夫婦仲がこじれた後の仲直りは、早い方がいい。それも、なしくずしに元に戻るより、けじめの意味でもきちんと仲直りしたほうがいい。
――そして、その仲直りは、非がある方から申し出るのが筋というものだろう。
そんなわけで、月経も終わり、クリスは切り出した。
「あ、あのね……お風呂……一緒に入らない?」
王の風呂場というのは、庶民の大衆浴場なみに大きい。数十人ぐらいは入れそうなほどだ。
そして、市井で夫婦が一緒に風呂に入るのはよくあることだ。ただし、仲のいい夫婦なら、という限定で。
とはいえ、普通なら王と王妃が一緒に風呂に入ることなどないはずなのだが……そこは堅苦しい人族とは違う魔族である。
一糸まとわぬ姿で浴室に入ってきた妻の姿に、魔王は相好をくずした。
「こういうのも、新鮮で良いな」
夫とはいえ男に全裸をガン見されて、クリスは固まった。あうあうあう……と呟いたあと、すーはーすーはーと深呼吸を繰り返し、覚悟を決めて夫に言う。
「座って。洗ってあげる」
こしゅこしゅ、と頭を洗われる。女性らしい細くて器用な指先が、魔王の頭の登頂から耳の裏まで泡だらけにし、丹念に地肌を揉み解す。
心地良かった。
ざぱりと湯を掛けられ、泡を洗い流されると、次は体である。
王妃は多孔質の植物で、強くもなく弱くもないちょうどいい強さで擦っていく。
背中も前も。
顔が赤いのは、浴室に充満する湯気のせいだけではないだろう。
「じゃ、交代だな」
魔王がそう言うと、クリスは顔を真っ赤にしたが――抵抗することはなかった。
洗うついでに妻の柔らかい体と声を堪能し、夫婦の交流をして湯船に体を沈める。
ややあって、ぽつりと声がした。
「心配かけて、ごめんなさい」
そういうクリスの髪は魔王に洗われた後、上にまとめられてタオルを巻かれている。
もちろん、魔王にはわかっていた。
クリスが本日、なんだかやたらと頑張ってサービスしてくれたのは、心配かけてごめんという謝罪の気持ちからだ。
「なんだか、ひどく落ち込んじゃって……。みんなに心配かけて、ごめんなさい」
クリスを大事にしている仲間たちが、魔王相手に八つ当たりしたことは――たぶん知らないだろう。
嫌味をさんざん言われたものだ。
それも、ぐっさりとくるものを。
――自分は、妻のどこが好きなのだろうか?
この間から考えているが、どうもぴんとくる答えがない。
助けられたから? 全体的な容姿が気に入ったから? 一目惚れ?
どれもこれも当てはまるが、逆にこうという決定的な言葉が見つからない。
「自分でも不思議なぐらいに落ち込んじゃって……、もう、大丈夫だから」
ゴメンナサイ、と素直に謝る妻を責める気はない。
人間誰だって、時には落ち込む時があるだろう。ない人間がいたらすごい。見てみたい。博物館に展示したい。
「すこし、無神経なことを聞いてもいいか?」
「うん?」
「人族にとって子どもができないというのは、そんなに重要なことなのか?」
クリスは困ったような顔になった。
「……ダルクに聞かなかった?」
ダルクは、人族の常識を知っている。
「一応、聞いたが……」
「まあ、まだたったの一年だもの。落ち込む人はそうそうないでしょうね。でも、これが二年になり、三年になり、五年になったら、ほとんどの女性は同じ状態になると思う。なお悪いことに、私は不妊の原因になりそうなことに心当たりがありすぎて。あれかな、これかな、って考えている内に、どんどん袋小路に入っちゃったのよね」
そう語る彼女は、確かに一時の気鬱状態から復調していた。
クリスは魔王の顔を撫で、唇を重ねる。
「まだ一年だもの。絶望するのは早すぎるけど、でも、最悪の事態も考えておかないといけないのよね。……なんたって、体を重ねる回数じゃ五年ぶんにも匹敵するんだし」
偉大なるかな基礎体力。
この一年、クリスは風邪ひとつ引いたことがない。怪我もしたことはない。時々盛られる毒も華麗にスルー。
