客人と別れたインホウが部屋に戻ると、そこには悩みの種の本人がいた。
「よっ、兄貴」
先ほど別れたときとは別人のような明るい顔で片手を上げて挨拶する弟の姿に、インホウは思わず目を疑った。
だって、さっきの今である。
なのに、弟の表情も纏う雰囲気も何もかも見違えるようだ。
更に言えば、インホウのところに弟が自ら進んでやってくるとは、思ってもみなかった。
インホウの知る弟の取るだろう行動をいうと、こうだ。
気まずくて顔を合わせられず、けれども家族である以上完全に顔を合わせないでいるということもできず、仕事や用事でずるずると顔を合わせる内にうやむやにする、というあたりが取りそうな行動なのだが。
「ごめんな、心配かけて。もう大丈夫だから。それ言いに来たんだ」
そういう弟の顔は、最近見たこともないほどすっきりしていた。
兄がらい病だと判明してからこっち、弟はずっと暗い顔だった。
最初は家族全員がそうだったので気にしていなかったのだが、治療師に出会ったときも、治療師が治療を始めて以降もそうだった。
今なら弟の鬱屈の原因も推定できるが。
「もう……いいのか?」
「取りあえず、一人立ちして一人前の商人になることにした」
インホウはふむとうなずく。
「ほう……そうか。応援するぞ」
この反応は予想外だったらしく、弟は拍子抜けした顔になった。
「え? 反対しないんだ?」
「なんで反対するというんだ? お前が商売に成功するということは、我が一族がさらに栄えるということ。男たるもの、一度は一人立ちしたいと思うものだし、やってみるのはいい事だ」
弟は意外そうだったが、すぐににんまりと笑った。
「あ、うん。それでさ、ちょおっと独立資金の融通をお願いできないかなーと」
「愚か者」
インホウは弟の頭を張り倒した。
「いたい……」
「当たり前だ。一人立ちするための資金ぐらい、自分で貯めんか。そもそも長兄が回復したら、我が家の財産は枯渇するのだぞ」
「あ!」
「……忘れていたのか、おまえは……」
インホウは頭を抱えたくなった。
「え、えーっと、兄貴、ほんとにその条件を呑むつもりなのか?」
「ほんとに、と言われてもな。お前も承知しただろうが。なによりもう契約は済んでいる。公証人立会いの下の、正式な契約だ。いまさら反故にでもしようとしたら、我が家は信用をすべてなくすぞ?」
信用ほど金にかえられず、同時に無くすときも早いものはない。
「う、う~~っ!」
「というわけで、兄者が回復したら、兄者の友人に依頼して資金援助を願う。その後は真面目な行商の日々が始まるわけだ。――お前にやる金など銅貨一枚たりともない」
断言すると、弟は素直に謝った。
「ん、わかった。ごめん、無理いって」
「まずは資金を貯めろ。しばらくは私もお前も無給だが、余裕ができたらお前にも給金をちゃんと支払うよう取り計らうから。――だが、それ以前に、お前にこれまで払った給金はどこ行った?」
弟は言葉より雄弁に目をそらし、笑ってごまかした。
「……あはっ」
「わかった。使ったんだな」
行商で多くの町へ行く彼らは金使いが荒い。見知らぬ街で珍しい品を見つけると、もう二度と出会えないかもという想いからつい財布の紐も緩んでしまうのだ。
インホウ自身も辿った道なだけに苦笑が滲む。
しかし、弟が鬱屈から抜け出したのは、掛け値なしにいい事だったので、インホウの表情は明るかった。
「何があったんだ?」
「んー……。悩み全部がなんか吹っ飛んだっていうか……」
「吹っ飛んだ? ……そういえば、お客人に何を言ったんだ、おまえ」
「な、なんでそれを!」
「さっきあの方のところに行ったら、お前が来た、と言われたぞ」
「あ、兄貴も行ったのか」
「私も驚いたが。で、何を言われたんだ?」
「堂々とのろけられたというか、開き直られたというか……」
弟は首をひねる。
インホウも別の意味で首をひねった。
「え、いつもだろうそれは」
「……その言葉にその通りという感想しか出てこないあたり、すげーよな……。普通隠すじゃん? たとえそういう関係でもさ、人前では何でもない素振りをするもんじゃん? でも、あの人たちは違うんだよな」
「まあ、一か月も逗留するんだから隠しておけない、というのも大きいと思うが」
「そうだけど。で、そういうの、なんでなのかわかったんだ」
「なんでだ?」
「どこへ行っても何とかなる、そういう自信があるから――だってさ」
インホウは単純にして強い言葉に唸らされた。
「なるほど……確かにな」
「どこででも自立して生きていけるから、人の顔色をうかがって生きる必要がない。白い眼で見られたって、構わない。だいたい、普通の人は兄貴みたいになるだろう?」
「私みたい?」
