今回、長いです。
――不思議なことに、彼女には理解できた。
これまで何度も助けられ、死線をかいくぐり、真偽を見つめてきた力。直感とでもいうべきものが、彼女に告げていた。
今日、ここで、自分は死ぬ――と。
口元に薔薇のような笑みを浮かべ、市井の民から見れば豪華な、王妃としては簡素な緑のドレスを身にまとい、彼女はたたずんでいた。
「産後の疲労も抜けきっていない女一人に、大層なお出迎えね? どうもありがとう」
その皮肉のスパイスのきいた言葉に答えるのは、がっしりとした体躯の魔族である。後ろには青黒い肌の人間が十一人。全員が魔族で、一騎当千に近い実力者たちだ。
十一人を率いるのが、今言葉を交わしている彼、という事なのだろう。
「いえいえ、礼を言われるほどのことでも。あなたさまにふさわしい、
勢を尽くした陣容をご用意いたしました。わたくしのもつ、最高の戦力を用意いたしたつもりです。けっして、討ち漏らすことのなきよう。……そして、万が一、もしもあなた様が見事この陣容を抜け出し、討ち漏らした折りには、わたくしの負けを潔く認めましょう。この身は破滅することでしょうな」
「不思議な口ぶりね。まるであなたの言葉は、それを望んでいるように聞こえるわよ?」
「それが、魔族のさがというものでしてな。どうしようもない種族的悪癖というやつですよ。わたくしは、強い者が好きです。そして、己の尺度を遥かに超える強者というものを見、その存在に跪き、ひれ伏したい。そういう衝動があるのです。まったく、困ったものです。――王妃様」
そこで彼は言葉を切り、彼女を見据えた。
「もしもあなた様がこの窮地を切り抜けられたなら、我ら一族揃ってあなた様に絶対の忠誠を誓いましょう。どうせ、その折には一族は壊滅的な打撃を受けていることでしょう。ここに、一族の有力なる者はすべて集っております。彼らの首が揃って落ちれば、どのみち我が一族は衰退への道をひた走るしかありますまい。二度と、このような襲撃を計画することは叶わぬでしょう」
「……そうね。でも、最後に理由ぐらいは聞かせてもらえるかしら? あなた方は、私の何が気に食わなかったの?」
「――無論、その白い肌が、です」
クリスは破顔した。
話し合いの余地のない、改善の見込みのない、決してわかりあうことのできない種族というものを理由にしての拒絶に、単に笑ったのだ。
それは皮肉でも厭味でもなく、純粋な笑顔だった。
「いっそ清々しくて、すっきりするわね。あなた方は、私が人族であることが気に入らない。どうしても受け入れられない。これほど裏表のない理由があるかしら。自分自身でもそれを認められず、下手に理由をこじつけて因縁をつけてくる人々より、あなた方のように手勢を集めて何が何でも私を殺そうとする方が、よほど潔くて好感を持てるわ」
その言葉を、彼女は口元に笑みを浮かべて言った。
さすがに一瞬、取り囲んだ人々に困惑めいた波が起こる。
彼女の言葉はまっすぐで、嘘ではないとわかる好意を伝えていたからだ。
「……王妃さま。私は、あなた様のそういうところが、嫌いではありませんでした」
「ええ。わたしもよ?」
嫌いではない、でも判り合えない。
すべてを話し合いで解決するのは理想だ。でも、理想論でしかない。
彼らはクリスが人族であることが嫌だ。そして、クリスは人族以外のものにはなれないし、なる気もない。
二つの主張に、妥協点はどこにも存在しない。
交渉だの話しあいだのの本質は、その実とてもシンプルだ。
強い者が、勝つ。
譲れない主張同士がぶつかったとき、起こることは畢竟、それなのだ。
強い者が力ずくで己の主張を認めさせること。
ここでクリスが死ねば、彼らは一息つくだろう。
そして、反面、クリスが彼らを倒せば、彼らはその力を失い沈黙するしかない。
この世には、血を流さなければ決着をつけることができない種類のものが、あるのだ。
クリスはふふ、と笑う。
久しぶりの戦いの高揚に、全身の細胞が活性化しているのが判る。
もう引退して、一般人なのに――なんて寝言は言わない。犯した罪は、一生消えはしない。彼女は多くの人間を
