魔王の「お召し」は、毎夜のことなので、すでに通例は逆転している。呼ばれたら行くのではなく、何か褥を共にできない事情があったら、連絡が来る(もしくは連絡する)のだ。
その日も朝方早く、部屋の戸をあけると、仮眠をとっていたらしいカルミアが目を覚まして駆け寄った。
彼女は前回妃だった頃から変わらず侍女をしてくれる。純魔族なので、素直に好意を寄せてくれるので世話されていて心地良い。――自分に敵意を持っている相手に世話されて、心地いいという人間はまずいないだろう。
「王妃さま。本日は、いかがなさいますか?」
言いながら、匂いを嗅ぎ取ってカルミアが少し眉を寄せた。
理由がわかるだけに、クリスは苦笑いする。
「陛下が離してくれなくて……、まだお風呂に入ってないの。用意してくれる?」
「お部屋のお風呂にいたしますか、それとも王妃さまの浴室に……?」
この部屋にも浴室はついているが、それとは別に、ただっぴろい王妃専用豪華大浴場がある。
「この部屋のでいいわ」
普通の羞恥心の持ち主の彼女としては、性臭が漂う状態で、少しとはいえ廊下を歩きたくはない。
それでも、この部屋にある浴室も庶民の尺度ではかなり広くて立派なものだ。
人に風呂場でまで世話される、ということに慣れないので、カルミアは下がらせた。自分の体ぐらい、自分で洗える。
浴室に入る時に少し眉をひそめたが態度には出さず、カルミアが魔法で湯を作り、用意してくれた湯船に、深々と浸かった。
この国は高山地帯なのに、魔法があるので水不足は存在しない。お陰で、お風呂に入るときにも罪悪感を抱かずに済む。
たっぷりのお湯に贅沢に浸かりながら、クリスは考える。
――問題は、水を自力で確保できない種族だ。
高山地帯であり、標高が高いこの国では、水の安定確保は難しい。魔族たちは魔法で綺麗な水をいくらでも出せるが、人族はそうもいかない。
……水。
ひとが生きていくためには、水の確保が最重要課題だ。食料が二番目。
おまけに魔物の問題もある。魔族の国では、魔物が強いのだ。魔法があり、体も頑健な魔族だからこそ退けられるような。そして、だからこそ、彼らは強さを至上価値とするのだろう。強くなければ、魔物と対抗できないから。
高山病についてはまあこれは慣れればなんとかなる。彼女は高山病のコの字もかからなかったし、コリュウも、森の精霊族であるマーラも同様。ダルクだけが少し具合が悪そうだったが、一日で慣れた。根性でここで暮らしている人族もいる。
適応力においては、類を見ない人族だ。慣れる試みは、上手く行っている。
だが――高山地帯では水源の確保は難しく、となれば、やはり、とるべき道は融和しかない。
町の中に、魔族と人族両方突っ込んでしまうのだ。
そして、相互扶助をしたいのだけれども……困ったことに、人族には例の聖光教会の信仰が浸透している。
助け合い、とはいうが、魔族に人族が助けられることはあっても、魔族を人族が助けられることは少ない。そういういびつな関係を、宗教を持ちだして正当化しようとする人間が、聖光宗教の人間だ。
こまった事だ、本当に。
人との関係は、双方に利益が無ければ上手くいかない。それを、彼女は知っている。
人族が、魔族に与えられる利益。
いくつか候補はある。人族が絶えまない研究で産み出した技術の数々。
いっそのこと、サンローランの町から移住希望者をつのるか。――それがよさそうだった。
脳裏で移住計画の大まかな概要を作り、概算を弾きだして、クリスは自分の体を見下ろす。
「……もう、エデンってば」
子どもを産む、それもできるだけ早く、たくさん、というのが彼女の目的の一つであるため、魔王の閨に呼ばれることに文句はない。文句はないのだが――ちょっとは頻度を考えて欲しい。
毎日毎日朝までってどんな精力だ!