魔王のお召しを断るのは月のものが来たときぐらい。つまり夜の生活は毎日。そして夫は「強い」ので、朝まで離してくれない。一晩の回数? 数えてないです。数えたくもないです。しかも普通の女性とは違うので少し休めば体力全回復。
結果的に侍従に用意させた夜食などを間につまみつつ、おしゃべりなんぞを挟みつつ、朝まで腕の中。
――いや、気持ち良くないとはもう言いませんが。
夫に一から閨の作法を仕込まれて、もう立派などこに出しても恥ずかしくない人妻になりました。
子どもができる確率は、夜の生活の回数に比例する。これは、この世界でも常識だ。
まだ一年なのにクリスがあんなに落ち込んだ遠因に、普通の夫婦の五年分ぐらいはしてるのに、ということがある。
「クリス」
魔王が呼びかけると、彼女は振り向いた。小首を傾げて。
――彼女が落ち込んで美点を無くした時、あなたは支えられますか。
「お前は……たとえば俺が大怪我をして寝たきりになって魔王でなくなっても、結婚していてくれるか?」
「うん」
即答だった。
魔王は顔をひんまげる。
「なんでだ?」
「は? えーと、なんでなんでだ、になるのよ」
「お前は欲得ずくで結婚したんだから、財も権力もなくなったら離れて行くのが当たり前だろう」
クリスはハーッとため息をついた。
そして、一人ごちる。
「これが人族の考え方の差、かなあ……」
そして振り返って、
「魔族では、結構簡単に離縁するそうなんだけど、人族では離縁しないの。特に……妻側からはね。妻には離縁の権利がない、と言う方が、正しいかな。……まあ実際は、奥さんが物理的に逃げ出したりするけど」
「……そうだな」
「うん。でね、好きなんだよね、私。エデンの事」
不意打ちだった。
「エデンがもし財産も権力もなくなっても、その頃には街づくりもほぼ終わってるだろうし、私はお金持ちだし、いろんな人間に貸しつくってあるから……、うん。よゆーよゆー。任せてチョーダイ。エデン一人ぐらい、余裕で養えるから!」
胸に拳をあててどんとこい、と胸を張る妻を見て、魔王は何だかさっきまで考えていたことが馬鹿らしくなってきた。
「俺に嫌気がさしたらどうするんだ?」
「んなもの、なってから考えるわよ?」
またも即答だった。
「そりゃあ最悪の可能性を考えておくことも大事だけど、人の心なんてそんなの考える方が無駄じゃない? いろんな可能性があって、どう転ぶか判らないんだから。今はエデンは私のこと好きでしょ? お互いにその気持ちが続くように努力すべきであって、嫌気がさしたらって……、さしたって話し合いをして改善することも多々あるし、実際に嫌気がさしてから考えるものじゃないの?」
正論だった。
魔王は湯船の縁に顎をのせて、頭痛のする頭を休ませた。
そうだった。
この妻はこういう女だった。
えらく気弱になっていたあの態度と、エルフの脅しに目隠しされて忘れてた。
「……つまり、つまり……つまりだ」
「うん?」
「――おまえは、子どもができなかったらどうする?」
「うん……そこなんだよね」
クリスはもう、半分は諦めている。こうまで仲良くしていてできないのなら、この先もできない可能性が高い、と。
「俺に、子種が無いという可能性もあるぞ?」
「ん? エデンは子どもを作ったことが無いの?」
「ないな」
「そっか……。まあ原因がどっちかっていうのは水掛け論だし、調べる方法もないしね。で、子どもができなかった場合は、三つ道があるんだけど……」
「言ってみろ」
「周囲からの圧力がどーしよーもないぐらいに高まるのは、十年後ぐらいかなあ。その頃には街も出来てると思うのね。一つ、あなたが愛妾を娶る。二つ、一緒にトンズラする。三つ、私だけさよならする」
「二番だな」
「うん……、その時の状況次第でね。ぽっこり子どもができる可能性もあるし、その時点でのあなたの気持ちも、わからないし」
魔王は妻のやっていることについてノータッチだが、順調らしい。
なんせ二度目だ。