殺めた殺人者だ。殺される覚悟は持っている。彼女には生憎とそれに心悩める繊細さの持ち合わせは無いが、自分の命がいつ奪われても仕方のないものであるという認識ぐらいはあった。
先ほどの死の予感は、ますます強くなる。
今日、ここで、自分は死ぬ。勇者の称号も返上ずみで、『勇者の恩寵』がない以上、都合のいい救いの手が現れることは無いだろう。多勢に無勢で、嬲り殺しにされるだろう。
――それでもなお、彼女は覇気溢れる笑顔で彼らに宣戦を布告した。
「私はクリス・エンブレード。元大地の勇者にして、炎神の寵愛を受けし者。第三国魔王の正妃。私は私の存在すべてで、あなた方の殺意に抵抗する。あなたたちを殺し、生へとしがみつく。このわたしの命、見事取ってみなさいっ!」
どうどうたる宣戦布告。
表情を消し、魔族の精鋭たちが陣を組む。
彼らがいるのは、「空間のはざま」である。
魔力を持たない者がゲートをくぐると落ちてしまうはざま。
そこにあらかじめ空間を作っておけば、落ちたものは袋小路の空間に転がり落ちる。
その罠に、引っかかってしまったのだ。
彼女は転がり落ちた――魔力を持たない者は、自力で脱出するすべのない空間に。
彼女の勝利条件は敵方の全滅ではなく、脱出路を作れる人間を確保して脱出すること。
手の中に呼び出した魔剣を握り、クリスは自分の体調を確認していた。
この時代、妊娠中の女性には、とにかく何もさせないことがいいとされている。
農婦などの労働力を期待されている女性はともかく、貴族などはそれはもう安静に安静を重ね、「とにかく何もするなさせるな」で、十月十日を過ごすのだ。
とりわけ、暗殺者に狙われていた彼女の場合、それは顕著だった。
部屋から出たことすら、数えるほどしかない。入浴も続き部屋の浴室だった。
食事も、書類の決裁も、「寝台の上で安静」に、行われた。
つまり、彼女は、妊娠が判明してから数カ月まともに歩くこともなかったのだ。
これで、体力が衰えなかったらそちらの方がおかしい。
おまけに出産。子を産むことが、女性の体にとっていかに大きな負担か、言うまでもない。
それから、半年。
たったの半年。
以前の体力を取り戻そうと、運動は始めていたが、なんせ出産直後の弱った体だ。過剰な鍛錬はそれこそ害にしかならない。
安静を重ね、子を産み落とし、弱った体を何とか鍛え直そうとしていた矢先の今回の騒動。
勇者の恩寵があれば、信じられない様な確率の幸運が連なって、都合よく仲間の助けが入ることもあるだろう。
あれは、凶運と引き換えに、強運をも引き寄せる。攻め手としては難儀なスキルだ。因果律すらも操作して、持ち手の幸運を招くのだから。もっとも、デメリットも相応に大きいが。
けれどもその強運はもう、彼女にはない。
そして、予感がする。ここで、命が尽きるだろうという予感が。
彼女の勘はよく当たる。百発百中とはいかないが、九割ほどは当たる。その勘が、そういうのだ。
まあいい。
彼女は気持ちを切り替えると、スッと剣を持ちあげた。
――結局、この剣の名前すら、彼女は知らない。
そして、知らぬまま、死ぬ事になるだろう。
それでいい、と彼女は笑った。
冒険者としての道を選んだ当初から、死は常に身近にあった。
潔く殺されるなどまっぴらだ。死ぬ事が避けられないならば、徹底して見苦しくあがいてあがきぬき、なるべく多くの道連れを作って死んでやる。
それが、戦士の死にざまだった。
刃が踊る。
戦場を見つけ、使い手を見つけ、歓喜する刃が走る。
魔剣の使い方を、彼女は数々の戦闘をかいくぐるなかで熟知していた。
本来ならば剣と剣を打ち合わせるのは避ける。剣は消耗品であり、痛むからだ。
けれど、魔剣に限ってその心配はない。
むしろ、強引に、相手の剣と打ち合わせにいく。こちらから動き、こちらから相手の動きを誘導し、そうなるように合わせていく。
刃の拮抗はほんの一瞬にも満たない。
交わる角度も計算通りに。
魔剣と打ち合わせてしまった剣は、すっぱりと紙のように断ち切られる。