カルミアなどは「愛されておりますのね、羨ましいですわ」とか言うし、マーラも「いいじゃないですか、今まで散々我慢させましたから仕方ないでしょう」で、ダルクでさえ「それだけ寵愛されているっていうことだろ」でコリュウだけが「うんうん、ちょっとは減らして欲しいよね、わかるよ」と慰めてくれるものの……。
「なまじ、付き合えるのが悪いんだよねえ……」
魔王の体力がとんでもないのは言うまでもないが、彼女の体力もそれに準じる。
普通の女みたいに、消耗しきって「も、もうだめ……」とか一度言ってみたいものだが、彼女の体力は底なしに近いのだ。
か弱い婦女子ではないので、配慮はいらない。
おかげで手加減抜きで情欲をぶつけられる始末。
「……まあ、贅沢な悩みかあ……」
毎夜魔王のお召しがあるから、彼女の王妃としての立場が認められている側面もあるのだ。
周り中魔族のただ中で、魔王の寵がなくなったら、人族の彼女の運命など知れたものである。
彼女の王妃としての地位も何もかも、魔王の寵の上に成り立っているのだから。
クリスは腹部を撫でた。
子どもが欲しい。そして、子どもはすることをしなけばできない。これだけ頻繁に呼ばれているのだからと思うのだが、半年経っても妊娠の兆候がない。
……ひょっとして、不妊だろうか。
悲しい。そうなっても、魔王の関心が薄れない限りは王妃でいられるだろうが、妾妃の存在は認めないといけなくなるだろう。
女嫌いの男色家と見られていた魔王が一人の女に耽溺していることで、ただでさえ妾妃の売り込みが急増しているのだ。
女を抱けるのなら、人族なんぞより魔族を、と思うのは当然の流れである。
何より――今はいいが、自分はそのうち、ほんの二十年やそこらで、老いてしまうのだ。
この時代の人族の寿命は、五十年ほどだ。
子が産めるのは、後十年あるかないか。
死ぬまでの間に、たくさん子どもを産んであげたいのだが……。
「マーラに、相談しようかなあ……」
薬草に詳しい彼なら、子どもができやすくする薬草とかを紹介してくれそうな気がする。
そして、だ。
クリスは湯船から立ち上がりながら、ゆっくりと天井へ向かって言った。
「あのね、今の私の裸を見ていいのは、エデンだけなんだけどな」
ばれていると気づいた刺客が天井裏から魔法を擲った。
クリスは口元に笑みを刻む。
同衾直後、疲労困憊し、湯船で緊張が緩んだひとりきりのところを不意打ち。うん、暗殺としては悪くない選択だ。
女性ならば全裸での戦闘に心理的に禁忌の念も浮かび上がるだろう。あいにくと鈍感族である彼女は無縁だけれど。
クリスは魔法を避けずに、敢えて受けた。
彼女の力量を感じられるものなら、魔法一発で殺せるとはまさか思うまい。追撃する為に刺客が天井裏から飛び下りてくる。魔法も使えず、魔法で痛手を負った無手の女を殺すのはわけないと。
その動きが止まった。
火炎の中で、彼女は平然と微笑む。
「残念でした」
――無手のはずのその手には剣。彼女を主人と認めた魔剣がある。
刺客の四肢を叩き斬って、彼女は浴室を出た。
扉越しにも聞こえる刺客の絶叫に、カルミアは青い顔だ。
「あ、あの、王妃さま……ひ、ひとを……」
「あ、私この格好だから、まず服を着せて」
平然と答え、ドレスを着せてもらってから、悲鳴を聞きつけて駆けつけた人間に告げる。
「浴室に刺客がいるから、つれてって尋問して」
魔剣の主人でありながら、使いこなしていなかったことを指摘されたのは結婚後だ。
同じように魔剣の主人である魔王に教えられたのだ。
――単なるよく切れる剣、としてしか使っていなかったことに盛大に呆れられた。
なんていう宝の持ち腐れかと説教され、使い方を教えられたのである。
同じ立場なら彼女だってそう思う。
でも、だ。彼女だって主張したい。
過去、代々知識とともに魔剣を引き継いできた魔王さまならともかく、偶然魔剣を拾った(ひどい表現だが他に形容しようがない)だけの人間が、魔剣の使い方なんてどうやって知るのか!
最初の経験があったから話しかけてはみたのだ。でも魔剣はうんともすんとも言わないし(魔剣の声を聞いたのは拾ったときが最初で最後だ)マーラに相談しても、「人格を持つ魔道具の扱いは難しいです。いっそ単なる剣として扱った方が、危ない綱渡りをしないですむでしょう」という答えで、確かに人格を持っていて「人殺しは嫌」とか言われたら逆に困るだろうということで、使い方を探求しようとせず、シンプルにそのまま使っていた。
魔王は盛大に呆れた後、彼女の言い訳を聞いて多少言い分を考慮する顔になり、そして、使い方を教えてくれた。
人が来て刺客を運び出すと、クリスは平然と通常業務に戻った。
四六時中暗殺者に狙われていた彼女からすれば、動揺することもない日常風景だったのである。
しかし、四肢を切断された暗殺者の話は、衝撃とともに城内に広まった。そして、何事もなかったように仕事に励む王妃の姿も。
それを聞いたときマーラたちかつての仲間は口元にひっそりと嘲笑の笑みを浮かべたに過ぎなかったが、年若い可憐な少女という外見に囚われていた面々は驚き、恐れおののいた。
力を感じ取ることはできても、それでも着飾った愛らしい姿に、惑わされていたのだ。
魔族にとって、力は大いなる意味を持つ。
生かされたまま四肢を切断された刺客の姿は、視覚に絶大なインパクトを与える。
まして、それだけのことをしながら平然と日常に戻っているともなれば。
無言での彼女の示威行為は、計算通りの効果を上げた。
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