一度目とは比べ物にならない人脈と、権力と、財力と、名声と、信用と、ノウハウがある。エルフの集団の助力があるのが何と言っても強い。土地の造成があっという間にできるからだ。
一年ですでに町の外形は完成している。
もう一年も経てば軌道に乗るだろう。確かに、十年後には彼女が王妃でなくなっても大丈夫なぐらいになっているだろう。
「私、エデンにはすっごく感謝してるの。こんな私と結婚してくれて、自由にさせてくれて。こんなに度量の広い旦那さん、いないよ。だから、逆にエデンに何があってもばっちこーい、だよ」
「ばっち……? なんだそれは」
「……ええと、この場合は何があっても大丈夫っていう意味かな」
「そうか……」
魔王は視線を宙に置いた。
何かを感じ取ったのか、クリスは急に魔王に抱きついた。二人ともに湯の中で、熱くなった肌が重なる。
この妻は、人の心の機微に鈍いようで、とても鋭い。
「私はエデンの奥さんだから。エデンがもういらないって言うまではエデンの奥さんだからね。魔族ではどうか知らないけど、人族では結婚っていうのは、家族になりましょうってことなの。私は、エデンの家族だから、エデンがいらないっていうまで、一緒にいるわ」
「……家族?」
「うん。私、エデンの事愛してるわよ」
何気なく言われた言葉に、魔王は何とも言い難い顔になった。
「あ、あれ? 言ったこと……そう言えばなかった気がするなー。エデンは私のたったひとりの旦那さんだもの。すっごく感謝しているし、愛してるわ。この先エデンが負けても命だけはなんとしてでも守ってくれれば、それでいいから。いざとなったら私が養ってあげるし! お城から出て、一緒に暮らしましょう……エデン?」
額に手を当てて、深々とため息をつく夫の姿にクリスは慌てた声をかけた。
「……いや。お前はこういう女だったということを、俺はどうして忘れていたんだかな……」
「は、はい?」
「気にするな。こっちの話だ」
なんて呆気なく――なんて簡単に、人の求めるものをぽいと与えてしまえるのか。
彼女が変わってしまったらどうしよう、そのとき自分は愛せるだろうかとかそんなことで悩んでいた己が馬鹿のようではないか。
魔王が妻の体に腕をまわすと、クリスは「その」気配を察して、ぎょっとしたように声を上げた。
「のぼせる! のぼせるから! 外! せめてお風呂の外で!」
浴槽の外は石張りだ。床は固い。
「つかまってろ」
抱き上げると、察してクリスが魔王の首に腕を廻して体を支える。
そして湯船から出ると、そのまま出口に向かう。
「あれ?」
「怪我するだろうが」
「……ありがとう」
クリスは多少の怪我……訂正、致命傷以外の怪我なら放っておけば治るのだが、気遣いが嬉しくないはずがない。
そのまま寝台へ向かう。この浴室は、王の部屋の続きで、王の部屋は夫婦の寝室の隣だ。
魔法で水分を取り、クリスの頭のタオルを取ると、黒髪が広がった。
気合を入れて侍女が手入れしているせいか、ずっと美しく輝くようになった髪を手で梳いて、寝台に下ろした。
「『家族』か。いいものだな」
寝台の上で全裸を見下ろされ、クリスは勝ち気に笑った。
「そうでしょう?」
――何故この娘に惚れたのか、どこに惚れたのか、どこがいいのか。魔王は判った気がした。
彼女が金にも権力にも惑わされない人間だからだ。
最初に結婚を決めたのが魔王の財や権力目当てであることは事実だが、今魔王が無一文になっても、クリスは変わらないだろう。
それを感じ取って、魔王は彼女に惹かれたのだ。我ながら女を見る目は確かだと、自画自賛したい気分である。
彼女となら、一文なしになった魔王と一緒に、貧しくとも幸せな家庭を作れるだろう。
ただ、愛してくれるだろう。
それからすぐに、クリスは倒れる。
気をもむ魔王のところに届いたのは、懐妊の知らせだった。
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