マーラは、いつの間にか、彼女とともにあることに幸せを感じていた。
――私が死んだら、仲間の元へ戻って。
クリスはそう言っていた。体が弱いエルフなのに、一緒にいてくれてありがとう、でももういいのよ。そういう意味だということは、聞かずともわかる。
ここからサンローランまでは、すぐだ。
魔王城に戻ればゲートも設置してあるから、マーラひとりならそれこそすぐに帰れる。
……でも、帰って、どうする?
マーラはエルフだが、クリスに教育されて、金銭の持つ価値を理解している。サンローランふくむ人族の町では金銭が必要だということも……クリスが、一生遊んで暮らせるぐらいのものを彼に残してくれたことも。
――でも、帰ってどうするのだ?
また、どこかの冒険者と一緒に冒険? 馬鹿な。
騙されて売られるのがオチだ。そういう仲間を何度も救出した。
そんな気のない善意の冒険者だったとしても、何度も何度も倒れていれば、そのうちにマーラを鬱陶しく思うようになるだろう。そうして戻ってくる仲間も、何人も目にした。でもそれはむしろいい方なのだ。エルフを売ろうともせず、ただパーティに不適格の烙印を押しただけなのだから。
命を預けあうのが冒険者だ。
仲間として適格かどうか、見極める権利は双方にある。命がかかっているだけに、シビアにならざるをえない。そこには善も悪もなかった。
冒険者として暮らしたマーラだって、その気持ちはよく分かる。
クリスだからこそ、受け入れてくれたのだ。しょっちゅう熱を出して倒れるような繊弱なエルフを。
それに……彼女以外の人間と、冒険をする気があるかと言われれば……、まだ、サンローランで結界の構築などの業務をして過ごした方が、救われる気がした。
いや――そもそも、どうして、生きていかなければならないのか。
マーラは、胸を開いて、大きく、息を吸った。
……そうだ、生きる義務など、彼にはない。
「……マーラ。ユーリッドを、守って。一緒に。あの子のために生きて。お願いだから」
そんな彼の心を読んだように、コリュウが言った。
「……コリュウ」
「それとも、復讐を選ぶ? マーラがそういうのなら……ボク止めない。応援する。だから、死ぬのだけはやめて」
コリュウは必死だった。
マーラは家族だ。だから、その精神が枯死してしまうことだけは、避けなければならない。
そのためなら、マーラが無謀な復讐をするのにも、協力したっていい。
絶対最強の人間などいない事は良く知っている。マーラとコリュウが協力すれば、復讐だって勝ち目が見えてくるだろう。
とにかく、自殺だけは駄目だ。
「――コリュウ」
「クリスが悲しむよ。だって、クリスはマーラの事大好きだったもん。死んじゃだめ。死ぬのだけは、だめ。ねえ……サンローランに一緒に帰って、ユーリッドを守ろうよ」
「ユーリッドを、守る……?」
呟いたとたんに蘇ったのは、あのいつまで続くとも知れない際限ない泣き声だった。
――思わずげっそりしてしまったマーラに罪は無い。たぶん。
赤ん坊のギャン泣きを、三時間以上エンドレスで聞いた事のある人間ならマーラの気持ちをわかってくれるだろう。
三時間以上もあんな小さな子が泣けるのか、という人もいるかもしれない。
赤ん坊というのは、それはもう、無尽蔵とみまごうような体力でもって泣き続けるものなのである。大人でも三時間以上大声を出し続けたら疲労困憊するというのに、赤ん坊の場合いつまで経っても泣き続けるのだ。
嘘だと思うのなら、夜泣きがひどい赤ん坊を抱えたお母さんに聞いてみよう。
閑話休題。
ともかく、その赤ん坊を守ると聞いて、やる気が昂進されなかったマーラに罪はあるだろうか。
想像しただけでげんなりした男を、責められるだろうか。
赤ん坊の泣き声というのは癇に障る。「そういうふうに」できている。
うるさくて仕方がない、聞いた人間がそう思うような声になっているのだ。
さて、その赤ん坊を守るということは世話をするということでもあり、ということはあのギャン泣きとこれからも付き合っていかなくてはならないということで――と、そこまで考えてしまって意欲が恐ろしいほど削がれてしまったのは、種族うんぬん以前に男という生き物の性質かもしれない。
赤ん坊がなついていたクリスや乳母ならともかく、世話をするのは見知らぬ男と女である。これからも折り折りの大泣きは止まらぬであろう。
赤ん坊の生態を知らない人なら、そんな年で個体識別できるのか、そう思うかもしれない。
しかし、赤ん坊、侮るべからず。
どう見ても個体識別しているとしか思えない事例が多々ある。
母親に抱かれるとぴたりと泣くのをやめる、母親以外に抱かれると途端に泣きだす、子育て経験のある人なら誰でもそんな姿を見ているだろう。恐るべし、赤ん坊。
「赤ん坊」というのは決して可愛く庇護欲をそそるだけの対象ではなく、時として恐ろしいほど神経を苛つかせる存在である。
この短時間で、マーラはそれを学んでいた。
クリスとセットなら可愛いだけで済むが、母親を亡くした赤子はしばしば不安から大声で泣きわめく。
「……クリスの子どもと思えば……うーん……」
あれはクリスの子ども、クリスの子ども、と自分に自己暗示をかけようとするマーラ。
その時点で心が揺らいでいる事に気づいてほっとするコリュウだった。
◆ ◆ ◆
そんなマーラの葛藤に終止符を(無理矢理)打ったのは、ダルクの母だった。
コリュウの話を聞くなりマーラを力ずくで連行し、赤ん坊の世話を叩きこんだのである。
鉤爪の関係で、コリュウは無理なのでダルクとマーラのふたりに。
この場で唯一子育て経験のある女性は絶大なる権力者となって君臨し、役立たずの男ふたりにスパルタで教え込んだ。
息子のダルクにも特別扱いは一切なしの、それはキビシイものであった。
「いいかい! これからあんたたちがこの子の母親で父親になるんだ! 当然、おしめの変え方とお風呂の入れ方、抱っこの仕方、ミルクのやり方ぐらいはマスターしてもらうよ!」
この世界での父親というのは赤ん坊の世話など何もしないものなのだが、それはもうびしばしと。
そして、人間、体を一生懸命動かし、新しいことを必死に覚えようとしていると、悪い考えというのは自然と晴れていくものである。
赤ん坊の抱っこの仕方から、かぐわしい香りに包まれながらの汚物の処理、おしめの交換、洗濯、ミルクのやり方など、経験者であるダルクの母の指導のもと、二人とも頑張った。
ちなみにコリュウはそれを羨ましそうに見ているだけである。
竜の鉤爪では触っただけでざっくりいってしまう。
スパルタ母親教室が終わるころには、マーラも赤ん坊を可愛いと思えるようになり、それとともにクリスの言葉も思い出していた。
――私が死んだら、ユーリッドをよろしくね。
赤ん坊のあまりの可愛げのなさ(そりゃあ、大泣きしていればそうだろう)に、故意に忘れていた言葉である。
しょうがないかあ、と、ため息をつきつつ、茶色い○がついたおしめを替え、洗濯するエルフであった。
――死ぬ気をなくすのは、何か仕事を押しつけるのが一番、ついでにダルクも覚えればもっといい、というダルクの母の目論見は、図に当たったようである。
可愛い「だけ」の赤ん坊は空想の世界にしか存在しません。ひたすら騒がしくて汚い対象でもあります。
マーラが思い出したくなかった理由がよくわかりますね。
ダルクのお母さんのおかげで、ダルクもマーラも初級母親技能ぐらいは習得しました。
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