カリカリカリカリ。
与えられた一室で政務に励んでいると、訪問者の訪れを感じて、クリスは顔を上げた。
「少し根を詰めすぎるんじゃないか?」
「あのねえ……誰のせいだと思っているのよ!」
クリスは腰に手を当てて張本人に文句を言った。
部屋の隅で眠っていたコリュウが首をもたげ、またかーと言いたげな眼差しを魔王夫妻に送った。
結婚してから一カ月。
魔王の仕事っぷりは、予想以上にひどかった。
ほとんどフィアルに押し付けている状態で、ああこの状態で旅をしたいとか言い出したら、それは原因になった彼女に険悪な目も向けたくなるだろう。よーく気持ちが判った。申し訳なかった。
もともと、不意の代替わりもふつーにある魔族社会だ。薄々想像していたが、仕事のほとんどは官僚が行っている。魔王が仕事をしなくても、官僚がやれば何とかなるのだ。
そんな魔王の最大の仕事というのは子作りと、「ただいること」であった。
この辺の事情はクリスにも想像がつく。
人族でも、王様は、ただいるだけで、人心を安定させる。まして、力に従う魔族となれば尚更だ。
強大な王が玉座に鎮座していることで、魔王協会統一法を思い出させ、自由奔放な魔族を法律に従わせる。……あと、恐らくは、炎神が語った世界の十二の結界とも関連しているだろう。
抱き寄せようとしてくる夫の腕を叩き落とし、彼女は説教する。
「だーめ! そういうことは夜! ちゃんとお仕事してから!」
「おまえ……フィアルより口うるさいな」
「区別をつけないと、あなたの場合、仕事そっちのけで一日中なんだもの」
下手に彼女に体力があるのがまずかった。
これが彼女が普通の女なら、途中でセーブもしてくれただろうが、彼女は普通ではない。
新妻に甘い魔王が配慮しなくても、思うままに振舞って抱き潰されることがないので、房事に没頭できてしまうのだ。
……まさか、三日間抱かれ続けるとは思ってもいなかった。
おかげで出てきた時には城内の皆から生ぬるい視線を浴びたものである。
魔王自ら妃に望んだこの人族の少女を魔王が寵愛しているのは傍から見ても明らかで、少々冷やかしまじりのお言葉を頂いた。もっとも、それは、「いつまでもつか」という皮肉も混じっていたが。
クリスは魔王にお説教する。
「初夜のときは特別! 公私のけじめはきちんと。お仕事をきちんとしてから。わかった?」
そう言う彼女は、王妃として恥ずかしくない程度に実用的な姿をしていた。
長い黒髪のサイドの髪を三つ編みにして後ろで束ね、流している。着ているものは動きやすい絹のドレスである。
世話してくれるカルミアが、毎朝朝帰りする彼女にせっせとドレスを着せ、髪を結い、化粧もしてくれるのだ。まったく頭が下がる。女性としての技術では間違いなく落第点の彼女からするとひたすら有難く、尊敬すらする。
彼女は戦うすべは知っているが、化粧一つできないのだから。
「ってわけで、これよろしく。決裁してね」
ぽん、と書類の束を押しつけられた魔王はうんざりした顔になる。気持ちはわかるが、ここで引くわけにはいかない。
可愛く甘える、甘える、と女友達が言った言葉を念じつつ、できるだけ可愛く目をうるうるさせてお願いしてみた。
「エデンが認可してくれないと、事務員が雇えないの……。お願い」
「……事務?」
「うん。わたしの手助けをしてくれる人。エルフ族でね、マーラっていうの」
「…………」
しばし、魔王は沈黙した。
「――浮気したらただじゃおかんぞ」
「はい? あ……そっか、マーラって一応男だった」
エルフ族は男女とも、共通して両性的な空気があるので、男だという認識がすっぱりなかった。
「そんなんじゃないから。マーラは私にとって、すごく大切な兄みたいな人なの。長い間一緒にいた家族みたいな人。……お願い、エデンっ!」
「…………」
魔王は脇を向いて、ため息をついた。
同情を含んだため息だった。
「まあいい……わかった」
「ありがとう、エデン!」
「表向きは事務員で、本当の役職はお前の護衛か? 身辺に何か起こったか?」
クリスはふるふると頭を振る。
「まだ実際にはなーんにも。敵意を含んだ視線は感じるけどね。コリュウもいるから、手を出しかねてるって感じかな?」
くすりと、クリスは微笑する。
己の命のかかる危険について口にしているとは思えない、まったくもって平然たる態度だった。
魔王は面白そうにそれを見やる。
「お前は飽きんな」
「できるだけ、飽きないでね。浮気は……できるだけしないで欲しいけど、どーしても政治的に必要とかなら、我慢するから」
魔王は王である。周囲のしがらみによって、妾妃を取らねばならない事態になることもあるだろう。なんせ、彼女は人族なのだから。
