ジョカは冷淡に言う。
「戻るつもりなら、もう二度と手は貸さんぞ」
リオンが驚いたほど、冷たい声だった。
少女は一瞬息を呑み、それから頷く。
「はい――。わかってます。ただ、その、父はどうなるんでしょうか」
「俺がさっき渡した金をちゃんと返済に当てられるかによる。もしもお前の父が俺が渡した金を遊びに使ってしまえば、そこまでだ」
「……」
少女は思いつめた表情で、それでも歩みを止めることなく足を運んでいる。
これから、彼女は診療所に住みこむことになっている。
リオンとジョカが暮らす家に、多感な時期の少女を住まわせるのは少々問題があるからだ。なんせ四六時中親密な関係を持っている。
ジョカも彼女に気兼ねするだろうし、彼女の方でも気兼ねするだろう。物心ついたころから無数の使用人が周囲にいて、他人と住居を一緒にすることに抵抗のないリオンとはちがい、ジョカは他人が家にいるとくつろげない小市民だ。
その点、診療所での住み込みということになれば職住一緒で行き帰りの時間も必要なく、勝手も了解している。
が、少女の足取りは重い。
リオンは懸念する顔でそんな少女を見た。それから無言でジョカに目を移す。
ただそれだけの視線の動きでも、リオンが言いたい事は伝わった。
少女が何を考えているか想像がついたので、ジョカはため息をついて、諭した。
「リンカ。お前は、リオンに啖呵(たんか)を切ってみせただろう。治療師になりたいと。それに感心して、リオンはお前に手を貸すことにした。それを忘れたのか。何かを得るという事は、何かを失うということだ」
「はい……はい。わかっています。わかって……いるんです。ちゃんと」
「全然ちゃんと分かっているようには見えないがな」
「はい……わかってます」
そこで少女が口をつぐんだので、三人は黙って歩いた。
ジョカもリオンも背が高いので、間に挟まれた小さな少女がいっそう小さく見える。もう十三歳なので(二人が旅に出ている間に誕生日が来ていた)小さくもないのだが、比較対象の問題だ。
リオンが歩きながら今日はこの子を家に泊めるしかないか、と算段をしていると、ぽつりと少女が言った。
「……おとうさん、昔はあんなじゃなかったんです」
「そうか」
「お母さんが死んでから、お父さん働かなくなって……」
「ああ」
「弟か妹が、生まれるはずだったんです。でも、お母さんお産が難産で、男の治療師さんに見せるのは死んでも嫌だって言い張って……」
リオンがジョカをうかがうと、ジョカは頷いた。
ジョカは知っている話のようだ。押しかけてきたときに、話したのだろう。自分がどうしても治療師を目指す理由を。
良くある話だ。
お産の時、どこを見せるかと言えばもちろん決まっている。しかし、陰部を夫以外の男に見せることを嫌悪し、手遅れになって死ぬ女性は決して少なくなかった。
「お産婆さんは、熟練者であっても治療師じゃないから……。だから、私、治療師になりたかったんです。お産で苦しむ女の人のために、お母さんみたいな人を作らないために」
「その夢が、叶うといいな」
「でも、どうしてでしょう……っ! 夢が叶うのに、このまま行けばなれるのに……っ! どうしてお父さんの優しかったころのことばっかり思い出しちゃうんでしょう……!」
少女は自分の粗末な衣服を力いっぱい右の手で握りしめていた。
まるで鏡を見ているようで、リオンは思わず足を止めた。
――自分と同じだ。
救いを求めてジョカに目をやると、目が合った。
リオンを力づけるように、そっと微笑んでくれる。
リオンが足を止めたのでジョカも足を止め、少女も遅れて足を止める。
少女は二人から一歩進んだ位置で止まった。
少女は俯いて何かを考えていたが、やがて心を定めた澄んだ声で呼んだ。
「――先生」
「俺は、一度お前を助けた。二度目はないぞ」
「わかってます。先生は、優しいひとだけど、厳しいひとでもあるって良く知ってますから」
少女は顔を上げてジョカに笑いかけた。
「先生が、何度でも優しくなるのはリオンさんにだけ。他の人には一度だけです。私の権利は、私が先生に弟子入りしたときに使ってしまいました。私を助けてくれたのは、リオンさんが先生に頼んでくれたからです」
「よくわかっているじゃないか」
否定どころか飄々と、ジョカは頷く。
聞いていたリオンは驚く。
リオンの目には、ジョカはあくまで慈悲深く優しい治療師としか見えていなかったからだ。
それはリオンにとってのジョカがどこまでも優しいからだ。
けれども他の者にとってのジョカは大きくちがう。
少女の言うように、優しくはあるが限度がある。自分と他人の区切りをきっちりとつけて、依存されることを拒絶する。
「先生の、いちばん弟子ですから」
そう言って、少女は気丈に笑ってみせた。
「お金は、いつか必ずお返しします。助けていただいて、ありがとうございました」
「参考までに、どうして戻るんだ? お前を手先にして俺を騙そうとし、お前を売ろうとした父親に、何故?」
「……父が、戻れる最後の機会だと思ったんです」
「ほう?」
「先生からいただいたお金で、借金を返済して悪い人との縁を断ち切れば、父は立ち直れるかもしれません。でも、このままでいたら父は間違いなくお金を浪費してしまいます。借金の返済ではなく、遊びで使ってしまうでしょう」
「それは、間違いないだろうな」
「父を叱って、お金を借金の返済にあてさせて、仕事をさせれば……。それができるのは、私だけです」
「阿呆。小娘のお前の言う事を聞くと思うのか。お前にそれができるのなら最初からこうなっていない」
手厳しく決め付けられて少女の顔が歪んだが、リオンも同感だった。
そもそも、父親の指図どおりにジョカに泣きついたことからしても、父親が身を持ち崩すのを止められなかったことからしても、少女が父親を止められないのは明白なのだ。
「忘れろ。お前の父親はもういないんだ」
少女は、泣き笑いの表情になった。
「……先生の言葉は、いつも正しいです。でも、ごめんなさい。駄目なときは、戻ってきます。先生の奴隷になります。出してくれたお金は必ず返します。でも、一回だけ、試してみたいんです」
少女はぺこりと頭を下げると、くるりと身を翻して戻っていった。
リオンはジョカを見つめる。
「……どうする?」
ジョカは昔、出会ったばかりの頃と微塵も変わらぬ面白がっている表情で、リオンを眺める。
「俺はリオンに同じことを聞くだけだ。どうする? ってな」
リオンは渋面になった。
たぶんこの時点では皆様リンカに非難ごうごうでしょう。
次の次の次からリンカ事情編スタートです。
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