなら、嬉しいな。結構何度も切ろうかどうか悩んだから……」
「切るなよ。もったいない」
「……コリュウと同じこと言うなあ……。うん、あなたが気に入ってるのなら切らない」
人族では女性は髪を伸ばすのが常識だ。
魔族では、どちらでもいい。
クリスが髪を切らなかったのは常識に彼女もとらわれていたのと――髪を売ろうにもありふれた黒髪では大した値にならないだろうという身も蓋もない理由だった。
高値で売れる金髪であったら、食うに困った時に髪を売っていたかもしれない。いや、コリュウがいたのだからやっぱり冒険者になっていただろうか……。
魔王は指に絡めていた髪に口づけた。
「好きだ」
……。
………………。
ぼんっ!
クリスは悲鳴を上げた。
「ぎゃあ!」
「――おい」
さすがに、呆れかえった声だった。
無理もない。
「色気のかけらもない声をあげるな」
「ご、ごごごごごごめんなさいっ」
結婚式を上げ、褥をともにしておいて今更、という言葉はもっともすぎて、反論のひとつもない。
「ごめんなさい、不意打ちだったから~!」
「……まあ、お前のそういう部分も面白くて嫌いじゃないが……、お前の側には求婚者が山ほどいたはずだが、甘い言葉は言われなかったのか」
報告書にはそうあった。
クリスは首をひねった。彼女の主観では、政略で言い寄られたことは山とあるが、真心から彼女に求婚してくれたのは後にも先にも魔王ひとりなのである。あくまで、彼女ひとりの主観だが。
「求婚者? なにそれ?」
「――よく、わかった」
それだけで、魔王は全ての事情を察した。
繊細な人間など、戦場に出たら一発で死ぬ。
風呂もない、清潔な水もない、調理された食料もない。生きるために時には血を浴び、泥をすする。空腹しのぎに雑草を食み、生臭い獣肉をかじる。
冒険者に鈍感力は必須だ。しかし、その鈍感さによって生き抜いてきたぶん、他人の恋心にも婉曲な恋の言葉にも気づかなかった、と。
魔王はつくづく、自分の選択を褒めた。あそこまで露骨な言葉でなければ、求婚したということにも気づかれずに終わったに違いない。
この娘に美辞麗句を駆使した詩歌に姿を変えた求愛歌など、言うだけ無駄だ。
露骨に、誤解の余地なく、くっきりはっきり、明瞭かつ簡潔に、言うしかない。
――まあ、悪いことでもないか。
そう、魔王は結論付けた。
物慣れぬところも面白いし、おかげで彼女は手つかずのまま彼の妻になった。
彼女が寄せられる恋心に鈍感でなければ、とうの昔に誰かを選んでいただろう。
そこで、魔王は不意に気づいた。
――ああ、なるほど……。
フィアルも言っていたが、普通に考えて、若くて可愛い女の冒険者が、それもそれなりの古株が、生娘というのはあり得ない。
以前聞いた時も言葉を濁したし、その手の危険は頻繁だったはずだ。
そして、色事の誘いに対して、「気づかないふりして避ける」ことはかなり有効だ。
彼女の鈍感さは、自分を守る盾だったわけだ。
魔王は手を伸ばし、彼女の頭を撫でた。
「俺がお前を守ってやる」
「……はい?」
「何かあったら、遠慮なく言え。お前一人じゃ、対処できないことだってあるだろう」
きょとんと、青い目が魔王を見つめる。
以前同じ言葉をかけたときには彼女の戦士のプライドに抵触してしまったものだが、今回はこくりと頷いた。
「――うん。ありがとう……」
◆ ◆ ◆
用意された朝食は美味ではあったが、簡単に食べられるものばかりだった。
その理由について、大体察しがついた彼女は、遠慮なく食べることにした。
そして、彼女の「普通」の量は、他人の三倍である。
「……お前、ほんとに、よく食うな……」
たぶん、事前に魔王が言ったか、炊事場が、この間の彼女の健啖ぶりを覚えていてくれたのだろう。かなりの量があった。
もぐもぐごくん。
口の中にあったものを呑みこんでから、彼女は答えた。
「だって、あなたの相手をするのって、体力勝負でしょ?」
魔王が彼女を見た。
「あ、あのね、わ、私は何にも知らないんだけど、だから、その、閨のことについては教えてくれれば一生懸命おぼえるというか、が、がんばるから。どうしても嫌だっていう事があったら、その時はやめてほしいってちゃんと言うから、エデンも、わたしにして欲しい事があったら、言ってね。な、なるべくできるようになるから」
頬を赤くしながら、しどろもどろでいう。
「……おい。そう煽るな。手加減できなくなる」
少女は恥じらいと決意の混ざった顔になった。微かなためらいを振り切って、言う。
「……しなくて、いいよ?」
「は?」
「エデンの子どもが、なるべく早く欲しいから……、わたしじゃ、その、技術がないから満足させてあげられないかもしれないけど、体力だけはたくさんあるし。エデンがしたいように、していいから」
伸ばされた腕を、少女は躊躇いなく受け入れた。
お籠もりは、三日続いた。
魔王さま絶倫ですが、クリスもなまじ付き合えるもんで……。目指せ子沢山! の彼女は断る理由も乏しいので、抱きしめられるまま抱きしめ返します。
正式には敬称は王も王妃も「陛下」なのですが、何となく語呂がいいのと砕けた感じが好きなのでこの作品では「様」です。
魔王陛下ではなく、魔王さま、なのです。
王妃陛下ではなく、王妃さま、です。
この作品の、この国だけのマイルールです。
正式には陛下なのですが、大目に見てください。
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