異種族間の婚姻は、上手くいかない事が多い。相互の常識の違いが、壁となって立ちはだかるからだ。その破綻を防ぐものは、お互いの努力のみである。
彼女は魔族の王に嫁ぐ、という事の意味を決して楽観視してはいなかった。
いくら彼女が強いとはいえ、人族である。反発が出るのは予想済みだった。
畢竟、彼女の立場を守ってくれるものといえば、魔王の寵愛だけなのだ。
いざとなれば、彼女には借りものではない実力と名声がある。飽きられて魔王に放り出されても生きていけるが、なるべくそれは避けたい。
なら、我が儘を……言いたい放題言っているような気もするが、必要のない我が儘は言わず、飽きられないよう努力するしかない。
魔王は何故だかむっとした顔になった。
「俺が愛妾をとってもいいのか?」
ここは本音で話すべきだと悟って、魔王の妃は向き直った。
「正直に言うと、物凄く嫌」
率直に言うと、魔王の顔が緩んだ。
「あなたが、私以外の女を抱くのが嫌。触るのも嫌。あなたには私だけ見てて欲しい。ううう、でもね、それが許されるかどうか、っていうのも、わかっているつもりよ」
魔族の至上命題は、より多く、より強い同胞を作ること。
そして、魔王に課せられた最大の使命とは、その強さを引き継いだ子を――純血の子を、たくさん作ることなのだ。
庶子でも正嫡でもどちらでも、子がたくさんいればいるほどいい王ということになる。
「くだらん。俺はお前に約束しただろうが? お前が生きている限りは他に妃はとらんと」
クリスはふんわりと笑う。
約束を守ろうとしてくれる魔王の態度はとても嬉しい。でも、現実として、それが許されない事態に陥ることだって、あるだろう。
彼女はそれを覚悟している。だから、結果的に約束を破らざるをえない状況になっても、恨む気持ちはない。
それに――恋とは、終わるものなのだ。
人の気持ちとは、変わるもの。
今は魔王は自分に寵をくれていても、一年後は分からない。
その点において、魔王より彼女の方が、よほど散文的だった。
クリスは魔王の唇に指を置いた。
「わたしね、何をどうしても、あなたに純血の子どもは与えてあげられないけど――その分、あなたの、お役立ちの奥さんになるから。あなたが、私と結婚してよかったなあって思ってくれるようなそういう奥さんになるから。フィアルに今、教えてもらっているの」
「ああ、聞いた。あいつは奥方様に教えることは何もありませんでした、教わることばかりですとかほざいていたぞ?」
「そんなことないわ。フィアルにはたくさん教わったわよ。ただ……教わるついでに、非効率的なやり方してたから、改善提案をね、つい♪」
えへへと笑ってごまかす王妃が一名。
「思うんだけど……魔族の国って、遥かおー昔から続いているだけあって、ものすごーく
旧態依然としているのよねえ……。もうちょっと効率的に。分かりやすく。ミスは出てしまうものだけど、ミスを少なくするような方法……システムを、作るべきだと思うわ」
「システム、か」
耳慣れない言葉に、魔王はつぶやく。
「うん。仕組みっていう意味。ミスしない人に任せるより、ミスしないやり方を編みだすべきかなと。だって、ミスしない人を探すのはすごく難しいもの。そんな希少人材探すより、普通の人でもこなせるようにするべきだわ」
彼女は知っている。
ミスしない人間はいない、とはよく言われるが、そんなことはない。
ミスしない人間は、いる。ごくごくごく稀にだが、いるのだ。そういう人間は俗に天才と呼ばれる人種だが、そんな人種を探すのはとっても大変だ。あと、扱いも厄介なことが多い。
一国の中央官僚である。国中から優秀な人材が集められ、淘汰されて生き残るわけだから天才で当然、そうでない者は出て行け、という考え方もあるが、彼女とは相容れない。
ふっふっふっふ、と、悪役顔で彼女は笑う。
「もーちょっと、やり方を変えた方がいいと思うの。急激にやっちゃうと反発食らうから、ちょっとずつ、ね」
魔族は直球勝負だけあって、論理で負けると折れる事が多い。王妃という権威と権力もある。後は議論で勝てば、こちらのやり方を押しつけられる。
そして、押しつけられる形であっても、やってみれば効率に気づくだろう。
「くくくくく……。非効率的な手法にしがみついていた官僚たちを改造してやるわ」
「…………お手柔らかにな」
「わかっているわ。あ、あと『彼ら』だけど」
「なんだ?」
クリスは笑って尋ねた。笑顔でありながら、刃の鋭さを感じさせる顔。戦いを知るものの顔だった。
「殺してもいい?」
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