ダルクと、ダルクに担がれたマーラがユーリッドの部屋に駆けこむと、赤ん坊を覗き込んでいたコリュウが驚いたように振り返った。
「……ど、どうしたの?」
緊迫感のない、日常の延長にあるきょとんとした顔。
それが、二人の衣服についた血に気づくと一瞬で引き締まる。
「なにがあったの?」
ほんの一瞬――ダルクは激しく迷った。
今はまだ、この幼い竜は何も知らない。赤ん坊だった自分の命を救い、育ててくれた母が無惨に殺され、血の海に漂う一片の小さな肉になったことを。
無邪気に母の帰りを待つ子どもにその死を告げる、なんて嫌な役目であることか。
しかし、遅かれ早かれ、伝わることだ。
他人から伝われば、そのぶん余計な枝葉もついてしまう。歪曲されて伝わろうものなら、衝撃は数倍になるし、何よりこれは――、家族同然だった仲間の仕事だった。
ダルクはちらりと肩の上からエルフを下ろすと、告げた。
「クリスが死んだ」
凝固したコリュウとは裏腹に、ダルクはその言葉口に出した瞬間、えも言われぬ違和感を受けた。
何かを見落としている……なにを?
――決まっている。
ダルクは、床にへたり込んだまま死んだように動かないエルフと、今しがたの発言がまだ理解できないでいる飛竜の幼生を見渡す。
ちなみにコリュウは空を飛んでいるとき、止まっているときでも翼を動かして位置を維持している。完全に動きが止まれば、落下してしまう。
だから、揚力がなくなり落下して床に落ちる前に、素早くダルクが受け止めた。
「コリュウ! 待て! ちょっと待て……」
呟きながらも必死に記憶を再生する。
思い出すのは、血の海。
そして転がっていた白い肉。
広がる黒。長い射干玉(ぬばたま)の黒髪。
それ、が何なのか、誰なのか、すぐに理解した。
けれど……ああそうだ、「あれ」が、本当に彼女だと、どうしてわかる?
以前マーラだって同じことを計画していたのを知っている。
身代わりを作り、それを殺し、死亡を装う。古典的で、典型的だけれど、効果的だ。
何よりも――最大の証拠があるではないか。ここに。
ダルクは彼女が死んだら生きていけない。心情的にではなく、物理的に。
ダルクにかかった契約の鎖は、彼女が死ねば自動的にダルクを縊り殺す。
なら、逆も真だろう。
――クリスは、生きているのだ。
「コリュウ、マーラ! あいつは生きている!」
その一言の効果は劇的だった。
マーラの顔に生色がもどり、顔を上げた。コリュウもダルクの手の中で首をもたげる。その動きに合わせ、細やかに連なるエメラルドグリーンの鱗が光を反射し、白く光った。
「なんて?」
ダルクはもう一度繰り返す。
「あいつは生きている! 俺が何よりの証拠だ!」
ダルクは罪人である。
一生涯を、クリスの奴隷として生きる代わりに、仮釈放されている犯罪者。その監視下に置かれ、次に罪を犯したとき、もしくはクリスが死んだ時には処刑される。
逆に言えば。
ダルクが生きているということは、クリスも生きているのだ。
――しかし。
マーラは苦渋に満ちた顔で、かぶりを振った。
「……ダルク。それは……ちがうんです。あの子は……あなたには秘密にしていましたが、とうの昔に、鎖を解いていたんですよ。結婚式が、終わってあなたがこちらに来たときに」
「……な――」
「解呪は、わたし。あなたが……それに、気づかないように、細工をするのも、私が――」
「なんで!」
ダルクの声は、まるで悲鳴だった。
長年縛りつけられていた鎖が解かれたというのに、彼女が生存しているという主張の最大にして唯一の根拠を失うことに、恐怖したのだ。
「あの子は……いつ、殺されるかわからないと……。魔王城にまでついてきてくれたあなたを、巻き添えで殺すのは忍びないと……」
「――……」
「そして、ごめんなさい、と言っていました」
ダルクは、絶句、した。
「……え? ……知って、いたのか?」
主語が無くとも、意味は伝わった。
「……はい。私も、驚きましたが……」
茫然とさまようダルクの視線が、ふと赤ん坊の目と結ばれた。
――とたんに、赤ん坊が泣き出した。
「うぎゃあああん!」
マーラが顔をしかめる。
「……乳母は」
クリスは王妃だった。多忙なためにとても休みなし待ったなしの赤ん坊の世話はできず、基本は乳母に任せて公務の合間にこまめに顔を出していた。
部屋に常駐しているはずの乳母はいない。厠か、なにかちょっとした雑用にでも出ているのだろうか。
「うわあああん!」
部屋中に鳴り響く泣き声は、収まる気配もない。いや、何もせずに放っておいたら収まるはずもないのだが。
「赤ん坊ってうるさいねー」
「……おしめでしょうか? ミルク?」
乳母は戻ってくる気配もない。
仕方なく、動いたのはダルクだった。
コリュウは論外。鉤爪で赤ん坊に触れたら怪我をする。
マーラも、エルフの赤子なんて滅多に生まれないので見たことがない。この子に関しても乳母と、クリスが世話していたのを見ていただけだ。
今ここで、赤ん坊の世話をしたことのある人間は、ダルクだけだった。
ダルクはおしめを確認する。もちろん布おしめだ。汚れていたのでこれが原因だろうと考える。
「……ええと、替えはどこだ?」
近くに常備しているだろうと探して替えを見つけ、格闘しつつ何とか交換を終える。部屋の中は香ばしい匂いでいっぱいになった。慣れていないコリュウとマーラは顔をしかめる。
「……くさい……」
「――お前らな……」
この時期の赤ん坊など、本能だけの動物だ。
手伝いもせずに文句を言うふたりをダルクは冷たい目で見た。
汚物入れに汚れたおしめを入れ、ダルクは魔法で汚れた手を洗う。
部屋に充満していた臭気はマーラが交換した。
「おぎゃあ! おぎゃあ! おぎゃあ!」
そして、それでも赤ん坊は泣き続けている。
「……やっぱりミルクですか?」
「……かもな」
乳母はまだかとダルクは首をひねる。
おむつを探したりと手際が悪かったので、かなりの時間が経っている。なのに、乳母の姿はまだ戻ってきていない。
「――遅すぎますね」
赤ん坊の泣き声がこだまする部屋で、何故かその声だけははっきりと響いた。
ギャン泣きしている赤ん坊の隣で涙に明け暮れるには、かなりの無神経さが必要です。悲しみに浸るヒマも与えてくれないのが赤ん坊です。
小説とかでは可愛いだけの存在として書かれることが多いですが、数時間ぶっ続けで泣かれれば育児ノイローゼで赤子の首絞めたくなる母親の気分がわかることうけあいです。
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