妊娠を告げたとき、彼女の顔に浮かんだのは、安堵だった。
それを見た時に気づくべきであったかもしれない。
王の妻である女にのしかかる、重みを。
もしも、彼女が市井の誰かと婚姻を結んでいたら、そうはならなかっただろう。まず喜びが来たに違いない。彼女が身にまとう健やかな空気は、ごく、自然にそれを想像させた。
連れて来るべきでは、なかったのだろうか。
あのままとどめておけば、こんな結末を迎えることはなかったのだろうか。
――あなたが好き。
そう言ってくれた彼女は、もういない。
――家族だもの。あなたが私を支えてくれた分、私もあなたを支えるわ。
そう言ってくれた彼女は、もういない。
――どうしても私の方が先におばあちゃんになっちゃって死んじゃうけど、それまでは仲良くしたいね。喧嘩をしてもいいけど、すぐに仲直りしようね。
そう言ってくれた彼女は、もう、いない。
魔王は、王である。
どんな美女であろうとよりどりみどりの、いくらでも選べる立場だ。権力や財を欲して、寄って来る女は多い。
最初に求婚した時、断られても悪い気はしなかった。むしろ、ほっとした。
彼が相手であろうと、真っ向から見つめてくる瞳は、自分の正義と力を信じる目だ。
どんなものであれ、己の正義を信じる者は、強い。それを魔王は知っていた。逆に、己の正義を信じられない者は、弱い。
独善と言い換えることもできるが、独善であっても、ひたむきな姿は魅力的だった。連続殺人者に不可解なことに時として信者がつくのは、どんな姿であれ人が己の正義を信じる姿が、魅力溢れて映るせいだろう。
真っ直ぐなその瞳に惹かれた。それが、欲によって惑わされ、揺れるところは、自分で望んでおきながら見たくなかった。
だから……断られたときには、正直、ほっとした。
断られることで、魔王はよりいっそう、彼女にのめりこんだ。
そして最終的に、彼女が自分を選んだ時、それが魔王としての力を求めての事だと告白されても、不思議なほど気持ちは冷めなかった。
これまで、そうした女性たちを唾棄していたにもかかわらず。
見事に身勝手に、心は「それで彼女の力になれるのなら」と答えた。
感心するほどの豹変ぶりといえた。いろいろ理屈も考えたが、とどのつまり要は、最初に好きになったかどうか、なのだろう。
幸いにして、というべきか。
彼女は、魔王の力と財だけを求めて結婚したのではなかった。
欲得ずくなのは否定しないけど、と前置きをして、
好きでなければ、結婚なんてしない。
そう言いきった言葉と、態度に、ひどく救われた気分になった。
私はあなたを助ける。だからあなたも私を助けてね。
クリスは、何度もそう言った。
違う種族だから、行き違いや価値観の違いは絶対にあると思うの。何か不満だったら貯め込まないで言ってね。私も言うからね。
閨の中で、行為だけをしていたわけではない。
彼女は多くの言葉を紡ぎ、彼も言葉を返した。その中で育つものがある。愛を作る行為とはよく言ったものだ。
一番多かったのは、やはり睦言だ。
照れ屋の彼女はあまり言ってくれなかったが、その分を埋めて有り余るほどの言葉を魔王は贈った。
「は……恥ずかしい……。恥ずかしさで死ねる……っ」
と、身悶えする彼女の姿が可愛かったから、というのが最大の理由だが。
また、言われっぱなしでは悪いと思ったのか、恥ずかしそうに身をよじりながら、彼女も返してくれた。
――私も、好き。
愛されること。愛すること。家族となること。お互いに支え合い、労わり合うこと。
「家族」というものを、魔王は彼女から学んだ。
彼は、ただ愛される事に慣れていなかった。生まれつきの家族はそれを与えてはくれなかった。力を得た後は、それ目当ての人間ばかりが寄ってきた。
ただ愛されることに飢えていたのだ。
そんな彼に、彼女は真剣に向き合い、一つずつ教えてくれた。
子どもができずに悩み苦しむ彼女を見ているのはつらかった。彼女の悩みを共感はできなかったが、苦しんでいる彼女を見ているだけで胸が痛んだ。
子どもなど、最初から欲しいとは思っていなかった。
周囲と、彼女が欲しがるから、ならいいかと思っていただけだ。
自分の子を愛せる自信は無かったが、視点を変えて彼女の子どもと思えば愛せた。
生まれたのは娘だった。
良かった。
瞳の色も彼女と同じだった。
なお良かった。
自分の子と思うのではなく、彼女の子ならば愛せた。
ならば、彼女との共通点が多い方がいい。
彼女の青い瞳と、彼女と同じ性別。そして確かに彼女の血を引いている。
それだけ揃えば、愛せるだろう。たとえ魔王が愛せなくても、彼女が二人分……いや、十人分ぐらいの愛情を子に注いでくれるに違いない。
そう思えた。
そう思っていた。
その妻は、今、首だけになって魔王の膝にいる。
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