――工夫が足りないわよ。
心の中でそう論評する。魔剣と戦うからには、事前に武器への何らかの付与は必須。
寸詰まりになった剣に驚愕する暇も与えない。剣を断ち切ったその流れで腕を斬りおとす。
その場にいる十二人のうち、彼女に斬りかかってきたのは三人だった。残りの五人は距離を保って呪文を待機状態で保留。一人は先ほど話した指揮官で、最後尾で指示。残りの三人は前衛第二陣の後詰だ。
一人で多数にかかるとき、一番避けなければならないのは同士討ちだ。まして、魔族。
個々の力量は高くとも、連携は未熟。それが魔族の特徴だ。
だからこそ一度にクリスに襲いかかれるのは三人が限度。それ以上はむしろ害の方が大きくなる。流れた剣が、突きだした剣が、それぞれ味方とぶつかって多角的な攻撃以前の話になる。
そのうち一人が無力化される。腕を切り落とされて痛みに無防備になった腹部に渾身の蹴りを喰らった。
彼女の蹴りは成人男子の体をやすやすと吹っ飛ばし、今まさに彼女に武器が届く寸前だった仲間を巻き込む。二人は塊となって飛び、床に叩きつけられた。
彼女の蹴りをもろに食らった男は良くて内臓破裂。すぐに回復魔法を受けなければ死亡。巻き添えを食らった男の方も持っていた武器が自分に食い込んでいた。回復魔法が無ければこちらもすぐの戦線復帰は無理な重傷だ。
あそこで攻撃を阻害しなければ斬られていた。だから吹っ飛ぶ方向を制御できなかったのだけれど、もったいない。
後衛で控えていた魔術師たちを巻き込む方向へ蹴り飛ばせていればなおよかった。
二人を無力化する間に、三人目の斧が頭を割ろうとする。首を振ってかわし、しかしその下の胴体に斧が食い込み、肌を斬り裂こうとする。
後詰が参戦したのはそのときだ。
肩口から斧で胴体を両断されそうな一瞬。勝負はもう決まったも同然。なのになおも放たれた矢が背を狙う。
それを、クリスは
かがんでかわした。
「なっ!」
驚愕の声は当たり前だ。
大斧ではなく、振り回しやすい普通サイズの斧とはいえ、今の彼女はドレス姿で防具もない。胴体が両断されてもおかしくない威力。それが肩口に斧がちょっと食い込みました程度で――!
彼女がかがんで矢をかわしたことで、ぎょっとしたのは斧の戦士だ。
「ば……っ!」
どすどすどすっ。
一本は外れたものの残りの矢はまともに命中した。
斧使いの体に突きささり、太い胴体を貫き、食い破って反対側から矢じりの頭を突きだす。
手を振ってたたえよう。見事な強弓だ。
タイミングもお見事。あそこで勝負が決まったと慢心せずに彼女に追い打ちで矢を射かける判断はそうそうできるものではない。
しかしその射手は壮絶に顔を歪めている。
「グ、グラスト……っ!」
あんな矢を三本もくらって胴体を串刺しにされ、無事なはずがない。
「あ……」
ぐらり。
どう考えても致命傷。回復魔法、もしくは回復スキルがなければ。
クリスは立ち上がると、斧使いの体を今度こそ後詰の戦士たちの方へ蹴飛ばす。思いきり。
足の力は腕の三倍以上。筋力が落ちているとはいえ、クリスは素手で鉄を軽く捻じ曲げられる。そんな彼女の「思いきり」だ。
装備含め成人男子の一・五倍はありそうな重量物が、風を切ってすっ飛んで行く。投擲物の生死は言うまでもない。今のがとどめだ。
反射的に回避しようとして、すんでのところで戦士たちは自分の役目を思い出したらしい。
今度はきっちり方向も制御する余裕があった。
そう、前衛の役目は後衛の盾。
ここで避ければ後ろに命中する。魔術師にこんな重量物(しかも金属製)が当たれば、よくて大怪我だ。
一人だけ盾を持っていた人間が前へ出て投擲物を受け止め、側面に弾きとばす。転がった死体の首はあらぬ方にねじ曲がっていた。手足も。
「よくも……よくも……っ!」
クリスは先ほど斧の一撃を受けた場所に手を触れる。
寸前で「硬化」したので、浅手だ。
べっとりと血はついているが、もうすでに傷は無い。ドレスと血で隠れて相手にはわからないだろうが、教えてやるべきだろう。威嚇と挑発になる。
