「えいっ!」
クリスは声を上げると、背筋に力を入れてしゃっきりさせる。
「――ありがとね。愚痴きいてくれて、すっきりした」
そう、まだ嫁いで半年だ。
絶望するには早すぎる。
愚痴は、言うだけで気持ちが楽になる。
聞いてくれる人がいて、その人が旦那さんということは、かなりの幸せだ。
手元にある幸せに気づけない愚か者にはなりたくなかった。
――と、クリスはこの憂鬱に一つ区切りをつけたのだが、魔王の方はちがった。
「――コリュウ」
「え? ボク?」
突然ことばを向けられて、部屋の隅でじっと丸くなっていた竜族が戸惑う。
「来い」
声をかけ、魔王はクリスの手を引っ張って立たせると、抱き上げた。
「きゃっ!」
びっくりしたが、お姫様だっこではなく、肩の上に下ろされた。立派な体格の魔王の肩に座るような形だ。
魔王は長身なので、視点がとても高い。
安定をとるために首に手をまわした。
そのまま、王妃の執務室を出て行く。
「ど、どうしたの?」
後ろからはコリュウもついてきている。
いきなりの行動に、さすがに聞くが、魔王は答えない。廊下をつかつかと歩く。
道行く人々は魔王と王妃の姿に驚いた眼を一瞬するが、ふたりの仲の良さは周知のことだ。
気にもせず、黙って頭を下げて見送った。
……いや、まあ、夫婦なんだからくっついていても気にしないだろうけど……。
サンローランの町で、もしどこかの夫婦がこんな風にくっついていても、クリスだって「あら仲良いわね、いいことだ」でおしまいにしてしまうだろう。
市井の夫婦ならともかく王族なのに、と思ってしまうのは、やはりまだ人族の常識が抜けていないせいだろう。
魔族は人族とはちがい、大らかだ。夫が衆人環視の中で妻を肩にのせたって、気にしないほど大らかだ。
クリスは至近距離にある夫の横顔をまじまじと見つめた。妻の欲目だけれど、いい男だと思う。
女顔の美貌ではなく、マーラのような優美ではあるが線の細さを感じさせるものでもない。
男らしい堂々とした顔だ。
肩に座っているため間近にある耳の形も、とてもいいと思う。……いやこれは妻の欲目以外の何物でもないが。
魔王の耳の形が好きだ。上の角が少し尖り気味で、すとんと下に落ちている稜線の辺りが、特に。もちろん、妻の欲目以外の何物でもないが。
魔王がどこへ向かっているかはさておき、その耳に、唇を寄せてキスをした。
意味はない。ただ、そうしたくなっただけだ。道行く周囲がまあとか言う顔になったが気にしないことにする。
魔王城は広い。
やがて、魔王は一階層下のとある部屋に辿りついた。
「あ、あのお~」
さすがに、ここまでくれば目的地はわかる。
扉を開けると、そこにいたのは、ダルクとマーラだった。小人のパルはいつも通りに自由に城内を散策中だ。
マーラたちは抱っこされている二人に目をやる。
「クリス? ……仲がいいですね」
「どうしたんだ?」
答えたのは、魔王だった。
「お前たちに、言っておきたいことがあってな?」
魔王から、力量差を背景にした圧がかけられる。クリスは顔を歪めた。彼女より遥か高位にある魔王の圧は、彼女にとっても肌にびりびりくる。
それでも、完全に委縮するほど力量差はない。心構えさえすれば、無視して動ける程度だ。
見れば、仲間もまた、一瞬眉をひそめたがそれだけだ。
「なんでしょう?」
柔和に切り返したのはマーラだ。
ダルクも、心を
鎧って委縮せずに二人を見ている。
「我が妻が、もし子どもができなければこの城から逃げ出そうとしていてな」
魔王が言った言葉に、言われた方は揃って絶句した。
「許さん。どんな手段を使ってでも、決してそんなことは許さん。――それを、言っておこうと思ってな」
マーラの一瞥が、素早くクリスに送られる。
――本当にそんなことを?
