魔王とクリスはいつも食事を一緒に取る。
魔王は、夕食の席で言った。
「今度、お前の故郷に行かないか?」
「……え……?」
クリスは手を止めた。
その着ているものも、食事の内容も、王族に相応しい、豪華なものだ。
声が震えた。
「な、んで……?」
たぶん、顔も青ざめていただろう。
その反応を予想していたのだろう。魔王は、ゆっくりした口調で言った。
「お前が、両親に愛されて育ったということは、見ていればわかる」
そう、見ているだけで、彼女がいかに健全に、愛情を注がれて育ったのか、わかろうというものだ。
人格の芯……ともいうべきところに、人間への愛情と信頼がある。それは、愛されて育った人間にしかない純真さだった。
……見るだけでわかる。
彼女の両親は、いい親だったのだろう。
彼女を慈しみ、愛したのだろう。
だからこそ、魔王は哀れでならなかった。
その死を、いつまでも引きずっている彼女が。
魔王は、自分の親が死んでも、「そうか」の一言で済ませる。
……愛しているから、引きずるのだろう。
「一度、お前の両親の墓前に、報告したいのだ。――お前を育ててくれて、ありがとう、と」
彼女の身上調査をしたとき、生まれ故郷がどこなのかも調べた。隠されていることではなく、隠す理由もない。
彼女の親兄弟友人に至るまで、全て死んでいるのだから、無数の暗殺者に命を狙われていても、隠す必要などない。
どのような人間であろうと、もう死んでしまっている人間を人質にすることはできないのだから。
村が滅んだ事情は調べた。
おおむね、彼女が言ったことと間違いはなかった。
彼女の村では、大型の魔獣に襲われて滅び、そしてその難民のひとりが、彼女であると。
よくある話ではあった。
村を滅ぼしたのは、高位の冒険者でさえ手こずるような魔獣であったという。
……魔王から見れば、戦いを知らない平凡な村娘に、そんな存在に立ち向かえというのは無理難題にもほどがある。
コリュウがいても、その頃はまだ三歳。幼生もいいところである。竜族といえど、そんな赤子同然の身で敵うはずもなく、殺されていただろう。
魔王から見れば、彼女が逃げだしたのは、罪でもなんでもない。
生き物としてごく当たり前の、行動だった。
彼女自身、それはわかっていると言った。
でも、生まれ故郷だからこそ、そう割り切ることができないのだと。
彼女の心のわだかまりのきっかけになればいいと思って、魔王は提案したのだ。
「コーウェン村……といったか? お前のおかげで、仕事も滞りなく廻っている。往復で、ひと月あれば充分だろう。俺は、お前を育ててくれた者に、礼を言いたいのだ」
誠実な言葉だった。
彼女の心のわだかまりをとくためにも、また、彼女と結婚した夫としても、その両親の墓前に参りたいという……あたたかい言葉だった。
なのに――。
彼女の手のなかにあるスプーンは震えていた。
顔色はどうしようもないところまで青ざめ、今にも卒倒しそうだった。
――血の海を見ても、眉一つ動かさないだろう彼女がだ。
「クリス……?」
彼女は、テーブルの上の無数の料理を道連れにするように、倒れた。
◆ ◆ ◆
「クリスっ!」
給仕をしていたもの、そして側にいた竜族、魔王。
全員が駆け寄り、彼女を抱き起こした。はずみでひっくり返した皿で、ドレスは無惨に汚れている。
「――クリス!」
妻を抱き起こし、真っ先に毒を連想した。解毒の魔法を唱える。
「《解毒》!」
効果がない。
特殊な毒なのか。
すぐに抱きあげ、薬物の専門家の元に向かう。
城に勤める薬師の誰よりも、森の精霊族であるあのエルフの方が薬には詳しい。