「貧弱な攻撃ねえ……、痛くもかゆくもないわ。もっとやる気を出しなさいな? 私を殺し、食おうとした魔族はたくさんいた。でもそれができた魔族は、ひとりもいないわよ?」
怒りは判断力を鈍らせる。その為の挑発だ。
「きさま、きさま……家畜ふぜいがっ!」
同じように、彼女も鼻で笑い、言い放った。
「ふん。神に全てを与えられ、ぬくぬくとただ生きてきた魔族ふぜいがっ! すべてから見放され、自力で這いあがってきた我々の力を舐めるなっ!」
彼女の一喝に、表層だけではない動揺が走った。
「我々は貴様たちとはちがう。すべてを自力でつかんできた。神に見捨てられし人族の力、存分にその目に焼き付けろっ!」
言いざま、魔剣を投擲する。
まさか生命線というべき魔剣を放棄するとは思わなかったのだろう。とっさに反応できたのは盾を持つ戦士一人だけだった。
そして魔剣は構えた盾を容易に貫通し、喉笛を貫く。
「き――きさ」
即座に手元に魔剣を再召喚。
彼女の夫がなんという宝の持ち腐れかと、彼女に説教したのもよくわかる。
魔剣の召喚は、戦術の幅を大きく広げる。
クリスは魔剣を握りしめ、飛び込んだ。
残る前衛は弓と槍。剣と盾を持っていた戦士はもう死んでいる。
一番厄介な剣はもう始末した。次に厄介な槍使いが顔をひきつらせながら一撃を繰り出す。
――残念。
後詰としては最適の武器選択だったが、この距離まで詰めた後は悪手に変わる。
穂先を斬り飛ばそうとして――槍が滑った。
穂先を斬り飛ばしても槍が止まらない。ぐんぐんと伸びる。いや、投擲したのだ。
柄まで金属でできた剛槍だ。彼女の軽い体など、打撃だけでも後ろに吹っ飛びかねない。ちっと手首を切り返し、魔剣の腹を使い、槍を振り払う。神経に響く金属音が反響する。
貴重な半瞬を稼がれた。
その間に槍使いは腰の剣を抜き、弓使いは矢を
番え終えて矢を放ち、そしてとうとう後衛の魔術師たちが魔法を放った!
「あああああああっ!」
魔法に包まれ、クリスは絶叫した。悲鳴ではない。少しでも体内の魔力抵抗をあげ、
抵抗するために。
それは生へとしがみつく雄たけびだった。
魔族は攻撃魔法に長け、補助魔法を苦手とする。攻撃魔法は前衛を巻き添えにしてしまう。かといって彼女相手に前衛なしなど無謀にすぎる。
これまで前衛を巻き添えにする事をはばかって魔法を控えていたが、ついに吹っきったのだ。
「負け……るかああああっ!」
「ぐああああああっ!」
二人分の絶叫が響き渡る。
距離をとった弓使いはともかく、槍使いは巻き添えをくった。
属性は複合。雷と氷と風の魔法が吹き荒れる。
攻撃魔法に長けた魔族の、五人分の魔法だ。魔法抵抗が高い魔族でさえ死に抗う舞踏は一分ほどで終幕をむかえる。
まして、魔法抵抗が低い人族などひとたまりもない――はずだった。
魔法の嵐の中、踊り狂っていた二つの人影が静まり、それからさらにしばらくして、やっと魔法が終わる。
魔法が尽きたあとも、一分ほども誰も何も言わなかった。
やがて、恐る恐る声が上がる。
「……こ、殺せた……か?」
「しかしこれでは、食うにももう消し炭状態だろう、な……」
「まあ……いい。殺せただけでもよかったとしよう……」
――無言で起き上がった彼女の腕がひらめき、五つの首が離れた。
「な……っ!」
弓使いがとっさに地面を蹴り、距離をとる。
「あー……もう。痛かった。ホント痛かった。本気で死ぬかと思ったわよ」
彼女が着ていたドレスは黒こげで、もう既に衣類としての役割を果たしていない。全身にこびりついた煤が彼女の白い肌を覆い隠しているような状態だった。
そう、白い肌。
あれだけの魔法を喰らって、なぜ。
弓使いは喉の奥に引きつった声をだした。
「……な、ぜ」
「馬鹿ねえ。わたしが、炎神の寵愛を受けていると、知らないの?」
「し、しかし、それは、炎を無効にするだけでは……」
クリスは心底呆れた顔になった。
「だから、私がそれをほいほい吹聴するのはなんでだって、どうして思わないのよ」
「あ……」