クリスはひるんだ。
そして、その表情だけで、付き合いの長いマーラやダルクにはじゅうぶんだったようだ。
ダルクはクリスに尋ねる。答えたのはマーラだった。
「逃げる? なんでだ?」
「ダルク、考えてみてください。彼女に子どもができなかった場合、暗殺されるか、妾妃をとるか、……あるいは……」
マーラがちらりと魔王に目をやる。魔王は頷いた。
「……魔王さまが退位してうるさい外野のいない場所に行くか、ですよ。見かけどおりに一途で一生懸命な彼女が、それを良しとすると思います? 自分がどっかに行くのが一番波風立たないと思うのでは?」
「……ああ、なるほど」
彼女はこの世界で生きてきた。
王族は、複数の女性を娶って当たり前、という考えがある。
王冠を持つ男を、複数の女性で共有するのは至極普通のことなのだ。
だから、妾妃をとるだけならいい。それなら耐えられる。……だが、その妾妃に子どもができたとき、彼女は平静ではいられないだろう。
子のできない、惨めな異種族の王妃――そんな立場になるのなら、と一瞬でも思わなかったとは、言わない。
「――で、あなたは、釘を刺しに来たわけですね?」
「ああ。――クリス。いいか、俺から逃げてみろ。この城に残ったお前を慕ってやってきた部下たちがどうなるか、覚悟しておけ」
「……その言い方、卑怯……」
魔王はざっと、視線の刃で彼女の仲間を薙ぎ払う。
「――そしてお前ら。お前らは、結局のところ、千人が犠牲になろうがこいつの望みを優先させる人間だろう」
「あたりまえじゃないですか」
即座に、にこやかに、マーラは肯定した。
クリスは絶句した。
その隣で、ダルクとコリュウも肯定する。
「ま、そうだな」
「うん! クリスがいちばん!」
無邪気に言う息子を見て、クリスは育て間違ったかと頭を抱えた。
「だろうな。我が妻に対してはこの城にいる部下たちは鎖になる。だが、お前らにはならん。お前らは、天秤の一方に千人の命がのろうが、こいつを選ぶからな。……だから、釘を刺しに来た。こいつが逃げようとしたら、俺は国境を封鎖する。兵を出して、徹底的に探索する。逃げられるとは思うなよ? こいつ自身が磁石になるからな」
マーラが面白がっているのを隠さない笑みで、先を促す。
「――ふむ。それで?」
彼らにとって、彼女の願い以上に優先させるものはない。それを知っているのに尚も要求するのなら、何を対価とする?
「こいつが逃げようとしたら、少し足止めして俺も連れて行け。それで万事解決だ」
クリスは魔王の耳を引っ張った。
「な、に、が! 解決よ! 全然問題は片付いてないじゃない!」
「……いやあ、解決だと思いますよ?」
「解決だな」
「解決じゃないの?」
仲間は三人揃ってうんうん頷く。
「指名手配かける当の本人がいなくなれば探されることもないですし」
「探されたところで、魔王がいれば敵はいないしな」
「ボクもそう思う……。クリス。魔王を敵に回したらすごく怖いけど、味方にしたらすごく心強いよ?」
「え、いや、それは、そうだけど、でも」
「だって、魔王の中で答えは出てるじゃないですか。魔王は王様でいるよりあなたと一緒がいい。なのにあなたは自分で勝手に判断して姿をくらまそうとしている。そういうのを、善意の押し付けっていうんですよ」
ぐうの音も出ない。
ゼトランド王国は山岳地帯。
国境すべてを見張るのは、実質的に無理だ。
魔王が兵を全て出しても、周到な準備と彼女たち一行のツテと能力があれば、逃げ切れる可能性はかなり高い。
だからこそ、魔王は釘を刺しに来たのだ。
――こいつが逃げようとしても少し足止めしろ。俺を連れて行け。と。
彼女の望みを止めろ、ではなく、連れて行け、だ。
彼女の仲間は彼女の言うことを盲目的にきく人形ではない。考える頭があるので、魔王を連れていった方がいいというのはすぐわかるだろう。
「……やってくれたわね……」
「お前が悪い。人の言うことを素直に聞かないからだ」
先ほど耳を引っ張ったお返しのように、耳に口づけられる。次いで、唇にも。
そこに、こほんと咳払いが響いた。
「……あのー、仲がいいのはたいへん結構なのですが、ふたりっきりの時にしてください」
クリスは赤面した。
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