「心の中で何か思っていても、面と向かって言わないで丁重になる。だろ?」
「……ああ……。確かに。機嫌を損ねるわけにはいかない相手には、そうなるな」
「あの人たちって地元の町でもあんなんだろ?」
弟の問いに、インホウは頷く。
「噂で聞くかぎりにおいてだが、あんな風だ」
「隠しもせず、ただの同居人ですとも言わず、堂々としてんだろ?」
「ああ。あの治療師が男色家というのは公然の事実だそうだ」
「うん。で、男色家だけどすげー腕のいい治療師に対して、普通の人はどうする?」
「…………私みたいになるな」
「そうそう。面と向かって悪口言うやつもいるだろうけど、普通は兄貴みたいにやり過ごすよな」
「よっぽど考えなしか、あるいはよっぽど男色家が嫌いな人間以外は、表面だけでも丁重な態度になるな」
いわゆる大人の態度、というやつである。
「もし仮に、そういう人間ばかりでなくて町を追い出されても、あの二人はどこにでも行けるし何とでもなるよな」
「ああ、それは間違いないだろうな」
人間が怪我をしたり病気にかかる生き物である以上、治療師の需要はどんな町にもある。
相当遠方にもジョカの噂は伝わっていたし、男色家であっても彼ならば受け入れるという町は山ほどあるだろう。
どこに行っても暮らしていける、というのは、根拠ない放言ではないのだ。
弟はうんうんと頷いて、朗らかに宣言した。
「俺も、それが許されるだけの力を身に付けることにした」
「…………やっぱりそうなったか……」
話の流れからして、弟がどういう話をしたのか想像がついてはいたが、インホウは肩を落とした。
それは、弟の性癖が「そう」であるということだからだ。
「お客人に手を出そうとしているんじゃないな?」
弟は唇を尖らせて抗議した。
「あ、それはないから。少しは考えないでもなかったけど……あれにどう割って入れと?」
「なら、まあ……いいか……」
苦いものはあるが、その辺りでインホウは妥協することにした。
弟が明るい。
それだけでインホウの気分も明るくなる程度には、彼も弟の事を愛していた。
「ごめん、兄貴。でも、俺もう逃げないことにしたんだ」
朗らかにそう言われてしまっては、インホウとしては嘆息してこう言うしかない。
「……それでお前が幸せなら」
言葉はそこで途切れ、良い、という言葉までは口に出せなかった。
インホウが同性愛を良い事、ではなく悪い事だ、と思っているのは変わらないのだから。
「ありがとう、兄貴」
弟は軽やかに礼を述べる。
その姿からすると、本当に悩みの迷宮を抜け出したようだ。
「あ、それと、兄貴にいい情報」
「なんだ?」
「兄貴は、二人と何とか仲良くなりたがってただろ?
――リオンさんが言ってたんだけど、ジョカさんのために家も親も捨てたって言ってた」
インホウは顔を引き締めた。
それは聞き捨てならない情報だった。
「と、いうことはやっぱり西方の上流階級出身だな」
「やっぱりそう思う?」
「混血だと言っていたが、あんな混血児がいてたまるか」
「だよなー」
弟もしみじみと同意する。
立ち居振る舞いや、どうしても滲む雰囲気。
彼にはどんなに人から馬鹿にされてもそれが何だと言える芯がある。
「混血児なら、多かれ少なかれ差別されて育ったはずだろう。なのに、そういう卑屈さの影がない。むしろその逆だ」
控えめに振舞っていても、限度がある。
周り中からこの男色家めという眼差しで見られていても、委縮する様子がない。
多くの場合、それを支えているのは絶対的な自分への肯定だ。
そしてそれは、幼少期に身近な人間から無条件の愛情を与えられた人間が持てるものだった。
口にしている経歴と本人が、
ちぐはぐなのだ。
十中八九、嘘と見るべきだろう。
「家に反対されて駆け落ちしたというあたりか?」
「たぶん」
インホウは首を振った。
「たかが色恋のために家まで捨てるか? しかも男相手に。わからんな、そんな気持ちは」
「あの……」
おずおずと弟が口を出した。
「リオンさん、十五歳のときにそれやったって」
「十五!?」
インホウは驚いたが、納得もした。
「十五なら、感情で突っ走る時期か。なるほどな。ありがとう。参考になった」
さしあたって、この情報が何の役に立つかはわからない。
だが、情報を集めておいて損はない。
弟が自分の耳に入れたのはいい判断だった。
「兄貴はこれからもあの二人と仲良くしたいんだろ?」
「当然だろう」
「だよな」
弟はにかっと笑う。
「俺もサンセイ。これからも、もし何か小耳にはさんだら兄貴に伝えるから」
「ああ、頼んだぞ」
商人二人はにっこりと笑みをかわし合った。
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