仕事時間外に叩き起こされて不機嫌そうだった表情は、クリスを見た瞬間に吹っ飛んだ。
真剣な顔で診察し、診断を下す。
「……これは、毒では、ありません」
「毒では、ない?」
「はい。それに、うちのリーダーは毒を盛られて素直に喰らってくれるほど容易い人間ではありません。すべて見抜きます。しかも、コリュウがいたのでしょう?」
「うん……ボク、毒が入っているなんて、わからなかった……」
「クリスは料理をひっくり返してしまっていますから確証はありませんが……恐らくは毒ではありません。――心の準備はよろしいですか?」
「……ああ」
魔王は真顔になって、気を落ち着かせる。どんな凶報がもたらされるのかと。
マーラは告げた。
「ご懐妊です」
「…………は?」
「身籠られております」
「…………」
魔王は一気に脱力した。
そのことで、彼女が深刻に悩んでいるのを知っていた。
人族は身籠りやすい。しかも頻繁に閨を共にしているのに、まだ懐妊しない。
その不安を聞いたときには、一年しかたっていないのに、というのが正直な本音だった。
しかし、魔王からすればたかが一年だが、人族の基準ではもう、なのだろうと。異種族間の感覚の相違の一例だろうと思っていた。
……不妊になりそうな心当たりが一山いくらであったこともあり、彼女はとても不安がっていた。
さいわい、杞憂で済んだらしい。
周囲に詰めていた者たちも、一様にほっとした顔をしている。王妃の懐妊の知らせは、彼らの口から一気に広がるだろう。
「……つまり、つわり、か?」
「……だと、思うのですが……」
マーラは冴えない顔だった。
クリスは引き締まった体をしているので、コルセットを用いない。公務を抱えて動き回っているので、動きやすいドレスを好む。そう、いざとなれば立ち回りもできるような。
体を締め付けるものではないのに……なぜいきなり倒れるのか。
そのとき、おずおずと、王妃の侍女が申し出た。
「あの……王妃さまの、お召し変えを……」
「ああ、そうだな」
彼女が着ていたドレスは、料理の汁が飛び散って、ひどいものだ。
「くれぐれも体に負担のかからない様なものを、持ってきてください」
侍女が姿を消し、マーラは魔王に尋ねる。
「お尋ねしますが……どのような話を?」
「いや……両親の墓参をしないか、という話をしていたんだが……」
エルフは目を丸くした。
「墓参り? クリスの親の……ですか?」
「ああ。……どうした?」
「……」
マーラは口をつぐみ、沈黙する。
漂う異様な気配に、魔王は素早く手を振って人払いをした。
その場にいるのは、コリュウと、マーラ、そしてダルクだけとなった。
「人払いはしたぞ。話せ」
「えー……まあ、なんと、いいましょうか、ね……」
マーラは苦笑しいしい、コリュウを見た。
コリュウはあっさり口を開く。
「クリス、両親から苛められてたよ」
衝撃的な一言だった。
「……なに?」
ほんとうに、意外で……、魔王は思わず問い返した。
両親から愛されず、育った人間には歪みがある。
そういうことは、肌で伝わる。
たとえば魔王自身がそうだ。
反して、クリスの場合、逆の気配が全身から伝わるのである。
人助けしましょ、困っている人がいたら助けましょ、人間って大好き!
――端的にいえば、そういう善人オーラだ。
芯に、歪みがない感じ……といえばいいだろうか。
力は人を助けるためにある、自分は運が良かったから、その分人を助けたい。そういう彼女を見ていると、ほっこりと微笑みが浮かぶ。
そして、両親の人柄が偲ばれる。きっと、彼女を慈しみ愛して育てたのだろうと、見たこともないのに、彼女の親に好意すら抱いていたのだが……。
なのに……彼女の親が?