「恩恵は、それだけじゃないの。でも、それだけと思ってくれたほうがいいでしょう? ペラペラしゃべっている事の裏を考えなさいよ」
口はタダ、誤解してくれればめっけものだ。
「私には魔法は効かないの。炎以外の魔法は、さすがに無効とはいかないけどね。それでも高い魔法抵抗を持つのは、今見たでしょう?」
嘘である。大嘘もいいところである。炎神の寵愛の恩恵は、正真正銘、炎属性の無効化だけだ。
しかしはったりも実力のうち。
繰り返すが、口はタダである。
彼女が生き残ったのは、ただ単純に――そう、単純なまでの再生力の強さだった。
肌が焼け、肉が焦げる矢先から再生する。
魔法の豪嵐は五分以上にもわたった。つまり、その一瞬一瞬の破壊力はそう大したものではなく、それを五分以上にもわたって維持することによりトータルの攻撃力を叩きだす、そういうタイプの魔法だ。
それならば、その一瞬一瞬を、耐えればいい。
爪がはじけ、指が焼け焦げ、骨が露出しても、その次の瞬間には再生する。それを繰り返せばいい。
しかし、魔法嵐の中でそれを見ることはかなわない。
彼らが見たのは、魔法が終了した後、何事もなかったかのように出てきた彼女の姿だけだ。嘘八百を見抜けるはずもなかった。
クリスは距離を詰めると剣を振るい、弓使いをばらばらにする。
そして、奥に控えていた指揮官に目をやった。
「目に見える範囲では」、彼が最後だ。
「生き残りはたったの二名だけど……まだやる?」
彼女は、全滅させるわけにはいかないのだ。
「……気づいておいでですか」
「できれば、降伏してくれるとうれしいんだけどな。隠れている最後の相手は、どうやら知り合いみたいだし」
彼女は気配察知の能力で、細かく人を識別している。
気配察知は、顔だけではなく人の外観の情報を極めて微細に集めることのできる能力ともいえるのだ。人の身長、体重、歩き方、体格。
極端な話、指の一本一本の長さに至るまで完全に一致するような人間はいない。
そして、彼女の感覚は、その人物と過去に会ったことがあると伝えていた。
「知り合い……?」
「友人ではないわね。知っている、会ったことのあるというだけだけど」
「――まあ、そうだね。あまり話もしなかった。知人、という形容が適切と言えるかなこの場合」
隠蔽の魔法を解いて、歩み寄ってきたのは、予想通りの人物だった。
「……『残光の夢追い人』」
呟くと、青年の顔がはっきりとひきつった。
「……その名前、言わないでくれますかね? 物凄く恥ずかしいんですよ」
「ああ、やっぱりそうなんだ? 自分で名乗ったのならかなり恥ずかしいと思った」
「人が勝手につけたんですよ!」
憤慨する青年をクリスはまるっと無視した。
「あなた、どうしてここにいるの? まさか、産後のまだ体が弱った女性を、寄ってたかって嬲り殺しにした挙句バーベキューにしようっていう輩に、協力するつもり?」
「……そう言われると、きっついなー……」
青年は苦笑する。まるで、世間話をしているかのように。
死体が十一も転がり(うち二つはまだ生きているが)、血臭漂う酸鼻きわまる戦場で、冗談めいた軽い口調だった。
もっともそれは、彼女も同じだ。
まるで日常の延長。目前に広がる血みどろの修羅場をまるごと無視して会話する。
「私、出産してまだ半年なの」
「もう、半年でしょう? 半年もあれば充分でしょうに」
出産に対しての男の認識など、こんなものである。
「――これだから男っていうのは! 産後の体がたったの半年で戻るはずないでしょう! 産後の弱った女性を攻撃するつもり? 男として、ううん、人としてどうかしていると思うわよ?」
繰り返すが口はタダだ。
ついでに、言っていることも間違いではない。相手の戦意とやる気を削ぐのに手間を惜しむな、が彼女の信条だ。
青年の瞳に、ひどく冷徹な光が宿る。
「……そうなんですけどね」
そう肩を竦める青年の名前を知らない事に、彼女は不意に気づいた。
「ねえ、名前を教えてくれない?」
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