知らなかったのか、ダルクも顎をぱかりと開けている。
それほど、彼女から伝わる健全な気配と、「虐待」という言葉は相容れないのだ。
「……私もコリュウから聞いた時には、びっくりしましたよ……。あの子、いかにも、貧しくとも愛されて育った娘、っていう感じですから」
「クリスね……、ボクを拾ったせいで、無駄飯ぐらいが、って苛められてたの。クリス、ご飯をボクと半分こしてくれて、だからいっつもお腹空かせてたよ。だからボク、獲物が獲れるようになったら一生懸命狩りをしたの。そうしたら、逆に、ボクが獲ってきたもの、横取りされるようになって……」
魔王は唖然としていた。
「あの子は、自分がそういう目にあってたっていうこと、私の知っている限り、一度も人に言ってません。ただ、村は魔獣で滅ぼされた、その生き残りが自分だ、それだけです。……まあ、吹聴するようなことでも、ありませんしね……。それに、あの子の性格からして、死んだ両親の事を悪くは言えなかったんでしょう」
「ボクね、クリスの両親大っきらいだったよ。だってボクがクリスのために獲ってきたもの、とっちゃうんだもの。クリスはいいって言ってたけど……すごく嫌だった。だからクリスだけ連れて逃げたの」
コリュウがクリスだけを連れて逃げたのは、そういうことだったのだ。
恐らく、村人も虐待の無言の共犯者だったのだろう。狭い村では、そうした家庭の事情でさえ、筒抜けなものだ。
半ば以上茫然と聞いていた魔王だが、やがて気付いた。
「……ちょっと待て。なら、どうしてあの娘、『ああ』なんだ?」
世の中、つらい傷を乗り越えて、明るく過ごしている人間もいるだろう。
しかし……彼女の場合、根っこに人間賛歌がある。人間が好き、そういう気配を感じるのだ。
人の弱さも醜さも知っている。でも、その上で、人間って素晴らしい。
――口に出して言われたわけではなく、感じ取ったものだが、だからこそ騙しにくいもののはずだ。
マーラは口元に手を当てる。
「……えーと、性格?」
魔王はコリュウに目をやる。この竜族に、嘘をつく理由は一切ない。
だからこの話も、一応は真実という前提で聞いているのだが……。
「本当か?」
コリュウはぷんすか怒った。
「なんでこんなことでウソつくのさ! クリスの旦那さんだから教えてあげたのに!」
竜族は知能が高いので、母親を庇うためなら幼くても嘘もつく。
でも、ここでそんな嘘をつくメリットはない。
ここにいるのが仲間と魔王だけだから彼女の傷の話を口にしたのだ。
「魔王が善意で言ってくれたの、わかるよ。でも、クリスにとっては村でのことって、思い出したくもないことだと思う。無かったことにして、心の小箱に閉じ込めているんだと思うんだ。……以前も、思い出したくないって言ってたし……」
「……そういや、言ってたな。そういう意味か……」
ダルクが思い出して呟く。
「だからごめんね。魔王が善意で墓参りって言ってくれたの判っているけど、クリスにとってそれはつらいことだから、気を悪くしないでね」
「わかった……まあ、しばらくは墓参りどころじゃないだろうしな」
「ええ。彼女は、しばらくひきこもると思います。あらゆる危険から身を遠ざけて、あなたの子どもを無事に産むことに全力を尽くすでしょう」
身籠ったのだ。そして、彼女の流産、あるいは彼女の死を望む人間は多い。できるかぎり危険を遠ざけて過ごそうとするだろう。
超人的な彼女の戦闘能力も、妊娠中はその半分も出せないと思っていい。出したら子が流れてしまう。その機を狙う人間は……いそうだから困る。
マーラは最後に、魔王にお願いした。
「あなたには仕事がありますし、四六時中彼女の側にはいられません。そして、我々が彼女の側にはりつくことで、誰かが何かを言ってくることもあるかと思いますが……、あの子は、身持ちが固い子です。彼女を、信じてくれますね?」
「ああ……そうだな。そういうつまらん戯言を言う奴はいるだろう。だが、俺が耳を貸すことはない」
今後、側に張りつく信頼を置く護衛が男、ということで不義の疑いをかけられることもあるだろうが、魔王は彼女を信じていた。
……と、いうより、彼女が不義密通をするところが本気で想像できない。
彼女が、長年苦楽を共にしてきた仲間たちを、ある意味彼より信頼している事は知っている。気づいている。
だが、それが恋愛感情かというと、違う。
無条件での信頼。それは、家族への情愛だ。
クリスは、魔王の寵がいつなくなってもいいように心の準備をしているように思える。
彼女は、彼の愛情が永遠に続くなんて思っていないのだ。お伽話のようには考えることなく、恋はいつか冷めるものと、達観している。関係を切られることを、覚悟しているように見える。
彼女が無条件で信じているのは仲間だけだろう。
その点では腹が立たないでもないが、呑みこむぐらいの度量はある。男女の情愛でないのなら、我慢もしてやろう。
だいいち、あの職業で、あの年で、いまだ生娘であったことは魔王自身がよく知っている。仲間と恋仲になるならもっと早くになっているだろう。
「妃の警護は任せよう。内通者の危険は、確かに無いとはいえんからな。ただ――お前たち、少し出て行け」
誰一人として抵抗することなく、全員が大人しくそれに従った。
ダルクが言っているのは、「戦後のミーティング2」のことです。
今まで彼女の生まれ故郷の人間はコリュウをのぞいて全員名前が出てきていない……はず。たぶん。作者が馬鹿な見落としをしていなければそのはずです。
第一章で、彼女を批判した同郷の人についても、彼女は「何故か名前を思い出せない」でした。
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